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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第21話 席を焼く

 旧監視室から持ち帰ったカードケースは、祓戸連盟大阪支部の封印室へ運ばれた。


 特殊事案係の事務所ではない。


 病院でもない。


 警察署でもない。


 古い雑居ビルの地下にある、窓のない小部屋だった。


 床には白い線が引かれている。


 壁には古い木札が並び、部屋の四隅には小さな香炉が置かれていた。


 蛍光灯はついている。


 それでも、部屋全体に薄い朝靄のようなものがかかって見えた。


 ここは、見るための部屋ではない。


 封じるための部屋だ。


 御影が机の上へ黒い布を敷き、その中央にカードケースを置いた。


 図書館の古い目録箱のような形。


 細長い引き出しの中に、白いカードが並んでいる。


 旧監視室では、中身を見なかった。


 名前に触れれば呼ぶ。


 そう言われたからだ。


 だが、ここで見なければならない。


 招待係が何をしていたのか。


 誰を席へ座らせようとしていたのか。


 それを知らなければ、次の手が打てない。


 榊原は音声のみで繋がっている。


 間宮も同じだった。


 三上は別室にいる。


 画面は見せない。


 紙に落とした情報だけを受け取り、必要な照合だけを行うことになっていた。


 橘は机の横に立ち、記録用の紙を用意している。


 真壁は扉の前。


 烏丸は椅子に座らず、壁際で白い杖を両手で持っていた。


 御影が短く言う。


「今から、名簿を開きます」


 その声だけで、部屋の空気が重くなった。


 敦は右手を胸の前に置いた。


「先に守ります」


 誰も止めなかった。


 白い力を、薄く広げる。


 強い結界ではない。


 カードケースそのものを包むほど強くはしない。


 証拠まで焼くわけにはいかない。


 だから、守るのは人だ。


 橘。


 御影。


 烏丸。


 真壁。


 自分。


 さらに、音声回線の向こうへ流れないように、机の周囲の空気も少しずらす。


 声は通る。


 だが、黒い意味だけは通しにくくする。


 御影が札を見た。


「この強さなら大丈夫です。カードの痕跡は消えません」


 烏丸も頷いた。


「良い未来です。薄い守りがある方が、悪い未来が減ります」


「もっと早くやるべきでしたね」


 敦が言うと、橘が淡々と返した。


「今から標準運用にします」


「標準運用」


「はい。龍宮寺さんが前に出る前に、まず守る」


 その言い方が少しだけくすぐったかった。


 自分が守る。


 だが、守り方を周囲が運用に落とす。


 この世界らしい。


 魔王軍との戦場では、そんな言い方はしなかった。


 けれど、悪くはない。


 御影が札を三枚、カードケースの周囲に置いた。


「名前を読み上げないでください。見えた内容は、必要な部分だけ記録します」


 橘が頷く。


「役割名と危険度のみ。個人名は読み上げません」


 榊原の声が回線から入る。


『了解。こちらでも名前は復唱しません』


 間宮も続いた。


『個人情報としても危険です。必要最小限で』


 御影は深く息を吸った。


 そして、カードケースの引き出しへ指をかける。


 ぎい、と古い木が鳴った。


 引き出しが開く。


 中には、白いカードが並んでいた。


 何十枚。


 いや、もっとある。


 一枚一枚の端に、黒い点がついている。


 席番号のようにも見えた。


 御影が一枚目を、指ではなく札で挟んで少しだけ引き上げる。


 カードには、黒い文字が浮かんでいた。


 敦は読んだ。


 読んでしまった。


 橘怜奈。


 その横に、細い文字。


《記録係候補》


 カードの端から、黒い糸が伸びている。


 目の前の橘へ。


 橘の指が、わずかに動いた。


 ペンを持つ手が、勝手に紙へ向かおうとする。


 敦の結界が白く震えた。


 橘はすぐに自分の手を押さえた。


「……来ました」


 声は落ち着いていた。


 だが、指先は震えている。


 記録係。


 黒玻璃堂は、橘をそう見ている。


 敦を止め、現場を書き残し、判断を整える人間。


 それを、役として奪おうとしている。


 敦の腹の奥が、熱くなった。


 二枚目。


 三上悠斗。


《観測者席》


 別室の方から、椅子が鳴る音がした。


 橘が無線を押す。


「三上さん、画面を見ないで」


 別室から、少し遅れて返事が来た。


『見てません。でも、机の上の資料を見たくなりました』


「紙も伏せてください」


『はい』


 紙を伏せる音がした。


 三上の役割。


 観測者。


 見る者。


 探す者。


 追う者。


 黒玻璃堂は、そこにも席を用意していた。


 三枚目。


 御影沙夜。


《封じ係》


 御影の手元の札が、ひとりでに震えた。


 まるで、彼女自身を縛ろうとするように。


 御影は唇を噛み、札を押さえた。


「……私にも来ています」


 四枚目。


 烏丸透。


《予見席》


 烏丸が白い杖を強く握った。


 その顔から、いつもの軽さが消える。


「未来が、狭くなりました」


「どういうことです」


 敦が聞く。


「僕が見える悪い未来を、向こうが席として固定しようとしています。地雷を見る者を、地雷の一部にするつもりです」


 敦は奥歯を噛んだ。


 五枚目。


 真壁。


《警護席》


 扉の前にいた真壁の肩が、わずかに強張った。


 腕が、勝手に扉を塞ぐ位置へ動きかける。


 真壁は無言で自分の手首を掴んだ。


「……来た」


 短い声だった。


 敦の腹の奥が、さらに熱くなる。


 前に立つ者。


 道を塞ぐ者。


 人を逃がすために、黙って体を張る者。


 それすら、黒玻璃堂は席にしようとしている。


 六枚目。


 間宮律子。


《契約係》


 音声回線の向こうで、間宮の息が止まった。


 すぐに、低い声が返る。


『こちらにも、何か来ています。契約書を開きたくなる感じです』


 榊原が即座に言う。


『開かないで』


『開きません』


 間宮の声は冷静だった。


 だが、その冷静さが逆に怖かった。


 七枚目。


 榊原美津子。


《管理席》


 回線の向こうで、紙を置く音がした。


 榊原の声が少しだけ硬くなる。


『こちらも確認。命令書を書きたくなる。……なるほど、管理する側を席にするわけね』


 敦は、カードケースを見た。


 黒い糸が、次々に伸びている。


 橘へ。


 三上へ。


 御影へ。


 烏丸へ。


 真壁へ。


 間宮へ。


 榊原へ。


 敦本人を席にしようとするだけではない。


 敦を止める人間。


 敦を守る人間。


 敦が暴走しないようにしてくれる人間。


 その全部を、黒玻璃堂は役として切り分け、席へ縫いつけようとしている。


 敦は、静かに息を吐いた。


「御影さん」


「はい」


「これ、紙ごと焼いたらあかんやつですね」


「はい。名簿は証拠です。紙も文字も残したい」


「名前に刺さってる糸は?」


 御影は敦を見た。


 その目に、止める色はなかった。


「焼いていい場所です」


 その一言で、敦の中の何かが決まった。


 橘がこちらを見る。


「龍宮寺さん」


「大丈夫です」


「怒っていますね」


「怒ってます」


「燃やしすぎますか」


「燃やしません」


 敦はカードケースの前へ一歩出た。


 白い結界が、少しだけ厚くなる。


 だが、部屋全体を飲み込むほどではない。


 カードを焼かない。


 名前を焼かない。


 証拠を消さない。


 だが、人を席に縫いつける糸は、一本も残さない。


 黒い糸が反応した。


 カードケースの中で、何十枚ものカードが一斉に震える。


 ぱら。


 ぱら。


 ぱらぱらぱら。


 紙をめくる音が、部屋いっぱいに広がった。


 招待状を数える音。


 席を数える音。


 人を、番号に変える音。


 敦の胸の奥で、白い火が静かに起き上がる。


 爆ぜる怒りではない。


 燃え広がる怒りでもない。


 もっと低い。


 もっと深い。


 異世界で、魔王軍が避難民の列を餌にした時と同じ種類の怒りだった。


 人を、数として扱うものへの怒り。


 助けを求める声を、罠に変えるものへの怒り。


 守ろうとする人間を、役として奪おうとするものへの怒り。


 敦は低く言った。


「俺を客にするなら、まだ分かる」


 誰も口を挟まなかった。


「俺を撮るとか、測るとか、席を用意するとか、それも腹は立つけど、まだ分かる」


 白い光が、敦の足元から薄く広がる。


 床の白線と重なり、御影の青い線の外側へ添う。


 御影の術を壊さない。


 烏丸の未来を塞がない。


 橘の記録を奪わない。


 ただ、黒い糸だけを浮かせる。


「けどな」


 敦はカードケースを睨んだ。


「俺を止めてくれてる人らに、席を用意するな」


 黒い糸が、いくつも敦へ向かって伸びた。


 白い結界に触れる。


 触れた瞬間、糸は燃えなかった。


 まず、浮いた。


 人から離れた。


 役割の文字から離れた。


 名前から離れた。


 御影が息を呑む。


「剥がしている……?」


「焼く前に、外してます」


 敦は右手を開いた。


 黒い糸が、ふわりと宙に浮く。


 橘の指の震えが止まった。


 別室から、三上の息を吐く音が聞こえた。


 御影の札の震えが止まる。


 烏丸が目を見開いた。


 真壁が、自分の手首から静かに手を離した。


「悪い未来が、減っています」


「今なら焼いていいですか」


 敦が聞くと、烏丸は頷いた。


「はい。今です」


 御影も、はっきりと言った。


「焼いてください」


 敦は白い光を握った。


 そして、静かに放した。


 炎ではなかった。


 刃でもなかった。


 白い波だった。


 宙に浮いた黒い糸だけを、静かに撫でていく。


 橘へ伸びていた《記録係候補》の糸が焼ける。


 紙は残る。


 文字も残る。


 だが、橘を記録係として縛る黒い意味だけが消える。


 三上の《観測者席》が震え、席の形だけが崩れる。


 名前は残る。


 カードも残る。


 だが、三上を客席へ座らせる力は消える。


 御影の《封じ係》から、彼女の札へ伸びていた糸が切れる。


 烏丸の《予見席》は、椅子の輪郭だけが白く砕けた。


 真壁の《警護席》は、扉を塞がせようとする黒い立ち位置だけが崩れた。


 間宮の《契約係》は、黒い契約印だけが焼け落ちる。


 榊原の《管理席》は、席という字の下にあった黒い脚が消えた。


 紙は燃えない。


 証拠は残る。


 だが、人を役に落とす仕組みだけが、次々に焼き抜かれていく。


 カードケースの奥から、声がした。


「なぜ」


 招待係の声ではない。


 上映係の声でもない。


 もっと奥。


 もっと薄い。


 紙の束の向こう側から、誰かが息を漏らしたような声。


「席が、消える」


 敦は返事をしない。


 会話しない。


 怒りを餌にしない。


 ただ、焼くべき場所だけを焼く。


 黒い糸が暴れた。


 何枚ものカードが飛び出そうとする。


 御影が札で押さえる。


 橘が紙を押さえる。


 真壁が机の脚を押さえる。


 烏丸が白い杖を床に打つ。


「右奥、まだ残っています!」


「見えました」


 右奥のカード。


 そこには、名前ではなく、白い空欄があった。


 空欄の横に、黒い文字。


《白い聖者 特別上映席》


 敦は、そのカードを見た。


 これは、自分の席だ。


 ずっと用意されていた席。


 鏡から。


 レンズから。


 写真から。


 映画から。


 DMから。


 待合室から。


 監視室から。


 黒玻璃堂は、ずっとこの席へ敦を座らせようとしていた。


 敦は笑った。


 短く。


 低く。


「いらん」


 白い光が、空欄のカードへ伸びる。


 御影が叫んだ。


「カードは残して!」


「残します」


 敦は、カードを焼かなかった。


 特別上映席、という黒い座席の形だけを掴む。


 それは重かった。


 人の期待。


 恐怖。


 好奇心。


 奇跡を見たい欲。


 聖者を見たい欲。


 助けてほしい声。


 証明しろという声。


 それらが、座席の形に押し固められている。


 全部を焼けば、そこに混じった人の感情まで傷つける。


 だから、座席の骨だけを抜く。


 敦は白い力を細くし、座席を形作る黒い芯へ通した。


 ぱきん。


 小さな音がした。


 カードの上にあった椅子の影が、砕けた。


《白い聖者 特別上映席》


 文字は残っている。


 だが、もう席ではない。


 ただの記録だ。


 カードケース全体が、がたん、と震えた。


 部屋の四隅の香炉の煙が、白く揺れる。


 御影の青い線が一気に安定した。


 烏丸が、深く息を吐いた。


「悪い未来が、かなり減りました」


 敦はまだ手を下ろさなかった。


「かなり、だけですか」


「全部ではありません。でも、今のは大きいです」


 御影がカードケースを見た。


「この名簿から、こちら側の人間を役にする力が消えています」


 橘が自分の手を見た。


 ペンは震えていない。


「私は、記録できます」


「させられているのではなく」


 御影が言うと、橘は頷いた。


「はい。自分の意思で」


 別室から三上の声が入った。


『こちらも大丈夫です。資料を見ても、画面を探す感じはありません』


 真壁が自分の手首を一度だけ回した。


「こっちも問題ない。扉を塞ぎたい感じは消えた」


 間宮の声も続く。


『契約書を開きたい衝動は消えました。……不愉快な術式ですね』


 榊原が低く言った。


『管理席という表現も、非常に不愉快です』


 敦はようやく手を下ろした。


 怒りは消えていない。


 だが、燃え広がってはいない。


 御影がゆっくりカードケースの引き出しを閉じた。


 ぎい、と木が鳴る。


 その音は、もう紙をめくる音には聞こえなかった。


「閉じます」


 御影が札を重ねる。


 青い線がカードケースを囲む。


 今度は、黒い滲みがほとんど出ない。


 カードケースは、ただの危険な証拠品として机の上に残っていた。


 危険ではある。


 だが、人へ糸を伸ばす力は落ちている。


 敦は、そのことを肌で分かった。


 橘が記録紙を見下ろす。


「黒玻璃堂名簿。特殊事案係、祓戸連盟、弁護士を役割化する術式を確認。龍宮寺さんが、対象者へ伸びる糸と座席化の芯のみを処理。紙、文字、名簿は残存」


「あと、何て書きます?」


 敦が聞くと、橘は少しだけ考えた。


「龍宮寺さん、怒りました」


「そこも書くんですか」


「書きます」


 榊原の声が回線から入る。


『必要です』


 間宮も続いた。


『必要です。怒ったうえで、対象を選んで処理できた。重要な記録です』


 敦は頭を掻いた。


「何か、恥ずかしいですね」


 烏丸が小さく笑った。


「良い恥です」


「そんな種類あります?」


「あります」


 御影がカードケースに封印布をかぶせた。


「今回は、止めませんでした」


 敦は御影を見る。


「はい」


「止めるべきところではなかったからです」


 御影の声は静かだった。


「あなたが焼いた場所は、正しかった」


 敦は、少しだけ返事に困った。


 褒められたかったわけではない。


 ただ、腹が立った。


 仲間を役にされるのが嫌だった。


 席へ縛られるのが嫌だった。


 けれど、その怒りを認められると、胸の奥で固まっていたものが少しだけ緩んだ。


 橘が記録紙を閉じる。


「これで、少なくともこちら側の支援者を席へ落とす経路は潰れました」


 榊原が続ける。


『黒玻璃堂側にとっても損失でしょう。名簿は残った。証拠も残った。けれど、こちらを縛る機能だけ失った』


 三上が別室から言う。


『新規のDM送信も、今のところ再開していません。名簿側の反応、ほぼ停止』


 烏丸が白い杖を床に置いた。


「良い未来です」


「かなり?」


「はい。かなり」


 その言葉で、部屋の空気が少しだけ軽くなった。


 勝った。


 全部ではない。


 黒玻璃堂を潰したわけではない。


 映写主も、まだどこかにいる。


 けれど、この名簿は潰した。


 人を席へ変える仕組みを、一つ焼き抜いた。


 それは、今までとは違う勝ちだった。


 カードケースの封印布の上に、黒い文字が一瞬だけ浮かんだ。


 御影が札を構える。


 敦も手を上げかける。


 だが、文字は攻撃ではなかった。


 ただの反応。


《席数、減少》


 続けて、もう一行。


《映写主、再計算》


 敦はそれを見て、低く笑った。


「困ってますね」


 烏丸が頷いた。


「悪い未来が、慌てています」


「未来って慌てるんですか」


「今は、そう見えます」


 橘が紙に書き取る。


「《席数、減少》《映写主、再計算》」


 御影が黒い文字を札で押さえた。


「消します」


「お願いします」


 敦は焼かなかった。


 もう、十分焼いた。


 御影の青い線が文字を包み、黒い滲みを封じ込める。


 文字は静かに消えた。


 部屋は再び静かになる。


 榊原が音声回線越しに言った。


『今日は、ここまで』


 敦は反射的に口を開きかけた。


 だが、何も言わなかった。


 榊原が続ける。


『今、黒玻璃堂は再計算している。こちらも再計算する。焦って追えば、向こうの新しい計算に乗せられる』


「分かってます」


 橘がこちらを見る。


「本当に?」


 敦は息を吐いた。


「今日は、分かってます」


 烏丸が少しだけ笑った。


「良い未来です」


 御影も頷く。


「この名簿を潰したことは、大きいです。今夜のうちに支部で完全封印します」


 間宮の声が入る。


『龍宮寺さん、今の処置について、後で短い聞き取りをします。能力の詳細ではなく、何を焼かず、何を焼いたかの確認です』


「はい」


『それと、休息も契約のうちです』


「そこも来ますか」


『来ます』


 敦は苦笑した。


 現代は、本当に面倒だ。


 怪異を焼いた後に、聞き取りと休息確認が来る。


 だが、その面倒さが、今は少しありがたかった。


 誰かが勝手に席を用意する世界で、こちらの大人たちは席を外す方法を考えてくれる。


 黒玻璃堂は、人を役にする。


 榊原たちは、人を役にしないために手順を作る。


 その違いが、今ははっきり分かった。


 敦は封印されたカードケースを見た。


 もう、紙をめくる音はしない。


 ぱら、という嫌な音は消えている。


 かわりに、部屋の外から普通の足音が聞こえた。


 支部の誰かが、廊下を歩く音。


 現実の音。


 誰かを呼ぶ音ではない。


 敦は目を閉じ、短く息を吐いた。


「次は、映写主ですね」


 御影が言う。


「はい。ただし、こちらから急いで席には座りません」


「座りません」


 橘が記録紙を閉じる。


「それも記録しておきます」


「何でも記録されるなあ」


「記録係ですから」


 そう言ってから、橘は少しだけ眉を上げた。


 そして、自分で言い直す。


「いえ。記録担当です。係ではありません」


 敦は少し笑った。


「そっちの方がええです」


 橘も、ほんの少しだけ笑った。


 黒玻璃堂の名簿は、もう彼女を係にはできない。


 その事実だけで、少しだけ胸が軽くなった。


 映写主は、まだどこかでこちらを見ている。


 だが、席は減った。


 黒玻璃堂の計算は狂った。


 なら、次はこちらが考える番だ。


 敦は白い力を完全に収めた。


 燃やすべき場所を間違えなければ、怒りは武器になる。


 今日、それを少しだけ分かった気がした。


 

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