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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第20話 見張る部屋

 すぐには突入しない。


 榊原はそう言った。


 そして、本当にすぐには動かなかった。


 それが、敦には少し意外だった。


 国の部署。


 怪異対応。


 人が狙われている。


 敵の場所らしきものが見えた。


 なら、多少無茶でも踏み込めと言われるかと思っていた。


 けれど、榊原は違った。


 旧港湾系の地下防災監視室。


 そこが候補に上がってから、特殊事案係はまず現地の図面を出した。管理会社、港湾関係の古い資料、警察の設備更新記録、閉鎖時の引き継ぎ書。


 画面には出さない。


 すべて紙に落とす。


 机の上には、印刷された平面図が何枚も並べられた。


 赤い丸。


 青い矢印。


 黄色い付箋。


 旧監視室。


 非常階段。


 排水ポンプ室。


 古い放送卓。


 撤去済み監視モニター。


 撤去済み、と書かれているのに、橘はその文字へ赤線を引いた。


「撤去済みは信用しません」


「ですよね」


 敦は頷いた。


 ここまで来ると、撤去済み、閉鎖済み、廃業済み、管理外、という言葉はほとんど信用できない。


 黒玻璃堂は、そういう場所ばかり使っている。


 人がいなくなった場所。


 けれど、人がいた記憶だけが残る場所。


 写真館。


 映画館。


 待合室。


 倉庫。


 そして、監視室。


 御影は平面図の端に札を置きながら言った。


「監視室は、少し特殊です」


「見る場所、ですよね」


「はい。でも、映画館とは違います。映画館は同じものを見る場所。監視室は、複数の場所を同時に見る場所です」


 烏丸が白い杖を膝の上に置いたまま、紙の地図へ顔を近づける。


 妙に近い。


 目が悪いというより、紙の裏側を見るような距離だった。


「悪い未来も、同時にいくつかあります」


「どれですか」


 敦が聞くと、烏丸は地図の上を指でなぞった。


「正面入口から入る未来は悪いです。左の非常階段も悪い。けれど、右の搬入口から入る未来は、まだましです」


「まだまし」


「はい。今日はまだましで生きましょう」


「縁起悪いなあ」


「良い未来が少ない時は、まだましな未来が大事です」


 橘が淡々と書き取る。


「右搬入口から進入。正面入口と非常階段は警察で封鎖。一般人の接近禁止。映像記録は原則使用しない。記録は紙と音声。現場の画面は伏せるか遮蔽」


 敦は平面図を見た。


 見る場所。


 見張る場所。


 黒玻璃堂は、おそらくそこを利用する。


 なら、ただ言われた通りに目を逸らすだけでは足りない。


「先に、こっちを守ります」


 敦が言うと、橘が顔を上げた。


「結界ですか」


「薄いやつです。強く張ると、中の証拠まで焼くかもしれんので」


 御影が少しだけ目を細めた。


「できますか」


「できます。ただ、こっちの怪異相手にどこまで効くかは分かりません」


「十分です。完全に閉じると、こちらの術も通りにくくなります。薄い守りなら助かります」


 敦は頷いた。


 異世界で瘴気の森を抜ける時、仲間にかけていた守りを思い出す。


 魔物を弾くほど強いものではない。


 だが、悪意の混じった空気や、目に入る前の穢れを少しだけ鈍らせる。


 そして、今の敵にはもう一つ要る。


 音だ。


 敦は指先で机を軽く叩いた。


 こつん。


 その振動を、無属性の力でほんの少しずらす。


「音も、最初から少しずらします。完全に消すと連携できなくなるんで、意味がまっすぐ入らん程度に」


 烏丸が白い杖を握り直した。


「良い未来です。完全結界は悪いですが、その薄さなら、かなりましです」


「今日は、まだましで生きる日でしたね」


「はい」


 間宮の声が、音声回線から入った。


『龍宮寺さん』


「はい」


『確認します。今回の目的は、招待係の仕事を止めること。旧監視室のすべてを解決することではありません』


「分かってます」


『本当に?』


「……だいぶ怪しいです」


『では、周囲が止めます』


 敦は苦笑した。


「最近、その確認多くないですか」


『必要だからです』


 間宮は容赦がない。


『あなたが動けることと、動いていいことは違います。現場で新しい能力を使う必要がある場合は、必要最小限。説明は現場リスクとしてだけ。能力の全容は話さないこと』


「はい」


『あと、敵があなたを褒めても、乗らないこと』


 敦は一瞬黙った。


 待合室で聞いた男の声を思い出す。


 いいですね。


 焼く場所を、覚えてきた。


 あれは褒め言葉ではない。


 観察だ。


 測定だ。


 誘導だ。


「分かってます」


『分かっている人ほど、腹を立てた時に忘れます』


「痛いとこ突いてきますね」


『仕事です』


 榊原が紙の資料を閉じた。


「現場班は出発。こちらは後方で指揮を取ります」


 榊原はそこで、敦を見た。


「繰り返しますが、突入ではなく確認と停止。招待係がいた場合、身柄確保は警察と連携。龍宮寺さんは人を焼かない」


「焼きません」


「怪異や術式の糸は?」


「必要なら焼きます」


「本体は?」


「証拠が要るなら焼かない」


「よし」


 榊原は頷いた。


「では、お願いします」


 車内に、スマホはなかった。


 正確には、私物端末は遮断袋の中に入れられている。


 連絡は車載無線。


 地図は紙。


 現地写真も必要最低限だけ、すでに印刷済み。


 三上は事務所に残っていた。


 画面は見ない。


 分析班が紙で情報を出し、三上はそれを確認するだけ。


 本人はかなり不満そうだったらしいが、橘が「あなたも保護対象です」と言ったら、それ以上は言わなかったという。


 敦はそれを聞いて、少しだけ安心した。


 敵が見る人間を狙うなら、見る仕事をしている者ほど危ない。


 そこを分かって止める人間がいる。


 それは、かなり大きい。


 車は川沿いを走った。


 空はすっかり夕方の色を濃くしている。


 橋の下。


 古い倉庫。


 水門。


 錆びた柵。


 その一角に、低いコンクリートの建物があった。


 地上から見ると、ただの倉庫にしか見えない。


 だが、横手の階段が地下へ続いている。


 そこに、古い看板が残っていた。


《港湾第三区 防災監視室》


 文字は剥げ、端は錆びている。


 その上から、新しい白い紙が貼られていた。


 敦は文字を追いかけかけて、すぐに視線を外した。


「また新しい紙ですか」


 橘が横から紙面を確認し、短く読み上げる。


「設備点検中、だそうです」


 敦はため息をついた。


「ほんま、新しい紙好きですね」


 橘が警察官に確認する。


「この紙は?」


「管理会社は貼っていないそうです」


「でしょうね」


 御影が札を取り出した。


「紙には触らないでください。入口札です」


「入口札?」


「この紙を正面から読むと、自分が点検員だと思わされる可能性があります」


 敦は顔をしかめた。


「そんなことまで」


「監視室は、役割を与える場所です。見る者、記録する者、報告する者。黒玻璃堂は、そこを使っている」


 烏丸が白い杖で地面を軽く叩いた。


「その紙を読んで入る未来は悪いです。読まずに剥がす未来も悪い。上から覆う未来が良いです」


「見ないで蓋、ですね」


 橘が黒い布を受け取る。


 真壁が紙を直視しないように横から布をかぶせ、養生テープで止めた。


 紙は見えなくなった。


 それだけで、入口の空気が少し軽くなる。


 右側の搬入口は、古い金属扉だった。


 鍵は管理会社が持っていた。


 だが、鍵を差し込んだ瞬間、扉の奥から小さな電子音がした。


 ぴ。


 敦は眉を寄せる。


「電気、通ってるんですか」


 管理会社の男が青ざめる。


「いえ、ここはもう」


 橘がすぐに男を下がらせた。


「ここから先は下がってください」


 御影が扉へ札を近づける。


 札の端が黒く滲んだ。


「監視されています」


「扉に?」


「扉の向こう側に、こちらを見るものがあります」


 敦は扉の前で息を吐いた。


「ここで張ります」


 右手を胸の前に置く。


 白い光を、燃えるほど強くは出さない。


 薄く。


 淡く。


 自分たちの周囲を包むだけ。


 橘。


 真壁。


 御影。


 烏丸。


 そして、自分。


 光は輪にならない。


 壁にもならない。


 ただ、皮膚の少し外側に、白い薄布をまとわせるように広がった。


 同時に、敦は耳元の空気を薄くずらした。


 声は聞こえる。


 足音も聞こえる。


 けれど、悪意を乗せた音だけが、ほんの少し横へ逸れる。


 橘が小さく息を呑んだ。


「軽い膜がある感じです」


「守りです。強くはないですけど」


 御影が手元の札を見た。


 札は燃えない。


 青い線も途切れない。


「この強さなら、こちらの術も通ります」


 烏丸が頷いた。


「良い未来です。少なくとも、最初の一撃は鈍ります」


「十分です」


 敦は扉を見た。


「見せられる前に、こっちから目を細めて入ります」


 烏丸が言う。


「開けた瞬間、正面に立っている未来は悪いです」


「じゃあ、横から」


 真壁が扉の横に立つ。


 敦も横へずれた。


 橘は背後で警察官を制する。


 御影が札を一枚、扉の隙間へ滑らせた。


「開けます」


 金属扉が、きい、と鳴った。


 中は暗い。


 いや、暗いはずだった。


 正面の奥に、黒い丸がいくつも浮かんでいる。


 監視カメラのレンズ。


 古いもの。


 新しいもの。


 種類の違うカメラが、壁や天井に不自然に取りつけられていた。


 全部が入口を見ている。


 敦は目を細めた。


「多いな」


「こちらを見るためです」


 御影が低く言う。


「入る前に、目を逸らさせます」


「外に伸びてる視線は焼く。人に刺さってるやつは浮かせてから。機材の芯は残す。ですよね」


 御影が一瞬だけ敦を見た。


 それから、頷く。


「はい。もう分かっていますね」


「だいぶ嫌な勉強しましたから」


「では、お願いします」


 敦は右手を上げた。


 無属性魔法を細く伸ばす。


 カメラ本体には触れない。


 レンズにも触れない。


 固定している金具の向きだけを、ほんの少しずつずらす。


 ぎ。


 ぎぎ。


 古い金具が軋む。


 一台。


 二台。


 三台。


 入口を見ていた黒い丸が、少しずつ壁へ向いた。


 最後の一台だけが抵抗した。


 レンズの奥に、黒い座席のようなものが見えた。


 そこから、細い糸がこちらへ伸びる。


 だが、糸は敦たちの周囲の薄い白い膜に触れた瞬間、わずかに鈍った。


 直撃しない。


 それだけで、十分だった。


 敦は白い力を出した。


 薄く。


 レンズの表面に絡んだ糸だけを焼く。


 カメラは壊さない。


 レンズも割らない。


 黒い糸だけが、じゅ、と消えた。


 カメラが力を失ったように、横へ向いた。


「入りましょう」


 橘が小さく言った。


 搬入口の奥は、細い廊下だった。


 壁には古い配管。


 天井には非常灯。


 床には水染み。


 遠くから、低い機械音が聞こえる。


 ぶうん。


 ぶうん。


 映写機ではない。


 モーターの音。


 空調か、古いサーバーか、放送設備か。


 だが、その中に時々、紙をめくる音が混じる。


 ぱら。


 ぱら。


 招待係。


 敦はその言葉を思い出した。


 音に混じる黒い針が、耳元の薄い空気膜に当たり、少し横へ逸れる。


 聞こえる。


 けれど、奥まで入らない。


 烏丸が立ち止まる。


「右の壁は見ないでください」


「またですか」


「右の壁には、古い監視画面の一覧が貼られています。今は別の一覧になっています」


 敦は視線を左へ寄せた。


 御影が右の壁へ札を投げる。


 札が青く光る。


 その瞬間、壁に貼られていた紙が一斉に揺れた。


 警備配置表。


 避難経路。


 監視カメラ番号一覧。


 古い紙の上に、黒い文字が浮かびかける。


《観客一覧》


 御影が声を上げる。


「見ないで!」


「見ません。膜に当たってます」


 敦は白い光を横へ流す。


 文字そのものではなく、文字を浮かべる黒い膜だけを焼く。


 紙は残る。


 印刷された古い文字も残る。


 だが、上書きされようとしていた観客一覧だけが消えた。


 橘が紙に記録する。


「廊下右壁、監視カメラ番号一覧に黒文字浮上。観客一覧化の兆候。龍宮寺さんが表面残滓のみ処理。事前結界により接触は弱化」


「そこまで書くんですか」


「大事です」


「まあ、確かに」


 敦は軽く息を吐いた。


 廊下の奥に、鉄の扉があった。


《監視室》


 その下に、小さなプレート。


《関係者以外立入禁止》


 さらに、その上から黒い細い線で、別の文字が書かれていた。


《招待係以外立入禁止》


 敦は、その文字を見てしまった。


 だが、今度は引っ張られなかった。


 文字より先に、腹が立ったからだ。


 そして、薄い白い膜が、文字から伸びた黒い針を弾いていた。


「勝手に係を作るなや」


 御影が札を構える。


「扉の向こうが中心です」


 烏丸が白い杖を握る。


「扉を開けたら、正面は見ない。床を見る未来が良いです。机の上を見る未来は悪い。声に返事をする未来は、かなり悪い」


「向こうが話してきても無視」


「はい」


 橘が確認する。


「龍宮寺さん、守りは保ちますか」


「保ちます。ただ、監視室の中ではもっと薄くします。証拠が多そうなんで」


「分かりました」


 真壁が扉に手をかける。


 御影が札を床へ置いた。


 青い線が、扉の隙間へ入る。


「開けてください」


 扉が開いた。


 監視室の中は、薄暗かった。


 そして、明るかった。


 矛盾した感覚だった。


 部屋の照明はついていない。


 だが、壁一面に並んだ古いモニターが、青白く光っている。


 ブラウン管。


 液晶。


 小型テレビ。


 監視モニター。


 形式も年代もばらばらな画面が、あり得ない数で並んでいた。


 本来、この部屋にあった設備ではない。


 黒玻璃堂が持ち込んだものだ。


 画面は、すべて伏せられていない。


 だが、どの画面にも何かが映っている気配がある。


 敦は床を見た。


 烏丸の言葉通り、床を見る。


 画面は見ない。


 床には、ケーブルが蛇のように這っていた。


 黒い線。


 赤い線。


 古い同軸ケーブル。


 新しいLANケーブル。


 延長コード。


 そのすべてが、部屋中央の放送卓へ集まっている。


 放送卓。


 古いマイク。


 ボタン。


 スイッチ。


 緊急放送用の赤いランプ。


 その前に、椅子が一つ。


 誰も座っていない。


 だが、椅子の背には、白い腕章が掛けられていた。


《招待係》


 敦は思わず笑いそうになった。


 怒りで。


「制服まで用意してるんか」


 その瞬間、スピーカーから声がした。


「係は、必要です」


 待合室で聞いた男の声。


 封筒の奥で聞いた声。


 招待係。


 御影がすぐに言う。


「返事をしないで」


「しません」


 敦は耳元の空気膜を少しだけ厚くした。


 声は聞こえる。


 内容も分かる。


 けれど、胸の奥へ直接入ってくる感じは薄い。


 男の声は続いた。


「観客は、自分では席を選べません」


 敦は床を見る。


 黒い糸が、放送卓から部屋の四方へ伸びている。


 モニターへ。


 ケーブルへ。


 奥の小さなサーバーラックへ。


 そして、天井の古いスピーカーへ。


「だから、こちらが案内する」


 橘が小声で言う。


「音声記録は?」


 真壁が首を振る。


「録ってない。記録は俺が書く」


 真壁が紙に短く書いている。


 声の内容。


 時間。


 場所。


 画面を使わない記録。


 今は、それが一番安全だった。


 御影が放送卓へ札を投げた。


 札は途中で黒く焦げた。


 届かない。


「強いです」


「外へ伸びてる糸から落とします」


 敦は右手を低く構えた。


 画面は見ない。


 放送卓の足元を見る。


 ケーブルに絡んだ黒い糸。


 そこへ白い光を細く走らせる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 糸が焼ける。


 壁のモニターが、一斉にざわめいた。


 画面を見ていないのに、分かる。


 そこに映っている何かが、こちらを向いた。


 だが、視線のいくつかは、敦たちの薄い結界に触れて鈍る。


 完全には防げない。


 でも、いきなり目の奥を刺されることはない。


 御影が息を呑む。


「画面が反応しています」


「見ません。結界も保ってます」


 敦はさらに床を見る。


 床だけを見る。


 床に落ちた埃。


 ケーブル。


 水染み。


 黒い糸。


 そこだけに集中する。


 スピーカーから、男の声がした。


「白い聖者。あなたは、よく我慢しますね」


 敦は返事をしない。


「壊せば早いでしょう」


 返事をしない。


「燃やせば楽でしょう」


 返事をしない。


「でも、燃やせない。なぜなら、人間が混じっている」


 敦の手が止まりかけた。


 橘がすぐに言う。


「龍宮寺さん」


「止まってません」


「はい」


 御影が低く続ける。


「言葉で揺らしています。聞き流して」


「努力します」


 白い膜が、声に混じる黒い針を少しだけ逸らしている。


 それでも、言葉そのものは刺さる。


 人間が混じっている。


 それは事実だからだ。


 烏丸が杖を床へ強く当てた。


「左奥のサーバーラック。そこを先に止める未来が良いです」


「放送卓じゃなくて?」


「放送卓は口です。左奥は名簿です」


 名簿。


 敦の視線が床を伝って左奥へ向く。


 サーバーラックの下に、黒い紙束が見えた。


 いや、紙束ではない。


 古いカードケース。


 図書館や病院の受付にありそうな、細長いカードが並ぶ箱。


 一枚一枚に、白い紙が差し込まれている。


 そこから黒い糸が伸びていた。


「名簿、ありました」


 御影が顔を上げる。


「見ないで。名前があるかもしれません」


「見ません」


 敦は無属性魔法で、カードケースの蓋を閉じようとした。


 だが、動かない。


 蓋の隙間から、紙が一枚飛び出しかける。


 御影が叫ぶ。


「出さないで!」


 敦は空気を固め、紙を押し戻した。


 手では触らない。


 名前も見ない。


 ただ、出ようとする動きを止める。


 カードケースの中から、紙をめくる音がした。


 ぱら。


 ぱら。


 ぱら。


 男の声が、少しだけ低くなる。


「招待客は、まだいます」


 敦は歯を食いしばった。


 御影が札を床へ滑らせる。


 青い線がカードケースの周囲を囲む。


「龍宮寺さん、ケースの外へ染みている黒だけ焼いてください。中身はまだ駄目です。名前に触ると、呼びます」


「分かりました」


 白い光を、さらに薄くする。


 ケースの表面に染みた黒い油。


 カードをめくろうとする指のようなもの。


 それだけを焼く。


 じゅ。


 じゅ。


 紙は燃えない。


 ケースも溶けない。


 黒い染みだけが薄れていく。


 カードケースが、ようやく沈黙した。


 橘が紙に書く。


「左奥カードケース。招待客名簿の可能性。外部残滓処理。中身未確認」


 スピーカーが、また鳴った。


「記録しますか」


 男の声は笑っていた。


「それも、観測です」


 敦は返事をしない。


 だが、腹の底が熱くなる。


 こちらが何をしても、相手はそれを見ている。


 記録すれば観測。


 処理すれば測定。


 我慢すれば評価。


 怒れば餌。


 やりにくい。


 実に、やりにくい。


 だからこそ、燃やして終わりにしたくなる。


 でも、それを待っている。


 この声は、きっとそれを待っている。


 烏丸が静かに言った。


「今、良い未来が一つあります」


「何ですか」


「放送卓のマイクを伏せてください」


「マイク?」


「口を下へ向ける」


 敦は放送卓を見ないように、床のケーブルを追った。


 古いマイクスタンド。


 卓の中央。


 そこから、声の黒い糸が出ている。


 壊す必要はない。


 口を塞ぐ必要もない。


 ただ、伏せる。


 敦は無属性魔法を伸ばし、マイクの首をゆっくり倒した。


 ぎい、と金属音。


 マイクが、卓の上に伏せる。


 その瞬間、男の声が歪んだ。


「……おや」


 初めて、声にわずかな乱れが混じった。


 御影が反応する。


「今です。放送の道が薄くなっています」


「マイクからスピーカーへ伸びる黒い線。機材は残す」


「はい」


 敦は白い光を走らせた。


 マイク。


 ケーブル。


 スピーカー。


 そこに乗っていた黒い線だけを焼く。


 部屋の天井で、スピーカーが一度だけ震えた。


 ぱん、と小さな音。


 壊れたわけではない。


 中に溜まっていた黒い膜が弾けた音だった。


 男の声が遠のく。


「……次は、席を」


 そこで切れた。


 監視室が静かになった。


 壁のモニターは、まだ光っている。


 けれど、声はしない。


 紙をめくる音も止まっている。


 御影が深く息を吐いた。


「招待係の声は切れました」


「本人は?」


「ここにはいません」


「やっぱり」


「ここは仕事場です。本人、あるいは本体は別にいる」


 敦は放送卓の前の椅子を見た。


 白い腕章。


《招待係》


 そこに人はいない。


 だが、誰かが座っていた気配だけがある。


 まだ温度が残っているような、嫌な空席。


 烏丸が白い杖を床へ置いた。


「腕章を見ないでください」


「またですか」


「見ると、係を引き継ぐ未来があります」


 敦は乾いた笑いを漏らした。


「ほんま、何でも席に座らせるな」


 御影が札を腕章へ投げる。


 青い線が絡む。


 腕章が、びくりと動いた。


 まるで、誰かの腕を探すように。


 敦は白い力を薄く流した。


 腕章の文字は残す。


 布も残す。


 ただ、腕を探して伸びる黒い糸だけを焼く。


 腕章は、ただの古い布になった。


 橘が紙に書く。


「招待係腕章。装着誘導あり。処理済み。証拠保全」


 真壁が入口側を確認する。


「外は問題ない」


 榊原の声が無線で入る。


『状況は』


 橘が応答する。


「旧監視室に到達。放送卓、複数モニター、カードケース、招待係腕章を確認。龍宮寺さんが事前に薄い簡易結界と音の遮りを展開。招待係の音声反応あり。放送経路を遮断。名簿と思われるカードケースは外部残滓のみ処理、中身未確認。現場は封じの準備へ移行します」


『龍宮寺さんの状態は』


「怒っていますが、燃やしていません」


 敦は思わず橘を見た。


「その報告、必要ですか」


『必要です』


 榊原と橘の声が、ほぼ同時に返ってきた。


 烏丸が少しだけ笑った。


「良い報告です」


「笑うとこちゃいます」


「いえ、かなり良いです」


 御影も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 だが、その空気は長く続かなかった。


 壁のモニターの一つが、音もなく明滅した。


 誰も見ていない。


 だが、光の変化は分かる。


 御影が顔色を変える。


「画面、動きました」


「見ません」


 敦は床を見た。


 光が床に反射している。


 そこに、文字が映った。


 直接画面を見ていないのに、床の水染みに文字が浮かんでいる。


《招待係、退席》


 そして、もう一行。


《上映係へ引継》


 文字は、敦たちの結界を避けるように床へ映っていた。


 直接見るな。


 なら、反射させる。


 薄い結界で目を鈍らせる。


 なら、床の水染みを使う。


 黒玻璃堂は、こちらの守りを見て、すぐに道を変えてくる。


 烏丸が息を呑んだ。


「悪い未来が変わりました」


「上映係」


 敦は低く呟いた。


 招待係の次。


 招待する者。


 席へ座らせる者。


 その次にいるのは、上映する者。


 いよいよ、本上映へ近づいている。


 御影がすぐに水染みへ札を置く。


「消します」


「待って」


 敦は止めた。


「文字は記録した方がいい」


 橘が紙に書き取る。


「《招待係、退席》《上映係へ引継》」


「書きました」


「ほな、焼きます」


 敦は水染みに宿った黒い膜だけを焼いた。


 水は残る。


 床も焦げない。


 文字だけが消える。


 監視室は、再び沈黙した。


 だが、敦には分かった。


 これは勝ちではない。


 招待係の仕事は、ここで止めた。


 少なくとも、この監視室からの招待は切った。


 けれど、相手は役を替えた。


 招待係から、上映係へ。


 舞台は、次へ進んだ。


 橘が小さく言う。


「深追いはしません」


「分かってます」


「ここで止めます。証拠を保全し、祓戸連盟が封じ、分析班が紙で整理する」


「分かってます」


「本当に?」


 敦は息を吐いた。


「かなり怪しいです」


「では、止めます」


「お願いします」


 御影がカードケースへ封印布をかぶせる。


 烏丸は壁のモニターを見ないまま、白い杖で床を確かめている。


 真壁は入口を押さえている。


 橘は紙に記録を続けている。


 敦は放送卓の前に立ち、伏せられたマイクを見た。


 声はもうしない。


 けれど、耳の奥にはまだ残っている。


 観客は、自分では席を選べません。


 だから、こちらが案内する。


 人を、席として見る言葉。


 人を、数字として扱う声。


 敦は拳を握り、ゆっくり開いた。


 焼きたい。


 だが、焼く相手はまだ見えていない。


 見えない相手を怒りで焼けば、巻き込むのは別の誰かだ。


 だから、今は止まる。


 止まって、持ち帰る。


 持ち帰って、次に焼いていい場所を探す。


 地上へ戻る時、地下の監視室の扉は御影の札で封じられた。


 敦は扉の前で、仲間たちにまとわせていた薄い結界をゆっくりほどいた。


 強い結界ではなかった。


 それでも、ないよりはずっと良かった。


 最初から守る。


 その上で、抜けてくるものだけを見極めて焼く。


 この世界での戦い方が、また一つだけ分かった気がした。


 扉の向こうでは、もうモニターの光も見えない。


 それでも敦には、どこか遠くで上映開始のベルが鳴ったような気がした。


 りん。


 小さく。


 一度だけ。


 烏丸が、階段の途中で足を止めた。


「次は、上映係です」


「でしょうね」


「良い未来は、少ないです」


「まだましな未来は?」


 烏丸は少しだけ考えた。


「あります」


「なら、それでいきましょう」


 敦は地上の光を見上げた。


 夕方は、もう夜に変わりかけている。


 招待係は退席した。


 次は、上映係。


 なら、こちらも席には座らない。


 見せられる側にはならない。


 映す側へ近づく。


 ただし、燃やす場所を間違えずに。


 敦は、夜の匂いが混じり始めた空気を吸い込んだ。


「次の係も、仕事を止めます」


 

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