第19話 招待係
地下待合室から運び出された少年は、救急隊員の問いかけに小さく頷いていた。
意識はある。
呼吸も乱れていない。
だが、目の焦点はまだ少し遠かった。
さっきまで見ていた黒い画面の奥を、まだどこかで追いかけているような顔だった。
敦は近づきかけて、止まった。
名前は聞かない。
事情も聞かない。
助けてほしかった理由も、今は聞かない。
聞けば、たぶん抱える。
抱えれば、黒玻璃堂の思うつぼになる。
橘が警察官と救急隊員へ手短に説明していた。
「端末は本人に戻さないでください。画面を伏せたまま、証拠品として保全します。本人には見せないでください。保護者と学校へは、こちらから連絡済みです。病院確認を優先します」
少年のスマホは、黒い封筒に入れられている。
画面は伏せたまま。
それでも封筒の中から、かすかに音がした。
かた。
かたかた。
敦の肩が動いた。
御影も同時に振り返る。
「まだ呼んでいます」
「少年を?」
「はい。いえ……少年だけではありません」
御影は封筒を見た。
青い線を指先で伸ばす。
封筒の表面に、細い糸のような光が走った。
「招待された者が席を立った時、呼び戻す仕掛けです」
「退席防止ってやつですか」
「嫌な言い方ですが、その通りです」
封筒の中の音が、少し強くなる。
少年が担架の上で顔を動かした。
目が、封筒の方へ向きかける。
橘がすぐに少年の視界を遮った。
「見なくていいです」
少年はぼんやりと言った。
「まだ……呼んでる」
「呼ばれていません」
橘の声は落ち着いていた。
「あなたは、もう外にいます」
少年は唇を震わせた。
「でも、席が」
「席はありません」
敦は低く言った。
「そこは、お前の場所やない」
少年の指が、わずかに緩んだ。
御影が封筒へ札を一枚貼る。
「龍宮寺さん、音の糸だけ落とせますか。端末は壊さずに」
「やります」
敦は封筒へ手をかざした。
音は見えない。
だが、最近は少し分かってきた。
音そのものではない。
音に意味を乗せている黒い糸。
人の意識を向けさせ、画面を見ろと引っ張る細い針。
それだけを焼く。
白い力を、ごく薄く伸ばした。
封筒は焦げない。
スマホも壊れない。
ただ、かたかたという音の芯だけが、じゅ、と小さく焼けた。
音が消える。
少年の肩から、少し力が抜けた。
救急隊員が担架を車へ運ぶ。
橘が最後に確認する。
「本人への事情聴取は、医師の確認後にしてください。今は休ませてください」
警察官が頷く。
少年のスマホは、救急車には乗せなかった。
黒い封筒に入れ、画面を伏せたまま、警察官が証拠品として預かっている。
本人に持たせれば、また画面を見る。
それだけは避けなければならなかった。
救急車の扉が閉まる。
サイレンは鳴らさずに動き出した。
敦はその背中を見送った。
助かった。
少なくとも、あの待合室からは出せた。
それなのに、胸の中には重さが残っている。
少年を呼び戻す音。
それはまだ、黒玻璃堂が諦めていないという証拠だった。
御影は、封印布に包んだ招待券を見下ろしていた。
白い紙。
黒い印。
《本上映招待券》
そこからは、もう糸は伸びていない。
敦が焼いたからだ。
だが、紙そのものはまだ生きているような嫌な存在感を放っていた。
「これ、どうします」
「支部へ持ち帰ります。ただ、今ここで一つだけ確認したい」
御影が言うと、烏丸が白い杖を床に置いた。
「見る未来は悪くありません。開く未来は悪いです」
「開かずに確認するって、どうするんですか」
敦が聞くと、御影は札を一枚取り出した。
「透かします。紙を開くのではなく、紙がどこを向いているかを見るだけです」
「向きだけ」
「はい」
敦は少しだけ嫌な顔をした。
さっき自分も同じようなことをした。
向きだけ見る。
深く追わない。
言うのは簡単だが、やるのはかなり神経を使う。
御影は招待券の包みに札を重ね、目を閉じた。
青い線が薄く浮かぶ。
一本。
二本。
三本。
しかし、そのうち二本はすぐに切れた。
残った一本だけが、地面へ沈むように伸びていく。
御影の眉が寄った。
「地下へ向いています」
「この下ですか」
「いえ。もっと遠い。けれど、地上ではありません」
烏丸が補足するように言った。
「待合室ではありません。もっと広い場所です。座る場所ではなく、見せる場所」
「本卓?」
「近いです。でも、まだ形がぼやけています」
橘が紙のメモに書き取る。
「地下。広い。見せる場所。待合室ではない」
敦は川の方を見た。
夕方の光が水面に沈んでいる。
水の匂い。
古い橋。
地下。
そして、たくさんの画面。
大正区の仮設卓から見えたものと、同じ断片だった。
無線から榊原の声が入る。
『こちらでも整理しています。大阪市内で地下か半地下、画面または表示装置が多く、かつ古い橋や水路に近い場所。候補が多すぎるわ』
「地下街、駅、商業施設、ネットカフェ、防災センター」
橘が言う。
『ええ。ただし黒玻璃堂は、正式に人が多い場所より、使われなくなった場所を好んでいる。写真館、映画館、待合室、倉庫。共通するのは、かつて人が見たり待ったり集まった場所です』
御影が頷く。
「場の記憶を使っています」
「場の記憶」
敦が繰り返す。
「はい。そこにいた人の習慣や感情です。写真館なら写る。映画館なら見る。待合室なら座って待つ。倉庫なら物を並べて送る。黒玻璃堂は、それを現代の画面に繋げています」
「じゃあ、本卓もそういう場所」
「おそらく。人が画面を見ていた場所。あるいは、たくさんの画面で人を見ていた場所」
橘が顔を上げた。
「監視室」
その言葉に、全員が一瞬黙った。
監視室。
たくさんの画面。
人を見る場所。
見られる場所。
画面が並ぶ場所。
敦の背中に、冷たいものが走った。
「防災センターとか、管理室とか?」
榊原の声が無線で返る。
『候補に入れます。古い地下監視室、閉鎖された防災センター、地下街の旧管理室。三上くんにはまだ画面を見せていません。分析班に紙で出させます』
三上の名が出て、敦は少しだけ事務所の方を思った。
観測者席へ座らされかけた三上。
その三上が、まだこちら側で踏みとどまっている。
それだけでも、今日の意味はある。
その時、少年のスマホを持っていた警察官が駆け寄ってきた。
「すみません。保護した少年のスマホですが、封筒の中でまた通知が出ています」
橘の表情が硬くなる。
「見ましたか」
「いえ。封筒越しに音がしただけです。画面は見ていません」
「持ってきてください。伏せたままで」
警察官が黒い封筒を慎重に差し出す。
封筒の中から、今度は音ではなく、紙をめくるような気配がした。
ぱら。
ぱら。
映画のフィルムではない。
招待状を束ねてめくる音。
御影が顔をしかめる。
「招待係です」
「係?」
「本卓へ直接繋ぐ前に、招待客を管理する役目です。怪異そのものではない。術式か、人間か、その中間か」
敦は封筒を睨んだ。
「さっきの声ですか」
「可能性があります」
橘が無線へ言う。
「榊原さん、少年の端末に再反応。音ではなく、招待状の紙音のような反応。こちらで処理します」
『記録して。開かないで』
「はい」
烏丸が白い杖を強く握る。
「今、少しだけ出させる未来は良いです」
「出させる?」
敦が聞く。
「全部閉じると、また別の場所へ逃げます。糸の先を少しだけ見て、すぐ切る」
「また難しい注文ですね」
「難しいですが、良い未来です」
御影が封筒の上へ札を置いた。
「私が押さえます。龍宮寺さんは、糸が出た瞬間に根元ではなく、半ばを焼いてください。根元を焼くと端末が壊れます。先を焼くと向こうに逃げます」
「半ば」
「はい」
敦は息を整えた。
封筒の中で、スマホが震える。
ぱら。
ぱら。
招待状をめくる音。
御影の青い線が、封筒の表面を囲む。
その中心から、黒い糸が一本だけ、すっと伸びた。
糸の先には、小さな白い札のようなものが見える。
そこに文字が浮かびかける。
《欠席確認》
敦は、文字を最後まで読まなかった。
糸の半ばへ白い力を流す。
焼く。
細く。
短く。
じゅ、と音がした。
黒い糸が切れた。
封筒の中のスマホが、がくんと一度だけ震えて沈黙する。
同時に、切れた糸の先から、声が漏れた。
「……退席者、一名」
男の声だった。
待合室の奥から聞こえた声と、同じ。
敦の目が細くなる。
声は続いた。
「補助席へ再招待」
御影が札を強く押さえる。
「龍宮寺さん、もう一度!」
「はい」
封筒から、二本目の糸が出る。
今度は少年ではない。
別の方向へ伸びている。
敦はその糸を見た瞬間、胸が冷えた。
細い。
でも、向かっている先に、人の気配がある。
おそらく、別の招待客。
返信済みの誰か。
「これ、別の人へ行ってます」
橘が即座に無線へ叫ぶ。
「分析班、返信済み対象者の端末反応を確認!」
無線の向こうで声が重なる。
『病院の女性、端末は病院側が保管中。異常なし』
『高校生、今処理中』
『心霊系配信者の端末に再通知。黒いノイズあり』
『自称霊能者、祓戸連盟が接触中。端末反応あり』
『煽りアカウント、所在確認中』
糸は二本に増えた。
さらに三本目が出かける。
御影の額に汗が浮いた。
「招待係が席を埋め直そうとしています」
「つまり、欠席者が出たから別の客を呼ぶ」
「はい」
「最低やな」
敦は歯を食いしばった。
白い光を強くしたくなる。
封筒ごと焼けば、今ここから伸びる糸は全部消える。
だが、それでは別の場所で別の糸が出る。
今は、半ばを切る。
招待係が見ている道を、こちらに渡さない。
だが、招待客へ届く前に落とす。
一本。
二本。
三本。
敦は糸を切った。
御影の青い線が、切れた糸の残りを封じる。
橘が無線へ報告する。
「今、再招待の糸を三本切断。各対象者側の反応は」
『心霊系配信者、通知消失』
『自称霊能者側、奈良支部が端末を伏せました。反応低下』
『病院、異常なし』
敦は息を吐いた。
よかった。
まだだ。
まだ終わっていない。
封筒の中のスマホは沈黙している。
だが、切れた糸の向こうから、またあの男の声がした。
「手際が良い」
敦は低く言った。
「褒められても嬉しないですね」
「しかし、席は空く」
声は笑っていた。
「空席は、埋めなければならない」
御影が顔を強張らせる。
「問答しないでください」
「分かってます」
敦は声へ返事をしなかった。
声は、封筒の奥で少し遠くなる。
「本上映は、まだ先です」
ぱら。
紙をめくる音。
「招待係は、仕事を続けます」
そこで、声は途切れた。
封筒の中のスマホは完全に沈黙する。
御影が札を三枚重ねた。
「閉じました。少なくとも、この端末からはもう呼べません」
「声、聞こえましたよね」
「はい」
御影の表情は硬い。
「間違いなく、反応しています。こちらの処理を見て、言葉を返している」
「人間ですね」
「人間か、人間に近いものです」
敦は封筒を見つめた。
招待係。
それは、怪異の名前ではない気がした。
役割だ。
誰かが、観客を選び、招待し、退席者を埋め直している。
システムではない。
意志がある。
人を席として数える意志がある。
橘が分析班からの紙を受け取った。
車で持ってきた予備のプリンターから吐き出されたものらしい。
画面を見ないため、現場でも紙にしている。
「候補が絞れました」
敦が顔を上げる。
「どこですか」
「旧港湾系の地下防災監視室。十数年前に設備更新で閉鎖。川と橋に近い。管理上は倉庫扱いですが、古い監視モニターと放送卓が残っている可能性があります」
「画面が多い」
「はい。人を見ていた場所です」
御影が静かに言う。
「待つ場所でも、見る場所でもない。見張る場所」
烏丸が白い杖を握った。
「悪い未来が濃いです。でも、そこへ向かう未来は避けられません」
榊原の声が無線で入る。
『すぐには突入しません』
敦は反射的に口を開きかけた。
榊原は続けた。
『分かっていると思うけれど、今の招待係はこちらの反応を見ています。焦って踏み込めば、本上映を早められる』
敦は口を閉じた。
分かる。
分かっている。
でも、招待係は今も仕事を続けると言った。
また誰かが呼ばれる。
また誰かが座らされる。
その可能性を思うと、足が前へ出そうになる。
橘がこちらを見る。
「龍宮寺さん」
「分かってます」
「今は準備してからです」
「はい」
「本当に?」
「だいぶ怪しいです」
「では、私たちが止めます」
「お願いします」
そのやり取りを聞いて、御影が少しだけ息を吐いた。
「止まれるようになってきましたね」
「止められてるだけです」
「それでも、止まっています」
敦は何も言えなかった。
地下待合室の階段から、夕方の光が差し込んでいる。
さっきまで青白い光が漏れていた売店のシャッターは、もう沈黙していた。
本上映招待券。
招待係。
旧地下防災監視室。
黒玻璃堂の形が、少しずつ人間に近づいている。
それが、余計に嫌だった。
怪異なら、祓えばいい。
呪物なら、封じればいい。
だが、人間がその向こうにいるなら、焼けば終わりとはいかない。
敦は封印された招待券を見た。
紙一枚。
けれど、その奥に誰かの手がある。
人を観客に数える手。
退席者を補充しようとする手。
敦は静かに息を吐いた。
「招待係、でしたっけ」
橘が頷く。
「はい」
「次は、その係の仕事を止めましょう」
御影が札を握り直す。
烏丸が白い杖を床に置く。
真壁が階段の上を確認する。
橘が無線で榊原へ準備方針を返す。
敦は、もう一度だけ地下の奥を見た。
何も見えない。
何も聞こえない。
だが、どこかで紙をめくる音だけが残っている気がした。
ぱら。
ぱら。
次の客を探す音。
それを止めるために、今度こそ招待する側へ近づかなければならない。




