第18話 地下の待合室
大正区の倉庫から出た時、空は夕方へ傾きかけていた。
仮設卓は止めた。
黒い机に並んだスマホは伏せられ、ノートパソコンも沈黙した。黒い箱は御影の札で幾重にも封じられ、祓戸連盟の搬送車へ運ばれていく。
DMの新規送信も止まった。
少なくとも、今の波は切れている。
それでも敦の胸は軽くならなかった。
《本卓、未上映》
仮設卓の箱に浮かんだ言葉が、まだ頭から離れない。
ここは本命ではない。
黒玻璃堂は、まだ奥に何かを隠している。
そして、すでに送られたDMを見た人間は、今も動いているかもしれない。
橘が無線を受けた。
「はい。……分かりました。位置情報は?」
その声が、ほんの少し硬くなった。
敦は顔を上げる。
「何かありましたか」
橘は端末ではなく、紙のメモを見た。
画面を見ない運用が、もう体に入り始めている。
「高校生と思われるアカウントの件です。本人のスマホが、最後に大阪市内南西部の駅近くで通信しています」
「家族に内緒で行く言うてた子ですか」
「はい。警察が自宅と学校へ確認中ですが、本人は見つかっていません」
烏丸が白い杖を握った。
「悪い未来が濃くなりました」
「その子が、もう向かってる?」
「はい。暗い場所へ。椅子が並んでいます。でも映画館ではありません」
御影が搬送車の前で振り返る。
「椅子?」
「待合室です」
烏丸はそう言った。
「映画館の客席ではない。けれど、座って待つ場所。黒い画面がいくつもある」
敦は眉を寄せた。
「本卓ですか」
「違います。たぶん、待合室です。本上映へ送る前に、人を座らせておく場所」
橘が分析班へ確認する。
「高校生の最後の通信地点周辺で、閉鎖済みのネットカフェ、ゲーム施設、地下待合スペース、古い商業施設は?」
無線の向こうで紙をめくる音がした。
『候補が三つあります。一つは営業中のネットカフェ。二つ目は閉店したゲームセンター。三つ目は、古い地下連絡通路の奥にある元高速バス待合室です。十年以上前に閉鎖。現在は倉庫扱い』
「場所は?」
『川沿いの古い橋の近くです。大正区からも車で近い。敦さんが見たという“水の匂い、古い橋、地下の冷たさ”に一致します』
敦の背筋に冷たいものが走った。
仮設卓から伸びていた線。
水の匂い。
古い橋。
地下。
たくさんの画面。
それは、本卓ではなく、その手前の待合室かもしれない。
榊原の声が無線に入った。
『龍宮寺さん』
「はい」
『行く理由はあります。ただし、今回も目的は救出と遮断。本卓を追うのは後です』
「分かってます」
『高校生の本人確認が取れていない以上、現場で見つけても個人情報を深く聞かない。保護して、警察と保護者に渡す。いいですね』
「はい」
間宮がいたら同じことを言っただろう。
敦はそう思った。
助ける。
だが、抱え込まない。
事情を全部聞かない。
自分が個人の不幸を直接背負いすぎない。
それが、今の戦い方だ。
真壁が車を回した。
「乗れ」
御影は封印布の黒い箱を搬送車へ渡し、別の退魔師に短く指示を出す。
それから、自分は敦たちの車へ戻ってきた。
「箱は支部へ送ります。私は同行します」
「大丈夫ですか」
敦が聞くと、御影はいつものように答えた。
「大丈夫ではありません。でも、待合室なら私が必要です」
「ですよね」
橘が後部座席に資料を置く。
「現場へ向かいます。私物端末は引き続き遮断袋。無線のみ。現場到着後、まず音を確認。次に画面を伏せる。人がいた場合は、目を閉じさせて外へ」
烏丸が白い杖を膝に置いた。
「座らせないでください」
「すでに座っていたら?」
敦が聞く。
「立たせる前に、足元を見てください。椅子と人が糸で結ばれている未来があります」
「椅子が罠」
「はい。椅子そのものというより、座った状態が罠です」
「ほんま、現代の何でも使いますね」
橘が静かに言う。
「人は疲れると座ります。待てと言われれば座る。画面があれば見る。通知が鳴れば確認する」
「全部、普通の行動ですね」
「はい。だから厄介です」
車が走り出す。
窓の外を、倉庫街のフェンスと古い建物が流れていく。
敦は拳を握って、すぐに開いた。
燃やすためではない。
間違えないために。
高校生。
家族に内緒で行くと返信した子。
黒玻璃堂は、その子に何を見せたのか。
奇跡か。
治癒か。
証明か。
本物を見せてやるとでも言ったのか。
相手は、人の弱いところを拾う。
なら、その子にも、何か弱いところがある。
けれど、それを敦が今知る必要はない。
必要なのは、連れて帰ることだ。
車は、川沿いの古い橋を渡った。
橋の欄干には錆が浮いている。水面は濁り、夕方の光を鈍く返していた。
烏丸が顔をしかめる。
「近いです。水の匂いが同じ」
橋を渡った先に、古い商業ビルがあった。
一階はシャッター街。
上の階は空きテナント。
地下へ降りる階段には、黄色く変色した案内板が残っている。
《地下連絡通路》
《バス待合室》
その文字の下に、白い紙が貼られていた。
《関係者待機所》
敦は、その紙を見て眉を寄せた。
「また新しい紙」
橘が管理会社へ確認する。
警察官が首を横に振った。
「管理会社は貼っていないそうです。地下は現在、通常使用していません」
御影が札を取り出す。
「下から音がします」
敦も聞こえた。
かたかた。
かたかた。
だが、映写機の音とは少し違う。
小さな通知音が、いくつも重なっている。
その重なりが、映写機の音に似ているのだ。
烏丸が言う。
「階段の途中で一度止まってください。踊り場のポスターは見ない」
「ポスターまで?」
「全部ではありません。黒く濡れている一枚だけです」
御影が低く補足した。
「ポスターは、待つ人が何気なく見るものです。写真ほど強くはありませんが、顔と文字があり、視線を集める。そこに黒い膜を張られると、簡単な入口になります」
「予告編みたいなもんですか」
「はい。本上映へ目を向けさせるための、予告です」
「ほんま、使うもんが嫌らしいな」
真壁が先頭に立つ。
橘は後ろから警察官へ指示を出した。
「一般の方は下がってください。現場の撮影は禁止。端末は伏せて」
敦は階段へ足を踏み入れた。
空気が変わる。
上の夕方の湿気とは違う。
地下の冷たさ。
古いコンクリート。
水の染みた匂い。
そして、電気が通っていないはずなのに、奥から薄い光が漏れている。
踊り場に、古いポスターが貼られていた。
バス会社の広告。
旅行キャンペーン。
映画の告知。
色褪せた紙。
その中の一枚だけが、黒く濡れていた。
敦は見ない。
視界の端で、黒い紙面が揺れる。
そこに、誰かの顔が浮かびかけていた。
御影が札を貼る。
「見ないで」
「見てません」
敦は白い力を薄く流し、ポスター表面の黒い膜だけを焼いた。
紙は燃やさない。
文字も残す。
そこに浮かびかけていた顔だけが、泡のように消えた。
地下へ降りる。
古い待合室は、思ったより広かった。
天井は低い。
壁は黄ばんでいる。
ベンチが左右に並び、奥には閉じた売店のシャッター。
その上に、古い時刻表の電光掲示板が残っていた。
本来なら消えているはずの掲示板に、白い文字が流れている。
《まもなく上映バスが到着します》
敦は思わず顔をしかめた。
「バスと上映、混ぜるなや」
御影が低く言う。
「場所の記憶を利用しています。ここは待つ場所だった。待つ者を、観客に変えている」
待合室の中央に、一人の少年が座っていた。
制服姿。
高校生くらい。
膝の上にスマホを置き、両手で握っている。
画面は黒い。
だが、少年はそれを見つめたまま動かない。
周囲のベンチにも、誰もいないはずなのに、人の気配だけがあった。
見えない観客。
まだ来ていない観客。
空席が、妙に埋まっているように感じる。
橘が小さく言った。
「対象者の可能性が高い」
「名前は呼ばない方がいいですか」
敦が聞くと、御影が頷いた。
「はい。今は名前が座席番号になります」
「ほんま嫌な仕様ですね」
烏丸が杖を握る。
「中央の通路は駄目です。左側から近づく未来が少し良い。ただし、少年のスマホを見ないで」
「椅子との糸は?」
敦は視線を少年の足元へ落とした。
ベンチの脚。
床。
少年の靴。
そこに、黒い糸が絡んでいる。
椅子と足。
足と床。
そして、スマホから胸元へ。
少年は座っているのではない。
座らされている。
「あります。足元とスマホ」
御影が札を構える。
「私が足元を浮かせます。龍宮寺さんはスマホ側を。焼きすぎると、本人の意識が弾かれます」
「はい」
敦は一歩ずつ左側から近づいた。
少年の唇が動いている。
「本物なら……」
小さな声。
「本物なら、見せて」
敦は止まりかけた。
橘の声が後ろから飛ぶ。
「龍宮寺さん」
「分かってます」
「その声は、あなたに向けたものではありません」
「分かってます」
でも、刺さる。
本物なら。
その言葉は、敦の胸に刺さる。
本物なら助けろ。
本物なら見せろ。
本物なら証明しろ。
それは、これから何度も言われる言葉かもしれない。
敦は息を吸った。
吐く。
今は、証明する時ではない。
救う時だ。
御影が床へ札を滑らせた。
青い線がベンチの脚に絡む。
「足元、浮かせます」
黒い糸が少しだけ持ち上がった。
敦は少年のスマホを見ないように、光の流れだけを見る。
黒い画面から、胸へ伸びる糸。
スマホそのものを焼かない。
画面の情報も消さない。
ただ、少年を客席へ縫いつけている糸だけを焼く。
白い光が、細く走った。
糸が焼ける。
少年の肩がびくりと跳ねた。
「上映が……」
「終わりや」
敦は低く言った。
「まだ始まってへん」
少年の指がスマホを握りしめる。
黒い画面の奥で、何かが動いた。
小さな客席。
その中央に、少年とよく似た影が座っている。
影がこちらを向き、口を開いた。
「見たい」
少年の声だった。
敦は奥歯を噛んだ。
「見んでええ」
「見たい」
「見んでええ」
白い力を強めたくなる。
だが、強めれば少年の中の記憶まで焼く。
見たいという気持ちそのものは、彼のものかもしれない。
そこまで焼けば、救いではなく支配だ。
敦は白い光を細く保つ。
御影が青い線を追加した。
「今なら立たせられます」
真壁が動いた。
通路から身を伸ばし、少年の肩ではなく、制服の背中を掴む。
「立て」
少年は動かない。
椅子が離さない。
烏丸が叫ぶ。
「椅子の下、右!」
敦は床を見る。
ベンチの下に、古いバスの乗車券が落ちていた。
紙のはずなのに、黒く光っている。
そこから椅子全体へ糸が伸びている。
「御影さん、券です」
「見えました」
御影が札を投げる。
札が乗車券へ貼りつき、青く光る。
「焼いてください。紙は残して」
「はい」
敦は白い光を、乗車券の端へ走らせた。
燃えるのは紙ではない。
そこに染み込んだ黒い油だけ。
じゅ、と音がして、乗車券の黒さが薄れる。
同時に、少年の体が前へ倒れた。
真壁が引き上げる。
少年がベンチから離れた瞬間、待合室の空気がざわりと動いた。
空席が怒った。
そんな感覚だった。
壁際の電光掲示板が明滅する。
《発車します》
《ご着席ください》
《ご着席ください》
《ご着席ください》
橘が少年の前に立ち、視界を遮る。
「目を閉じてください。ここから出ます」
少年はぼんやりとした声で言った。
「でも、まだ……見てない」
「見なくていい」
敦が言う。
「見ても、助かるわけやない」
少年の目に、少しだけ焦点が戻った。
「助かる……?」
敦はそれ以上聞かなかった。
事情を聞けば、刺さる。
刺されば、抱える。
今は、出す。
それだけだ。
「真壁さん」
「分かってる」
真壁が少年を半ば抱えるようにして出口へ向かう。
だが、階段側の電気が急に落ちた。
待合室の奥、閉じた売店のシャッターが、がたん、と鳴る。
御影が顔色を変えた。
「奥が開きます」
「何が」
「本上映への通路」
シャッターの隙間から、青白い光が漏れた。
中に、階段のようなものが見える。
下へ続く階段。
あるはずがない。
この建物の図面には、売店の奥にそんな階段はない。
だが、そこにある。
黒い座席の匂い。
古い映写機の音。
本卓へ続く道。
敦の体が前へ出かけた。
その時、烏丸が叫ぶ。
「行く未来は最悪です!」
敦は止まった。
ぎりぎりで。
奥の階段から、声がした。
「白い聖者」
知らない男の声。
初めて聞く声だった。
それなのに、こちらの名前を知っているような響き。
「本上映は、まだです」
御影が青ざめる。
「人の声です」
敦は奥を睨んだ。
怪異の真似ではない。
記録の継ぎ接ぎでもない。
今、どこかで誰かが話している。
黒玻璃堂の向こう側にいる人間。
「なら、何ですか」
敦が低く聞く。
声は笑った。
「招待状だけ、先に」
シャッターの隙間から、白い紙が一枚滑り出した。
真壁が少年を抱えたまま止まりかける。
橘が鋭く言う。
「触らないで」
紙は床に落ちた。
白い紙。
黒い印。
丸に縦一本。
そして、中央に文字。
《本上映招待券》
御影が札を構える。
「見ないでください」
「見てしもた」
敦は短く言った。
だが、文字そのものより、その紙から伸びる黒い糸の方が強い。
糸は敦へ来ていない。
少年へも来ていない。
空席へ伸びている。
まだいない観客へ。
敦は白い力を出しかけた。
御影が止める。
「全部焼かないで。招待券は証拠です」
「分かってます」
「でも、今、かなり怪しい顔です」
「怪しいです」
敦は息を吐いた。
細く。
薄く。
招待券から空席へ伸びる黒い糸だけを焼く。
紙は残す。
印も残す。
文字も残す。
じゅ、と音がして、糸が切れた。
奥の階段から、男の声がまた聞こえた。
「いいですね」
敦の背筋が冷えた。
褒められた。
今の動きを、見られていた。
測られていた。
「焼く場所を、覚えてきた」
敦は奥を睨む。
「そっちは人間ですか」
声は答えなかった。
代わりに、映写機の音が鳴った。
かたかた。
かたかた。
シャッターの隙間の青白い光が、ゆっくり薄れていく。
御影が叫ぶ。
「閉じます!」
青い札が三枚、シャッターへ飛ぶ。
敦は無属性魔法で、シャッターを外側から押さえた。
力任せに潰さない。
ただ、開こうとする力を横へ逃がす。
御影の青い線が、その隙間へ入る。
シャッターが、がたがたと震えた。
中から、無数の拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
待合室の空席が、それに合わせて震える。
敦は耳元の空気をずらした。
拍手の意味を壊す。
ただの振動へ。
御影が低く唱える。
「閉じ」
シャッターが、音を立てて止まった。
青白い光が消える。
階段も見えなくなる。
売店の奥は、ただの暗い物置に戻っていた。
敦はすぐに振り返った。
「少年は」
真壁が階段側で答える。
「出した」
橘が少年を支え、警察官へ引き渡している。
少年はまだふらついているが、目は開いている。
スマホは封筒に入れられ、画面を伏せたまま確保された。
御影が床の招待券へ札を置く。
「これも封じます」
「本上映招待券、ですか」
敦の声は低かった。
「はい」
「さっきの声、聞こえましたよね」
御影は頷いた。
「記録ではありません。怪異でもない」
「人間ですね」
「おそらく」
烏丸が白い杖を握り直した。
「悪い未来が、少しだけ顔を持ちました」
敦は売店のシャッターを見た。
もう何も聞こえない。
だが、向こう側に誰かがいる。
怪異を使い、人の欲を使い、助けてほしい声を集め、観客席へ座らせようとしている誰か。
そいつは、敦の焼き方を見ていた。
覚えてきた、と言った。
敦は拳を握り、すぐに開いた。
怒りはある。
だが、今は燃やさない。
少年を出した。
待合室を閉じた。
招待券を残した。
なら、今やるべきことは追うことではない。
持ち帰って、調べることだ。
橘が戻ってきた。
「対象者、保護。意識あり。病院確認と保護者連絡に回します」
「事情は?」
「聞いていません。今は必要ありません」
「よかったです」
敦は本気でそう言った。
橘は少しだけ敦を見る。
「あなたも、聞きませんでしたね」
「聞いたら、抱えそうなんで」
「はい」
橘は静かに頷いた。
「それでいいです」
待合室の電光掲示板は消えていた。
《ご着席ください》
その文字はもうない。
椅子は、ただの古いベンチに戻っている。
それでも、敦には分かっていた。
これは終わりではない。
仮設卓。
待合室。
招待券。
そして、まだ始まっていない本上映。
黒玻璃堂は、少しずつ舞台を整えている。
敦たちも、少しずつ近づいている。
地下から地上へ戻る階段で、烏丸が小さく言った。
「良い未来が一つ増えました」
「どれですか」
「あなたが奥の階段へ行かなかった未来です」
敦は苦笑した。
「それ、かなり頑張りましたよ」
「知っています」
橘が後ろから言った。
「記録します」
「それも記録するんですか」
「重要です」
地上へ出ると、夕方の光が目に刺さった。
川の匂いがする。
橋の上を、普通の車が走っている。
誰も、地下の待合室で何が起きたか知らない。
それでいい。
知らなくていいこともある。
敦は、封印布に包まれていく招待券を見た。
白い紙。
黒い印。
本上映招待券。
次は、向こうが本当に客を呼び始める。
なら、その前に見つけなければならない。
映す側を。
人を観客にする手を。
敦は、沈みかけた夕陽の下で、静かに息を吐いた。
「次は、招待する側ですね」




