第17話 映写卓
《映写卓、準備中》
隔離端末に浮かんだ一文は、すぐに消えた。
だが、録画には残っている。
三上が再生を止め、画面を伏せた。
誰も、すぐには次の言葉を出さなかった。
映写卓。
客席ではない。
スクリーンでもない。
映す側。
黒玻璃堂は、見たい人間だけを集めているのではない。見せるための場所を、どこかに用意している。
敦は伏せた自分のスマホから目を逸らした。
手の中の劇場。
その言葉が、嫌なほど頭に残っている。
榊原が静かに言った。
「三上くん、休憩は継続。分析班に引き継いで」
「はい」
三上は頷いた。
それでも視線は端末へ戻りかける。
橘が、そっとその前に立った。
「三上さん」
「分かってます。見ません」
「はい」
その短いやり取りだけで、今の危険がよく分かった。
情報を追う人間ほど、画面を見る。
画面を見る人間ほど、客席へ近づく。
黒玻璃堂は、そこを狙っている。
榊原は大型モニターを切ったまま、音声だけで指示を出した。
「画面に出す情報は最小限。一覧は紙に落として。送信元の推定は、時刻、経路、配送記録、電力使用、建物利用履歴を照合。中身を見ないで外側から追う」
「はい」
別室の分析班が応答する。
普段なら画面に映る資料も、今は印刷されて机に並べられた。
紙。
クリップ。
赤い付箋。
現代の事務所なのに、急に昭和の捜査本部のようになっていく。
敦は少しだけ皮肉な気分になった。
スマホと画面にやられかけて、紙に戻る。
人間は、便利になったのか不便になったのか分からない。
御影の声が回線から入った。
『大阪支部で確認しました。フィルム缶は封印庫内で安定しています。ただ、外から触れられています』
「外から?」
橘が聞く。
『はい。封印庫に入れた後も、どこかから薄く引かれている。缶そのものではなく、缶に残った上映の道を通じて』
「それが映写卓?」
『おそらく。映画館の缶は本体ではありません。中継点です』
烏丸が白い杖を床に置いた。
「大正区」
唐突な言葉だった。
全員が烏丸を見る。
烏丸は眉間に皺を寄せている。
「悪い未来の線が、海の匂いのする倉庫へ伸びています」
榊原が資料をめくる。
「大正区の倉庫……黒玻璃堂の配送伝票で出ていた送り元ね」
大正区の倉庫は、黒玻璃堂の荷物の送り元として一度名前が出ていた場所だった。
だが、春野家の鏡、配信スタジオ、影見写真館、月映座、そしてDMと次々に火が上がったせいで、まだ本格確認には入れていない。
火元の一つとして残っていた場所。
それが、ここへ来て線を持った。
橘がすぐに反応した。
「三上さん」
三上が顔を上げかけたが、榊原が制した。
「三上くんは休憩。分析班」
別室から返事が入る。
『大正区の倉庫、電力使用に動きがあります。昨夜から短時間の使用が数回。本日十五時以降、通信回線の一時開通履歴。契約者は別会社名義ですが、休眠会社です』
「現地確認は?」
『警察と管理会社へ照会中です。建物は古い物流倉庫の一角。表向きは什器保管。ここ半年、ほぼ利用なし』
敦は息を吐いた。
写真館、映画館、スマホ。
全部ばらばらに見えて、発送元へ戻ってくる。
黒玻璃堂が、完全に姿を消しているわけではない。
痕跡は残っている。
ただ、その痕跡を見ようとすると、こちらも見られる。
榊原が敦を見た。
「龍宮寺さん、現地へ向かいます。ただし目的は突入ではなく、映写卓の確認と停止。人命優先。深追いなし」
「はい」
「画面を見ない。音を聞きすぎない。端末には直接触らない。必要な処置だけ」
「分かってます」
橘が続けた。
「私物端末は車内の遮断袋へ入れます。連絡は専用無線と、分析班経由。現地の表示機器は、まず物理的に伏せるか遮蔽します」
「三上さんは?」
三上が口を開くより先に、榊原が答えた。
「事務所で休憩しながら紙資料を見るだけ。画面は見せません」
三上は不満そうな顔をしたが、反論はしなかった。
橘が静かに言う。
「あなたが残っているから、こちらも動けます」
三上は少しだけ目を伏せた。
「……分かりました」
御影の声が入る。
『私も向かいます。支部から直接、大正区へ』
「大丈夫ですか」
敦が聞くと、御影は短く答えた。
『大丈夫ではありません。でも行きます』
「その返事、最近よく聞きますね」
『事実です』
烏丸が杖を手に取った。
「現地で見るべきものは、机です」
「机?」
「黒い机。上に小さな画面が並んでいます。全部を見る未来は悪いです」
「全部見ません」
「中央だけも悪いです」
「どこ見たらええんですか」
「見ないでください。触らずに倒す未来が良いです」
敦は少しだけ眉を上げた。
「倒す?」
「はい。立っているものを伏せる。まずそれです」
榊原が頷いた。
「なら現地対応は、画面を伏せることから。龍宮寺さんの無属性で可能?」
「画面だけなら、たぶん」
「破損は?」
「力加減を間違えなければ」
「可能な限り証拠保全。ただし危険なら人命優先」
「了解です」
事務所を出る前、間宮の声がオンライン回線から入った。
『龍宮寺さん』
「はい」
『今回も、あなたが全部解決する必要はありません。画面を伏せる、危険な糸を切る、現場を安全にする。その範囲を超えた追跡は、組織側の仕事です』
「はい」
『あと、何か新しい能力を使った場合は、現場リスクとして最小限だけ記録してください。能力説明会にはしないこと』
「それは助かります」
『説明した瞬間、便利な作業道具にされますから』
間宮の声は淡々としている。
だが、その一言は重かった。
便利な作業道具。
敦は、その言葉を胸の中で噛んだ。
力を使う。
でも、使われない。
簡単そうで、かなり難しい。
車は大阪市内を西へ向かった。
車内に私物端末はない。
敦のスマホも、橘のスマホも、真壁のものも、すべて遮断袋に入っている。
連絡は車載無線と、音声のみの専用端末。
窓の外に、倉庫街の景色が増えていく。
水の匂い。
錆びたフェンス。
古い看板。
積み上げられたパレット。
空はまだ明るいのに、その一角だけ夕方のように暗く見えた。
烏丸が低く言った。
「近いです」
真壁が速度を落とす。
前方に、古い倉庫が見えた。
灰色の壁。
錆びたシャッター。
横手に小さな通用口。
表の看板には、別会社の名前が薄く残っている。
だが、その下に新しい紙が貼られていた。
《機材保管中》
それだけだった。
黒玻璃堂の名前はない。
橘が警察官と管理会社の担当者に確認する。
御影も少し遅れて到着した。
顔色は良くない。
だが、目ははっきりしていた。
「中の気配は?」
敦が聞くと、御影は通用口を見た。
「軽いです。でも、広い」
「また嫌な言い方ですね」
「一つの強い怪異ではなく、薄い糸が何本もある感じです」
烏丸が杖を床に当てる。
「音を聞かないでください。中に入ったら、足元より机。右の壁は見ない。中央の棚は倒れる未来があります」
真壁が短く言う。
「倒れる前に押さえる」
「押さえると悪いです。避けてください」
「そうか」
真壁はそれだけで納得した。
橘が確認する。
「龍宮寺さん、最初に画面を伏せられますか」
「やります。できるだけ壊さずに」
御影が札を用意する。
「伏せた後、私が机ごと封じます。画面を見ずに」
「はい」
通用口が開けられた。
倉庫の中は、思ったより狭かった。
大きな倉庫の一角を、壁で区切ったスペースらしい。
古いラック。
段ボール。
折り畳み椅子。
ケーブル。
そして中央に、黒い机。
烏丸が言った通りだった。
机の上には、何十台ものスマホが並んでいる。
小さなスタンドに立てられ、すべて同じ角度でこちらを向いていた。
画面は黒い。
だが、消えているわけではない。
黒い画面の奥に、薄く白い点が並んでいる。
座席だ。
小さな客席。
敦は、正面から見ないように視線をずらした。
それでも分かる。
この机が、映写卓だ。
いや、少なくともその一部だ。
壁際には、中古のノートパソコンが数台。
小さなプロジェクター。
配信用の照明。
音声ミキサー。
古いフィルム巻取り機。
まるで、配信スタジオと映写室と古物店の残骸を、無理やり一つに押し込んだような場所だった。
黒玻璃堂は、ここで現代の劇場を組んでいた。
「伏せます」
敦は右手を上げた。
無属性魔法を細く広げる。
机には触れない。
スマホにも触れない。
一台ずつ、画面の上側を軽く押す。
強く押せば倒れて割れる。
弱すぎれば立ったまま。
角度だけを変える。
端末が、順番に倒れていく。
ぱた。
ぱた。
ぱた。
紙札を伏せるような音が、倉庫内に続いた。
十台。
二十台。
三十台。
最後の一台が伏せられた瞬間、部屋の奥で通知音が鳴った。
かた。
かたかた。
かたかたかた。
伏せたはずのスマホのうち、一台が震えていた。
画面は下を向いている。
それでも、音だけがこちらへ伸びてくる。
御影が叫ぶ。
「音の糸です!」
烏丸が同時に言う。
「聞くと座ります!」
敦は耳元の空気を薄く固めた。
全員を覆うほどではない。
まず自分。
次に橘。
真壁。
御影。
烏丸。
音の振動を少しずつずらす。
完全に消すのではなく、意味を持たない雑音へ崩す。
かたかたという映写機の音が、ただの小さな振動へ変わった。
橘が息を吐く。
「助かりました」
「長くは無理です」
「十分です」
御影が机へ札を投げた。
札は空中で青く光り、伏せられたスマホの上を横切る。
青い線が机の四隅へ伸びた。
「閉じます」
しかし、その直前。
壁際のノートパソコンの一台が勝手に開いた。
画面は見えない角度だった。
だが、スピーカーから声が流れた。
「観客が足りません」
若い女の声。
次に、老人の声。
「奇跡が足りません」
子どもの声。
「聖者が足りません」
敦は拳を握った。
御影がすぐに言う。
「声は記録の継ぎ接ぎです。聞かないで」
「分かってます」
声は続く。
「治るところを見せて」
「戻るところを見せて」
「祓われるところを見せて」
「白い人を見せて」
敦は目を閉じた。
聞かない。
だが、内容は入ってくる。
人が求めた言葉。
誰かの投稿。
誰かの願い。
それを切り貼りして、声にしている。
悪趣味にもほどがある。
「龍宮寺さん」
橘の声がした。
「燃やさない」
「分かってます」
「本当に?」
「今、かなり怪しいです」
「なら、私の声だけ聞いてください」
橘はそう言った。
その言葉で、敦は少しだけ戻った。
目を開ける。
見るのは画面ではない。
机の下。
ケーブル。
床。
黒い糸の流れ。
スマホ群から、ノートパソコンへ。
ノートパソコンから、机の下へ。
そこに、黒い箱があった。
靴箱ほどの大きさ。
黒玻璃堂の印はない。
ただ、古い映画館で使われていたような、金属製の巻取りリールが箱の上に乗っている。
黒い糸は、その箱から出ていた。
「親は机の下です」
敦が言うと、御影が息を呑んだ。
「見えますか」
「はい。箱です。黒いけど、印がない」
「印を消した?」
「たぶん」
烏丸が杖を強く握った。
「箱を開ける未来は悪いです。壊す未来も悪い。横へずらす未来が少し良い」
「横へ」
敦は無属性魔法で、机の下の箱へ力をかけた。
持ち上げない。
開けない。
ただ、床を滑らせる。
箱は重かった。
物理的な重さではない。
何かが、そこに座っている。
観客席に腰を下ろして、動きたがらないような重さだった。
敦は歯を食いしばる。
「重い」
真壁が動きかける。
「手を出す」
「待って」
敦は止めた。
「触らん方がいい」
白い力はまだ使わない。
まず、力の向きを変える。
箱そのものを動かすのではなく、箱が床に食いついている黒い糸を少しだけ浮かせる。
御影が青い線を入れた。
「浮きました」
「今ですね」
敦は無属性魔法で箱を横へ滑らせた。
ごとん、と鈍い音。
箱が机の下から出る。
その瞬間、伏せられたスマホが一斉に震えた。
ぱたぱたぱた、と画面が床を叩く。
まるで、客席の人間が一斉に拍手しているようだった。
御影が札を追加する。
「拍手に合わせないで!」
「誰が合わせるんですか」
「人間は、つられるんです!」
確かに、音は妙に耳に残る。
拍手。
上映の終わり。
あるいは、これから始まる合図。
敦は耳元の空気をもう一度ずらした。
拍手の意味を壊す。
ただの振動へ。
スマホの震えが弱まる。
橘が真壁に指示する。
「机の周辺、写真を撮らずに位置だけ記録。映像記録は使わない」
「了解」
真壁は紙に配置を書き始めた。
いちいち画面を撮らない。
見ないための記録。
それが今は一番安全だった。
御影が黒い箱へ近づく。
「これが映写卓の芯です。けれど本体ではない」
「また中継ですか」
「はい。仮設卓。ここでDMを配り、反応を集め、どこかへ送っている」
「どこか」
「映す側の本拠です」
敦は黒い箱を見た。
見ると言っても、正面からではない。
気配だけを見る。
箱の奥から、細い黒い線が伸びている。
一本ではない。
何本もある。
その中で、一番太い線が床へ沈み、倉庫の外へ向かっている。
いや、外ではない。
もっと下。
地面の下を這うように、どこかへ伸びている。
「線、出てます」
御影が顔を上げる。
「追えますか」
「追えます。でも深く行くと、向こうにも俺が分かる」
烏丸が即座に言った。
「深く追う未来は悪いです」
「ですよね」
「ただ、向きだけ見る未来は良いです」
「向きだけ」
敦は聖銀片をポケットの中で握った。
白い力は使わない。
無属性でも触れすぎない。
穢れの流れだけを見る。
北ではない。
東でもない。
内陸へ向かっているようで、途中で曲がる。
水の匂い。
古い橋。
地下のような冷たさ。
そして、たくさんの画面。
そこまで見えた瞬間、黒い線がこちらを向いた。
目が合いそうになる。
敦はすぐに手を離した。
「ここまで」
息が少し荒い。
橘がすぐに聞く。
「何が見えました」
「水の匂い。古い橋。地下っぽい冷たさ。あと、画面が多い場所」
真壁が顔を上げる。
「地下街か?」
榊原の声が無線で入る。
『大阪市内で地下、画面が多い場所は多いわ。駅、地下街、商業施設、ネットカフェ、古い防災センター。絞り込みは分析班へ』
御影が言う。
「この箱を支部へ持ち帰れば、もう少し追えます」
「持ち運びは?」
「危険です。でも、このまま置く方が危険」
烏丸が目を閉じる。
「運ぶ未来は悪くありません。ただし、スマホ群を先に封じてから」
「分かりました」
御影が机へ札を重ねる。
伏せられたスマホの一つが、また震えた。
今度は音ではない。
画面の下から、白い光が漏れている。
敦はそれを見ない。
ただ、光に混じる黒い筋だけを焼く。
薄く。
細く。
一台。
二台。
三台。
全部を深く焼く必要はない。
机全体に絡んだ親糸を弱める。
御影の青い線が、その上から蓋をする。
スマホ群の震えが止まった。
部屋が静かになる。
ノートパソコンからの声も消えていた。
黒い箱も、今は沈黙している。
橘が無線に向かって言う。
「現場の映写卓を仮封鎖。スマホ多数、ノートパソコン、配信機材、黒い箱。証拠保全は紙記録中心。映像撮影は行いません。祓戸連盟が封印搬送予定」
榊原が返す。
『了解。警察と管理会社へは、情報機器を用いた不審誘導拠点として処理。機器解析は安全処置後』
「はい」
敦は黒い机を見た。
画面は伏せられている。
客席は見えない。
それでも、ここに座らされかけた人間がいる。
病院の女性。
高校生。
配信者。
煽りアカウント。
自称霊能者。
そして、三上。
黒玻璃堂は、誰でも観客にする。
助けを求める人も、疑う人も、止める人も。
その平等さが、ひどく歪んでいた。
その時、机の下から滑り出した黒い箱の表面に、細い文字が浮いた。
敦は正面から見ない。
橘が紙に書き取る。
「読みます」
御影が止めようとしたが、烏丸が首を横に振った。
「読む未来は悪くありません。短く」
橘は低く読み上げた。
「《仮設卓、停止》」
文字はそこで一度途切れた。
そして、もう一行。
「《本卓、未上映》」
敦の拳が握られる。
本卓。
やはり、ここではない。
ここは仮設。
送るための卓の一つ。
本当の映写卓は、まだどこかにある。
黒い箱の文字は、油のように滲んで消えた。
御影がすぐに札を重ねる。
「これ以上は読ませません」
「十分です」
敦は低く言った。
十分だった。
相手は、まだ本命を隠している。
しかし、こちらも一つ潰した。
仮設卓。
DMをばらまき、反応を集め、観客を選んでいた場所。
それを止めた。
完全ではない。
でも、ゼロではない。
橘の無線が鳴る。
榊原の声だった。
『DMの新規送信、止まりました。少なくとも今の波は切れています』
事務所ではない。
現場の倉庫の中なのに、その言葉だけで空気が少し軽くなった。
敦は目を閉じ、短く息を吐いた。
「よかった」
心からそう思った。
だが、烏丸は白い杖を床に当てたまま、顔を上げなかった。
「悪い未来は消えていません」
「でしょうね」
「でも、少し形が変わりました」
「良い方に?」
「少しだけ」
敦は小さく頷いた。
少しだけ。
今は、それでいい。
全部を救えない。
全部を焼けない。
全部を追えない。
それでも、今送られていたDMは止まった。
誰かの手の中に開きかけていた劇場を、少しだけ閉じられた。
黒い机は、札で覆われていく。
伏せられたスマホは、もう鳴らない。
ノートパソコンも沈黙している。
だが、敦にはまだ聞こえていた。
遠く。
もっと遠く。
どこか地下のような冷たい場所で、別の映写機がゆっくり回り始める音。
かたかた。
かたかた。
本卓、未上映。
その言葉だけが、胸の奥に残った。




