第16話 手の中の劇場
《劇場は、あなたの手の中》
三上が読み上げたその一文の後、事務室の空気が止まった。
誰も、すぐには声を出さない。
机の上には、隔離端末。
壁際には大型モニター。
それぞれの手元には、スマホ。
どれも、ただの機械だ。
ただの板だ。
だが、今は違って見えた。
黒い画面。
光る文字。
通知音。
人が毎日、何度も覗き込む小さな窓。
それが全部、客席になり得る。
敦は、自分のスマホを見た。
画面は伏せてある。
黒い板が、机の上で静かに沈黙している。
それなのに、どこかで古い映写機が回る音がした気がした。
かたかた。
かたかた。
榊原が低く言った。
「全員、私物端末は画面を伏せて。通知音を切ってください。三上くん、事務所内の表示機器を隔離」
「やっています」
三上の指が、すぐにキーボードを叩く。
橘も自分の端末を伏せた。
真壁は無言でスマホをポケットに入れる。
烏丸は白い杖を机の脚に軽く当てた。
「音から入る未来があります。画面より先に、通知音」
「通知音?」
敦が聞くと、烏丸は頷いた。
「映画館の映写音と同じです。見る前に、聞かせて意識を向けさせる」
橘が即座に言う。
「三上さん、注意文に追加。通知音を切る。端末を伏せる。単独でDMを開かない」
「入れます」
榊原は別回線へ指示を飛ばしていた。
「警察、自治体、病院、学校へ共有。文面は『奇跡・治癒・心霊をうたう不審DM』。龍宮寺さんの名前は出さない。黒玻璃堂の名称も一般公開はまだ避ける」
敦は端末を見ないまま、声だけを聞いていた。
正しい。
たぶん正しい。
けれど、正しい手順が進むほど、胸の奥がじりじりする。
今この瞬間にも、誰かがあのDMを開くかもしれない。
母親を助けたい人。
弟を助けたい人。
呪いから逃げたい人。
本物かどうか確かめたい人。
ただ、見たい人。
その全員の手の中に、劇場がある。
三上が隔離端末の一つを指した。
「新しいDMのサンプルを表示します。外部回線は切っています。表示ログも保存。画面録画も別系統で残します」
「見る必要があるのは誰ですか」
間宮の声がオンライン回線から入った。
画面は音声だけに切り替えられている。
顔は出していない。
それも、今は正しい判断なのだろう。
榊原が答える。
「三上くん、橘さん、龍宮寺さん。烏丸さんは未来確認。私は音声で把握します」
『龍宮寺さんに直接見せる必要はありますか』
「残滓を落とせるか確認する必要があります」
『なら、見せる範囲を限定してください。文字内容ではなく、異常部分だけを見せる形で』
「了解しました」
三上が画面を調整する。
DM本文の一部に黒いマスクがかかり、文字そのものは読みにくくなった。
ただ、黒い粒だけが残る。
フィルムの傷のような砂嵐。
その奥に、小さな座席が並んでいるように見えた。
小さい。
けれど、確かに客席だった。
敦は息を吐く。
「これ、画面の中に客席作ってますね」
橘が眉を寄せる。
「客席?」
「はい。スマホを見た人間の意識を、そこへ座らせる感じです」
烏丸が白い杖を強く握った。
「長く見る未来は悪いです。龍宮寺さん、十秒以内」
「十秒ですね」
「深く追わないでください。あなたが入ると、相手に道ができます」
「分かってます」
敦は右手を上げた。
白い力を出す。
だが、画面へ叩きつけない。
黒い粒だけを見る。
文字ではない。
画面でもない。
そこに絡んでいる細い針。
通知音に乗って、人の目を引く針。
それを、一本だけ摘まむような感覚で焼く。
白い光が、隔離端末の画面を薄く撫でた。
一秒。
二秒。
三秒。
黒い砂嵐が、少し薄くなる。
奥に並んでいた小さな客席が揺れた。
四秒。
五秒。
かたかたという音が、部屋のどこかで鳴った。
三上が顔を強張らせる。
「音、出してません」
「聞こえてます」
敦は奥歯を噛んだ。
音は端末から出ているのではない。
こっちの意識の奥へ、直接響いている。
六秒。
七秒。
白い光を強めたくなる。
全部焼けば楽だ。
だが、画面ごと焼けば証拠が消える。
深く追えば、相手に道を渡す。
八秒。
烏丸が言った。
「そこまで」
敦は手を引いた。
画面は残っている。
文面も残る。
だが、黒い粒はかなり薄くなっていた。
三上が数値を見る。
「異常反応、六割低下。DM画像としては残っています。誘導力だけが落ちています」
「六割か」
敦が呟くと、榊原が即座に言った。
「十分です。完全に消すより、対処法が作れる方がいい」
橘も頷く。
「この状態のサンプルを基準にします。黒いノイズがあるものは危険、処理後は誘導力低下。三上さん、検知パターン化できますか」
「やります。画像の黒ノイズ、通知音の異常、文面の一致、短縮リンク、DM送信元の生成時期。組み合わせます」
「プラットフォーム側へ」
「危険誘導、詐欺、医療デマ、心霊商法、未成年誘導の全部で申請します」
敦は三上を見た。
目の下に隈が濃い。
彼も昨日からずっと画面を見続けている。
黒玻璃堂は、観客だけではなく、見張っている側も狙うかもしれない。
そう思った瞬間だった。
監視用に残していた作業端末の一つが、短く鳴った。
事務所内の私物端末は伏せてある。
通知音も切ってある。
だが、その端末だけは、黒玻璃堂の動きを追うために隔離回線の中で開いていた。
かた。
かたかた。
普通の通知音ではない。
映写機の音だった。
三上の手が止まる。
視線が、作業端末へ吸われた。
「三上さん」
橘が呼ぶ。
三上は返事をしなかった。
画面に、黒い背景が開いている。
そこに白い文字が浮かんでいた。
《観測者席へ》
敦は動いた。
「三上さん、目ぇ離せ!」
三上の肩が震える。
しかし、目が離れない。
黒い画面の奥に、小さな客席がある。
その一番前の席に、誰かが座っている。
顔はない。
だが、パソコン画面を覗き込む姿勢だけが、妙に三上に似ていた。
橘が三上の肩を掴もうとする。
烏丸が叫んだ。
「触る前に画面を伏せて!」
真壁が机ごと回り込み、端末の蓋を閉じようとする。
だが、画面の黒い文字が一瞬だけ伸びた。
細い糸が、三上の目へ向かう。
敦は右手を出した。
画面と三上の間に、無属性魔法で空気の膜を作る。
見えない壁。
完全ではないが、視線を少しだけ歪ませる壁。
黒い糸がそこに引っかかった。
同時に、敦は白い力を走らせる。
画面は焼かない。
端末も壊さない。
三上の目にも触れない。
黒い糸だけを焼く。
じゅ、と小さな音がした。
三上が大きく息を吸った。
「はっ……!」
真壁が端末を閉じる。
橘が三上の前に立ち、視界を遮った。
「三上さん、私を見てください。画面を見ない。呼吸してください」
「す、すみません」
「謝らなくていい。呼吸を」
三上は両手で机を掴み、肩で息をしていた。
敦はその顔を見た。
目の奥に、まだ黒い粉のようなものが残っている。
深くはない。
だが、放っておくと、また画面を見たくなる。
「橘さん」
「はい」
「緊急処置します。記録を」
「記録します。三上さん、同意できますか」
三上は苦しそうに頷いた。
「はい……お願いします」
敦は手をかざした。
額には触れない。
目にも触れない。
白い力を細く伸ばし、三上の目の奥へ入ろうとしていた黒い粉だけを洗う。
記憶はいじらない。
恐怖も消さない。
ただ、画面へ引っ張る針を抜く。
三上の呼吸が、少しずつ落ち着いた。
「……戻りました」
「吐き気は?」
「少し。でも、大丈夫です」
榊原が厳しい声で言う。
「大丈夫、で終わらせません。三上くんは十分休憩。代替の分析班へ一部移管」
「でも、今抜けると」
「抜けなさい」
榊原の声は冷たかった。
しかし、その冷たさは三上を切り捨てるものではない。
守るための冷たさだ。
「あなたも観測者です。観測者が倒れれば、名簿そのものが崩れます」
三上は唇を噛み、ゆっくり頷いた。
「……はい」
敦は端末を見下ろした。
閉じられた作業用端末の隙間から、まだ黒い気配が少し漏れている。
「三上さんを直接狙ったんですか」
橘が低く言う。
烏丸が頷いた。
「見ている人間を、客席へ座らせる。観客だけではありません。探す人、監視する人、止める人も対象です」
「最悪ですね」
「はい。かなり」
榊原がすぐに指示を出した。
「分析班は二十分ごとに交代。単独閲覧禁止。画面確認は二名一組。異常音が出た端末は即時閉鎖。龍宮寺さんの浄化を前提にしない。まず物理的に見ない、聞かない」
間宮の声が入る。
『その運用を文書化してください。龍宮寺さんが常時監視員の治療役に回ることは認めません』
「もちろんです」
榊原は即答した。
「龍宮寺さん」
「はい」
『あなたも今の件を見て、さらに助けたくなっているはずです』
「はい」
『だからこそ、今ここで決めてください。画面を見た全員をあなたが直接処置するのではありません。まずは見せない。次に閉じる。必要な時だけ処置する』
「分かりました」
『本当に?』
「怪しいです」
間宮は少しだけ間を置いた。
『なら、周囲が止めます』
「お願いします」
敦は素直に言った。
自分だけでは、たぶん止まれない時がある。
それを認めるのは悔しい。
だが、認めなければ、黒玻璃堂の思うつぼになる。
三上は椅子に座らされ、橘に水を渡されていた。
顔色はまだ悪い。
それでも、指先は震えながら端末へ伸びかける。
橘がそれを止めた。
「休憩です」
「ログだけ」
「休憩です」
「でも」
「三上さん」
橘の声が少しだけ強くなった。
「あなたも保護対象です」
三上は固まった。
それから、ゆっくり手を下ろした。
「……分かりました」
敦は、そのやり取りを見て胸が重くなった。
自分だけではない。
巻き込まれるのは、被害者だけではない。
助けようとする人間も、観客にされる。
見る側に回ったつもりの人間も、いつの間にか座席に座らされる。
黒玻璃堂は、そこを狙っている。
榊原が一覧表を見た。
「返信済み五件の状況を確認します」
橘が読み上げる。
「一件目、病院の女性。病院側が外出を止め、相談員と医師が対応中。黒いDMは端末を伏せさせ、本人には見せていません」
「二件目」
「高校生。学校と保護者へ連絡中。最寄り駅へ向かっている可能性あり。警察が確認へ」
「三件目」
「心霊系配信者。DM画像を投稿済み。プラットフォームへ削除申請。本人へは警察から連絡」
「四件目」
「自称霊能者。すでに《上映場所はどこだ》と返信。祓戸連盟奈良支部が確認へ」
「五件目」
「煽りアカウント。本人情報が薄いですが、位置情報のある過去投稿から大阪市内南部の可能性。警察照会中」
敦は黙って聞いた。
名前は出ない。
細かい事情も出ない。
それでいい。
知りすぎれば、引かれる。
それでも、五件という数だけで重い。
いや、五件だけではない。
三十四件。
これからもっと増える。
「榊原さん」
「何?」
「俺にできること、ありますか」
榊原はすぐには答えなかった。
それから、ゆっくり言う。
「あります。ただし、今すぐ走ることではありません」
「はい」
「DMの誘導力を落とす処置。その手順を、御影さんたちの簡易符と組み合わせて再現できるか検討します」
「俺の力を量産するってことですか」
「違います」
榊原の声は強かった。
「あなたを電池にしない。あなたが一度落とした残滓の変化を、退魔側の術式と情報側の検知で模倣できる範囲を探る。あなた本人が何千件も焼く前提にはしません」
敦は少しだけ息を吐いた。
「そこ、大事です」
「ええ。大事です」
御影の声が、別回線から入った。
『聞こえています。大阪支部で簡易符の調整に入ります。龍宮寺さんが焼いた後のサンプル、こちらにも送ってください。もちろん、封印環境で確認します』
「御影さん、移送は?」
『無事に封印庫へ入りました。フィルム缶はまだ開けていません』
「よかった」
『よくはありません。ですが、最悪ではない』
「最近そればっかりですね」
『事実です』
御影の声は疲れていたが、いつもの硬さが戻っている。
『三上さんは?』
橘が答える。
「緊急処置済み。休憩に入れます」
『観測者狙いですか』
「はい」
『なら、画面確認班に札を増やします。人間は、見れば引かれます。専門家でも同じです』
三上が小さく頷いた。
「……はい」
榊原が机を軽く叩いた。
「方針を固めます。第一に、DMを受け取った人を直接会場へ行かせない。第二に、画面を見続けさせない。第三に、返信済みの人は個別保護。第四に、監視・分析側も二名一組、時間制限。第五に、龍宮寺さんの処置は例外対応」
橘がそのまま文書化していく。
真壁は入口近くで、外部からの来訪者を確認していた。
烏丸は白い杖を膝の上に置き、目を閉じている。
見えない悪い未来を、床のひびのように探しているのだろう。
敦は、伏せた自分のスマホを見た。
劇場は手の中。
黒玻璃堂の言葉は、嫌なほど正しい。
現代の人間は、小さな劇場を持ち歩いている。
そこに通知が来れば見る。
音が鳴れば見る。
不安があれば見る。
救いがあると言われれば、なおさら見る。
魔王の軍勢より厄介かもしれない。
魔物は正面から来る。
だが、これは手の中に来る。
三上が休憩席から、小さく声を出した。
「あの」
榊原が振り向く。
「休憩中です」
「はい。休憩中に言います」
三上は少し苦笑した。
「黒玻璃堂のDM、送信元が完全にばらばらです。でも、文章の生成タイミングに揺れがあります。全部同時じゃない。どこかに、一度まとめてから配っている節があります」
「親元がある?」
「たぶん。サーバーというより、配信卓みたいなものです」
敦は顔を上げた。
「配信卓」
三上は頷いた。
「劇場って言うなら、客席だけじゃありません。映写室、スクリーン、客席。そこに、送る側の卓があるはずです」
烏丸が目を開けた。
「その言葉は、良い未来に近いです」
「本当ですか」
「はい。少しだけ」
榊原が三上を見る。
「休憩後でいい。親元の痕跡を探して。ただし一人では見ない」
「はい」
橘が、三上の端末を遠ざけた。
「休憩後です」
「はい」
敦は少しだけ笑いそうになった。
笑える状況ではない。
だが、三上が戻ってきたことに安心した。
黒玻璃堂は、観測者席へ三上を座らせようとした。
それでも、まだこちら側にいる。
それは小さくない。
その時、隔離端末の画面が、勝手に一度だけ明るくなった。
全員が動きを止める。
画面には、黒い背景。
白い文字。
ただし、今度はDMではなかった。
古い映画の字幕のように、画面の中央へ一行だけ浮かんでいる。
《映写卓、準備中》
そして、すぐに消えた。
三上が息を呑む。
榊原が低く言う。
「録画は」
「残っています」
烏丸が杖を握り直した。
「悪い未来が、形を持ちました」
敦は画面を見ないようにしながら、拳を握った。
映写卓。
客席ではない。
劇場でもない。
今度は、映す側。
黒玻璃堂は、観客だけでは足りず、映す場所そのものを作ろうとしている。
なら、そこを見つけなければならない。
ただし、走る前に。
燃やす前に。
誰が見ているか、誰が見せられているか、誰が映そうとしているかを、間違えずに。
敦はゆっくり息を吐いた。
「次は、映す側を探す番ですね」
榊原が頷く。
「ええ。ただし、こちらも見られていることを忘れずに」
敦は伏せたスマホから目を逸らした。
手の中の劇場。
それを持っているのは、敵だけではない。
自分たちも同じだった。




