第15話 観客の名簿
《観客、選定済》
黒いフィルム缶に浮かんだその文字は、消えなかった。
御影が札を重ねても、青い線で縛っても、文字だけは油染みのように缶の表面へ残っている。
まるで、こちらに見せるために残しているようだった。
映写室の中は静かになっていた。
さっきまで回っていた映写機は止まり、フィルムも動かない。スクリーンへ伸びていた青白い光も消えている。
それでも、敦の耳にはまだ、かたかたという音が残っていた。
映写機の音。
フィルムが回る音。
誰かの不幸を、見世物へ変えようとする音。
橘の端末から、三上の声が続く。
『DMを受け取った可能性があるアカウントを洗っています。現時点で確認できたのは二十七件。ただし、拡散前に削除されたもの、鍵アカウント、引用だけしたアカウントもあるので、増えます』
「内容は全部同じ?」
橘が聞く。
『基本文は同じです。《奇跡を見たい方へ。上映場所は後ほど》。ただ、一部だけ追記があります』
「追記?」
三上の声が、少し硬くなった。
『個別の事情に合わせた文面です。たとえば、病気の家族について投稿していた人には、《治る瞬間を見たいなら》。事故で亡くなった人について書いていた人には、《戻る場面を見たいなら》。呪いを訴えていた人には、《祓われるところを見たいなら》』
映写室の空気が、また冷えた。
敦は黒いフィルム缶を見下ろした。
怒りが込み上げる。
だが、燃やさない。
御影に言われた言葉を、まだ覚えている。
怒っていい。
燃やさなければ。
「人の弱いところだけ拾ってるんか」
敦の声は低かった。
御影が頷く。
「はい。助けを求める言葉は、強い糸になります」
「それを観客席へ引く」
「おそらく」
橘は端末を握り直した。
「三上さん、緊急度で分けてください。自傷リスク、病人・子ども・高齢者、現在地が特定できる人、すでに返信している人を優先」
『やっています。榊原さんも別回線で警察と自治体へ繋いでいます』
「祓戸連盟側は?」
御影が答える。
「大阪支部と奈良支部へ連絡します。DMを開いた時点で軽い接触がある可能性もあります」
烏丸が白い杖を床に当てた。
こつん。
映画館の映写室に、その音だけが乾いて響く。
「すぐに移動する未来は、少し悪いです」
「また止まるんですか」
敦が聞くと、烏丸は首を横に振った。
「止まるのではなく、見る順番を間違えない方がいいです。全員を追えば、誰も追えません」
敦は何も言えなかった。
それは分かる。
分かってしまう。
昨日から何度も言われている。
全部は助けられない。
全部を自分の呼び出し音にしてはいけない。
だが、今回は相手がその呼び出し音を作っている。
助けてほしいという声を集めて、観客にしようとしている。
それを知って、何も感じないわけがない。
真壁が映写室の入口から戻ってきた。
「周辺に不審者はいない。外に人も集まっていない」
「二人の会員は?」
橘が聞く。
「救急に引き渡した。意識あり。女の方は、まだ『自分が映っていた』と言っている。男は吐き気と頭痛」
敦は少し息を吐いた。
助かった。
完全ではないにしても、戻した。
それだけは確かだった。
御影が黒いフィルム缶を封印布で包み始める。
「これは支部へ運びます。ここで開けてはいけません」
「開けたら?」
「本上映の断片が出ます」
「断片」
「はい。フィルムの中に、まだ上映されていない像が入っています。うかつに見れば、見る側が客席になります」
敦は眉を寄せた。
「映画そのものが入口になるんですね」
「はい。映画は、見る者の意識を同じ方向へ揃える。そこを利用されています」
橘が端末を見ながら言う。
「まず月映座は封鎖します。管理会社と警察へ正式に要請。保存会にはイベント中止を通達。表向きは設備トラブルと安全確認です」
「保存会の人らは納得しますか」
「納得してもらいます。納得しなくても止めます」
橘の声は静かだった。
だが、迷いはなかった。
昨日より、ほんの少しだけ頭が静かになったように見える。
朝にかけた白魔法の効果かもしれない。
いや、それだけではない。
橘自身が、今どこに線を引くべきか決めている。
敦はそう見た。
三上の声がまた入った。
『優先対象、一件出ました』
全員が端末を見る。
『大阪市内。投稿者は女性。母親の末期がんについて、昨夜「梅田の聖者さん、本物なら母を助けてください」と投稿しています。黒玻璃堂からのDMに返信しています』
敦の胸が沈んだ。
「返信内容は?」
『《行きます。どこですか》です』
映写室が静まり返った。
烏丸の杖が、こつりと鳴る。
「悪い未来が濃いです」
「その人が危ない?」
「はい。でも、今すぐ死ぬ未来ではありません。連れていかれる未来です」
「どこへ」
「暗い場所。座席。たぶん本上映の客席」
敦は目を閉じた。
行きます。
どこですか。
それは、責められない。
母親を助けたいのだ。
助かるかもしれないと思えば、行くだろう。
敦だって、もし自分がその立場ならどうするか分からない。
「住所は?」
橘が聞く。
『アカウント情報だけでは不確定です。ただ、過去投稿から病院名が推定できます。市内の緩和ケア病棟です。榊原さんが病院へ繋いでいます』
「返信して」
『こちらから?』
「公式にはまだ動けない。まず病院ルートで本人確認。直接DMは、相手を刺激する可能性がある」
橘は一瞬だけ考え、敦を見た。
「龍宮寺さん」
「はい」
「あなたは、今この投稿を見ない方がいい」
敦は息を止めた。
「何でですか」
「見たら、行きたくなるからです」
「もう聞きました」
「本文を読むのと、概要を聞くのは違います」
橘の声は柔らかくない。
でも、正しい。
敦は、スマホを出しかけた手を止めた。
見れば、たぶん動く。
その人の言葉を読めば、声が直接胸に刺さる。
母を助けてください。
その一文だけで、足が前へ出る。
だから、見ない。
今は。
「分かりました。見ません」
橘は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることですか」
「はい。止まるのも協力です」
また、それだ。
止まる。
見る順番を間違えない。
一人で全部抱えない。
何度も言われる。
何度も言われないと、たぶん忘れる。
御影がフィルム缶の封印を終えた。
「支部へ運びます。私は一度これに同行します」
「御影さんが抜けるんですか」
敦が聞くと、御影は頷いた。
「この缶は危険です。支部までの道中も見張る必要があります」
「じゃあ、次の現場は?」
「奈良支部から退魔師を一人出してもらいます。ただし、龍宮寺さんと直接組むなら、私の方がまだ話が早い」
「じゃあ戻ってきてください」
「戻ります」
御影は、封印布を抱え直した。
「それまで、深追いしないでください」
「分かってます」
「本当に?」
「だいぶ怪しいです」
「では、橘さんと烏丸さんの言うことを聞いてください」
「了解です」
緊張の中で、ほんのわずかに空気が緩んだ。
だが、すぐに戻る。
橘が言った。
「一度、大阪へ戻ります。三上さんと榊原さんのところでDM対象者の整理。病院の女性については、病院ルートで接触。黒玻璃堂から次の場所が送られる前に、保護の導線を作ります」
「俺は?」
「同行してください。ただし、直接投稿は見ない。病院の女性にも、いきなり会いに行かない。必要になれば、こちらから依頼します」
「分かりました」
敦は自分でも驚くくらい素直に言った。
たぶん、怒りが強すぎて、逆に冷えている。
間違えて燃やせば、相手の思うつぼだ。
だから、今は橘に従う。
真壁が先に階段を下りる。
御影は封印布を抱え、別の連盟車へ向かうことになった。
烏丸は少し迷った後、橘たちの車に乗ると言った。
「悪い未来の散り方が、龍宮寺さんの周りに寄っています」
「嬉しくないですね」
「僕も嬉しくありません」
月映座の外へ出ると、昼の光がまぶしかった。
古い映画館の前には、警察官が立ち、管理会社の担当者が電話で何度も頭を下げている。
普通の町の一角。
そこに、さっきまで人を映像の中へ引き込もうとするものがあった。
敦は建物を振り返る。
看板の文字。
《月映座》
もうスクリーンの光は漏れていない。
それでも、どこかで誰かが次の上映場所を用意している。
黒玻璃堂。
名前だけが、少しずつ重くなっていく。
大阪へ戻る車内で、三上から状況が流れ続けた。
『DM確認済み、三十四件に増えました。うち返信済みが五件。位置がある程度推定できるものが九件。医療関係が四件、呪い・心霊相談系が七件、事故・失踪関係が三件。残りは本人確認中です』
「返信済み五件を優先」
橘が言う。
『はい。一件は先ほどの病院関係。二件目は高校生と思われるアカウント。家族に内緒で行くと返信しています。三件目は、心霊系配信者です』
「また配信者か」
敦が低く言う。
『ただ、今回は水瀬海斗さんほど大きくありません。むしろ、黒玻璃堂から誘導されている側です』
「四件目、五件目は?」
『一件は自称霊能者。もう一件は、昨日から「聖者は偽物」と煽っていたアカウントです。ただ、その人もDMには返信しています』
真壁が運転しながら低く言う。
「煽りでも見に行くか」
橘が答える。
「見に行きます。疑う人ほど、証明を見たがる」
敦は窓の外を見た。
人は、見たい。
本物かどうか見たい。
奇跡を見たい。
助かるところを見たい。
戻るところを見たい。
そして、見たものを誰かに言いたい。
黒玻璃堂は、その欲を使っている。
怪異だけなら、まだましだったかもしれない。
人の欲が混じるから、広がる。
「三上さん」
敦は言った。
『はい』
「DMを受け取った人の画面に、もう何か出てますか」
『一部、黒いノイズの報告があります。DM画面を開いた後、スマホ画面が暗く見える、文字が滲む、通知音がフィルムの回る音に聞こえる、といった投稿が出ています』
「それ、焼けますか」
橘が敦を見る。
「遠隔で?」
「画面そのものは無理です。でも、ここにサンプルがあれば、似た道を辿れるかもしれません」
烏丸がすぐに言った。
「深く辿る未来は悪いです。相手にあなたの道を渡します」
「浅くなら?」
「浅くなら、少し良い未来があります」
橘が考える。
「三上さん、DMのスクリーンショットは?」
『被害者本人から直接はまだありません。ただ、心霊系配信者が画像を投稿しています。黒いノイズが乗っています』
「それを表示すると危険?」
『こちらの隔離端末で開けます。外部回線から切った状態で』
「龍宮寺さん、やりますか」
敦は少し考えた。
やる。
ただし、全部は追わない。
浅く。
残滓だけ。
昨日から何度も練習していることだ。
「やります。ただし、三上さんの端末で。一般の人のスマホには直接触らない」
『準備します』
事務所へ戻る頃には、空が少し傾き始めていた。
まだ夕方ではない。
だが、今日もすでに長い。
五階の事務室には、榊原がいた。
机の上には、DM対象者の一覧、病院連絡、警察照会、祓戸連盟への連絡表が並んでいる。
間宮とのオンライン回線も、別画面で待機状態になっていた。
弁護士までいる。
敦はその画面を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
榊原が顔を上げる。
「おかえりなさい。月映座の二名は命に別状なし。現場は封鎖。フィルム缶は祓戸連盟が移送中」
「はい」
「あなたの状態は?」
「疲れてます。でも動けます」
「動ける、は判断材料の一部です。全部ではありません」
「分かってます」
榊原は頷いた。
「では、今からやることを整理します。まずDMの黒い残滓を確認。次に返信済み五件の保護方針。病院の女性については、病院側と連携して直接接触を止めます。高校生は学校と保護者。配信者と自称霊能者、煽りアカウントは警察とプラットフォーム経由」
「俺が直接行くのは?」
「今はありません」
敦は息を吐いた。
少し、悔しい。
だが、正しい。
今は、走り回るより先に、観客の名簿を作る必要がある。
誰が狙われているのか。
誰がもう返事をしたのか。
誰が危ない場所へ向かいそうなのか。
それを見誤れば、助けられるはずの人を見落とす。
烏丸の言葉が、まだ耳に残っていた。
三上が隔離端末を机に置く。
「これです。外部回線は切ってあります。画面録画も別系統で保存。画像データは複製済みです」
「開いて大丈夫ですか」
三上が緊張した顔で頷く。
「御影さんの簡易札を端末の下に敷いています。祓戸連盟大阪支部にも、画面越しの軽い影響を落とす簡易符を回してもらっています」
烏丸が白い杖を床に置く。
「浅く見る未来は良いです。深く入る未来は悪い。三呼吸以内」
「また三呼吸」
敦は端末の前に立った。
画像を開く。
黒い背景に白い文字。
《奇跡を見たい方へ。上映場所は後ほど》
その文字の周囲に、黒い粒が揺れている。
フィルムの砂嵐のようだった。
じっと見ていると、奥から何かが回る音が聞こえそうになる。
敦は音を聞かない。
文字も読まない。
黒い粒だけを見る。
画面そのものではない。
画像に絡んだ残滓。
それを、白い光で撫でる。
一呼吸。
黒い粒が少し焦げる。
二呼吸。
文字の周囲の滲みが薄くなる。
三呼吸。
敦は手を引いた。
端末の画面は残っている。
文字も残る。
証拠は消えていない。
だが、見ているだけで胸の奥を引っ張られるような嫌な感覚は消えた。
三上がすぐに数値を見る。
「異常反応、低下。画像データは残っています。これなら、同じ文面を見た人への初期対応パターンを作れるかもしれません」
「どうやって?」
敦が聞く。
「プラットフォームに危険リンク・有害誘導として一斉申請。病院や学校、警察へ共有する注意文面も作ります。『この文面を見ても開かない、返信しない、指定場所へ行かない』という形で」
榊原が頷く。
「祓戸連盟大阪支部にも、画面越しの軽い影響を落とす簡易符を回してもらいます」
橘が端末を操作する。
「一般向けには、心霊・奇跡・治癒をうたう不審DMへの注意喚起。龍宮寺さんの名前は出しません」
「出したら余計に集まりますもんね」
「はい」
敦は端末に残った文字を見た。
《奇跡を見たい方へ。上映場所は後ほど》
奇跡。
嫌な言葉だと思った。
奇跡を求める人は、悪くない。
だが、奇跡を餌にする者はいる。
それを、目の前で見せられている。
「病院の女性は?」
敦が聞くと、榊原が答えた。
「病院側が本人と接触しました。黒玻璃堂からのDMを見て、外出しようとしていたようです」
敦の拳が握られる。
「今は?」
「止めています。病院の相談員と医師が対応中。必要なら、こちらから警察も行きます」
「お母さんは」
言いかけて、敦は止まった。
聞いてどうする。
治せるかもしれないと思う。
行きたくなる。
でも、その情報を今ここで自分が直接抱えるのは危ない。
榊原はそれを分かっているように、静かに言った。
「医療情報は、本人と病院のものです。今はあなたに渡しません」
「はい」
「冷たく聞こえるでしょう」
「聞こえます」
「それでも、必要です」
「分かってます」
敦は、奥歯を噛んだ。
冷たい。
だが、正しい。
何でも知ればいいわけではない。
何でも見ればいいわけではない。
自分に届いた声が全部、自分の責任になるわけではない。
そう決めたはずだ。
それでも、胸は痛む。
間宮の画面が明るくなった。
『龍宮寺さん、聞こえますか』
「はい」
『今の判断は、つらいですが正しいです。あなたが個別の医療情報を直接受け取ると、治せるかどうかの判断責任を背負わされます。今は、医療機関と窓口が受けるべきです』
「はい」
『ただし、あなたが何もしないという意味ではありません。今やったように、DMの残滓を落とす、危険な誘導を止める、観客になりそうな人を守る。それも協力です』
敦は画面を見た。
間宮はいつも通り、淡々としている。
優しく慰めるわけではない。
それが、今はありがたかった。
「分かりました」
『その方針で続けてください』
間宮の言葉が終わるのと同時に、三上の端末がまた鳴った。
短い警告音。
全員の表情が一瞬で戻る。
「三上さん」
榊原が言う。
「何」
三上は画面を見つめていた。
顔色が悪い。
「黒玻璃堂から、次のDMが出ました」
「文面は」
三上は息を呑んでから、読み上げた。
「《上映場所、変更》」
敦は端末を見た。
三上の指が、震えながら画面を切り替える。
「《劇場は、あなたの手の中》」
沈黙が落ちた。
劇場は、あなたの手の中。
敦は、自分のスマホを見た。
画面は伏せてある。
だが、その黒い板が、急に別のものに見えた。
小さな劇場。
誰もが持っている客席。
誰もが覗くスクリーン。
御影の言葉が脳裏をよぎる。
配信は広がる。
映画館は深く入る。
スマホは。
その両方だ。
烏丸が白い杖を強く握った。
「悪い未来が、一気に増えました」
敦は、ゆっくり息を吸った。
吐く。
怒りはある。
恐怖もある。
だが、今は燃やさない。
見誤らない。
黒玻璃堂は、劇場そのものを持ち歩かせようとしている。
なら次に守るのは、建物ではない。
画面を見る人間そのものだ。
敦は伏せたスマホを見たまま、低く言った。
「ほんま、現代社会って厄介やな」




