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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第14話 試写の客席

 影見写真館を出た時、空はまだ昼前の明るさだった。


 けれど敦には、朝から一日分の仕事を終えたような重さが残っていた。


 暗室の赤いランプ、吊られた印画紙、古い大判カメラ。そして、紙の裏に残されていた《撮影失敗。次は、上映》という言葉。


 撮影。


 上映。


 相手は、段階を上げている。


 鏡で覗き、レンズで繋ぎ、写真で残す。


 次は、見せる。


 誰かに。


 たくさんの誰かに。


 敦は、封印布で包まれた黒い箱を見た。


 御影が両手で抱えている。中から声はしないが、ただの箱には戻っていない。人の顔を紙に貼りつけようとした何かの残り香が、布越しにまだ薄く滲んでいた。


「これも支部へ?」


 敦が聞くと、御影は頷いた。


「はい。写真、黒い箱、床下の封筒、額縁。すべて大阪支部へ移します。封印庫で確認します」


「燃やさずに」


「燃やさずに」


 御影の声は、少しだけ柔らかかった。


「よく我慢しましたね」


「褒められてるんですか」


「はい」


「子ども扱いやな」


「いえ。大人でもできない人は多いです」


 その言葉に、敦は返しに詰まった。


 確かに、燃やす方が楽だった。


 写真館ごと白く焼けば、あの嫌な気配は消えたかもしれない。だが、証拠も消える。誰が送ったのかも、次に何を狙っているのかも分からなくなる。


 力があるなら、使えばいい。


 向こうではそれで済む場面も多かった。


 だが、こちらでは違う。


 力を使った後に、書類が残る。


 映像が残る。


 責任が残る。


 そして、人の記憶が残る。


 橘が警察官に短く説明していた。


「現場保存を優先してください。写真類には触れないでください。具合が悪くなった方は、念のため病院確認を」


 さっき黒い影を見た警察官は、まだ青い顔をしている。それでも意識ははっきりしていた。敦が抜いた黒い針のようなものは、もう戻っていない。


 橘はその警察官にも、丁寧に声をかけていた。


「今の処置は緊急対応として記録します。後で体調に異常があれば、必ず報告してください」


 警察官は何度も頷いた。


 普通の事件ではない。


 だが、普通の手続きに近づけようとしている。


 橘の仕事は、たぶんそういうことなのだろう。


 異常を、できるだけ社会の形に戻す。


 真壁が車の横で待っていた。


「次はどうする」


 橘が端末を見る。


「榊原さんからです。一度、現地近くで昼食と状況確認。その後、奈良方面の映画館へ向かうか判断します」


「判断?」


 敦が聞くと、橘は頷いた。


「すぐには行かない、と言ったでしょう」


「はい」


「ただし、映画館側で人が入る予定があるなら、話は変わります」


 三上の声が端末から入った。


『今、その確認中です。映画館は奈良県北西部、大阪から車で一時間ほどの古い町にある単館劇場です。名前は月映座。二十年以上前に閉館していますが、建物は残っています』


「映画館としては使ってないんですね」


『はい。ただ、最近、地域の映像保存会が一日だけ借りる手続きをしていました。表向きは、昭和期の地域記録映像を上映する小規模イベントです。正式な一般公開ではなく、関係者向けでした』


「予定は?」


『十九時から準備、二十時半に試写、二十一時に関係者入場の予定でした。ですが、保存会の若い会員二名にだけ、十三時半から機材確認に入るよう別案内が飛んでいます』


 御影の顔色が変わる。


「機材確認……」


『はい。代表は、その案内を出していません。二名には現在、電話が繋がりません』


「黒玻璃堂ですね」


 橘が低く言う。


『可能性が高いです。さらに、月映座へ向かった荷物は、映写機部品の修理品として搬入されたことになっています』


「中身は?」


『配送伝票上はフィルム缶と映写機用レンズ部品です。ただし、正規の修理業者の記録はありません』


 敦は、写真館の暗室を振り返った。


 赤いランプはもう見えない。


 それでも胸の奥で、かたかたと何かが回る音が残っている。


 古い映写機の音。


 まだ始まっていない上映の音。


「人が入ってる可能性があるなら、止めなあかんですね」


 敦が言うと、橘はすぐには頷かなかった。


「止めます。ただし、あなた一人を先に走らせる形にはしません」


「分かってます」


「本当に?」


「昨日よりは」


 橘は少しだけ目を細めた。


「なら、まず食べます」


「またですか」


「またです」


 烏丸が白い杖をつきながら近づいてきた。


「食べる未来は、やはり良いです」


「烏丸さん、もうそれ持ちネタになってません?」


「人が嫌がる未来よりはいいです」


「それはそう」


 真壁が短く言った。


「近くに定食屋がある」


「行きましょう」


 橘が即答した。


 敦は少しだけ笑った。


 怪異の次に、定食屋。


 現代の聖者は忙しい。


 定食屋は、古い商店街の角にあった。


 昼時を少し外していたため、客は少ない。店のテレビでは、昨日の配信騒ぎとは関係のないニュースが流れている。


 それだけで少し安心した。


 全世界が自分を見ているわけではない。


 少なくとも、この店の客は、敦をただの大柄な男として見ている。


 敦は唐揚げ定食の大盛りを頼んだ。追加で豚汁と、おにぎり二個。


 三上が端末越しに言った。


『食費記録、更新します』


「遠隔で管理せんでええです」


『必要経費なので』


「弁護士に怒られません?」


『間宮先生から、食費上限の正式案は後で相談すると連絡が来ています』


「現実、追いかけてくるなあ」


 敦は箸を持ちながら、ため息をついた。


 だが、食べる。


 米がうまい。


 唐揚げがうまい。


 豚汁が、かなりうまい。


 体が少し戻っていく。


 向こうでは、戦場前に食べられる時は食べろと叩き込まれた。現代でも、それは同じらしい。


 御影は小さな定食を前に、箸を止めていた。


 敦はそれに気づいた。


「御影さん」


「はい」


「食べてます?」


「食べます」


「烏丸さん」


「御影さんも食べる未来は良いです」


 御影が少しだけ睨む。


「食べます」


 橘が淡々と言う。


「記録しますか」


「しなくていいです」


 御影はそう言ってから、きちんと箸を動かした。


 烏丸は楽しそうに味噌汁を飲んでいる。


 真壁は無言で定食を食べていた。


 早い。


 無駄がない。


 戦場の食べ方だった。


 敦は少しだけ親近感を覚えた。


 食事の途中、三上から映像が共有された。


 月映座の外観。


 古い映画館。


 縦長の看板。


 閉じたチケット窓口。


 曇ったガラス扉。


 その横に、今夜のイベント告知の紙が貼られている。


《地域記録映画試写会》


《関係者のみ》


《映像保存会》


 普通に見える。


 見えるから、余計に嫌だった。


『保存会の代表には連絡済みです』


 三上が言う。


『代表は、十三時半の機材確認について知りません。案内を受け取った若い会員二名が、すでに現地へ向かった可能性があります』


「今どこですか」


『電話が繋がりません。メッセージも既読になっていません』


 敦の箸が止まる。


 橘がすぐに言った。


「龍宮寺さん」


「分かってます」


「今すぐ一人で走らない」


「分かってます」


 敦は箸を置き、深呼吸した。


 食べる。


 判断する。


 動くなら、全員で。


 契約で決めたことだ。


 橘は端末で通話を繋いだ。


「榊原さん。月映座へ向かいます。若い会員二名の所在確認が取れません。警察と管理会社へ現地待機を要請。祓戸連盟側は御影さん、烏丸さん同行。龍宮寺さんは仮合意範囲内の現場協力として記録します」


 通話の向こうから、榊原の声がわずかに聞こえた。


 短い確認。


 休息。


 食事。


 弁護士共有。


 敦本人の同意。


 橘が一つずつ答えていく。


 そして、端末を敦へ向けた。


『龍宮寺さん』


「はい」


 榊原の声は、落ち着いていた。


『行く理由はあります。ですが、あなた一人を使い潰す理由にはしません。行くなら契約上の協力行為として記録します。危険手当対象。現場判断は共有。無理な追撃はしない。いいですね』


「はい」


『それと、昼食は?』


「食べてます」


『食べ終えてから出てください』


「全員それ言う」


『大事です』


「分かりました」


 通話が切れる。


 敦は唐揚げを一つ口に入れた。


 急いでいる時ほど、食べる。


 それが今の戦い方らしい。


 月映座までは、車で一時間ほどだった。


 大阪の街並みが少しずつ変わっていく。ビルが減り、住宅地になり、古い看板の店が増える。


 敦は窓の外を見ながら、ポケットの中の聖銀片を指で押さえた。


 映画館。


 上映。


 観客。


 スクリーン。


 暗闇。


 人は映画を見る時、自分から暗い場所へ入る。


 大きな画面を見上げる。


 周囲の光を消し、音に包まれ、画面に意識を預ける。


 それは、怪異にとってかなり都合がいいのではないか。


「御影さん」


「はい」


「映画館って、やっぱり相性悪いですか」


「悪いです」


 御影は即答した。


「暗闇、音、視線の集中、同じ方向を見る観客。映るものへ意識を預ける場所です。古い映画館なら、そこに過去の記憶も重なります」


「配信より危ない?」


「種類が違います。配信は広がります。映画館は、深く入ります」


「嫌な言い方ですね」


「嫌な場所にされているんです」


 烏丸が白い杖を両手で持っていた。


 車の揺れに合わせて、杖の先が膝の上で小さく動く。


「映写室が悪いです」


「また具体的ですね」


「そこだけ黒い未来が濃い。あと、客席の中央。座ってはいけない席があります」


「指定席ですか」


「たぶん」


「俺用?」


「その可能性は高いです」


 敦は額を押さえた。


「ほんま、測るの好きやな」


「相手はあなたを怪異退治の障害ではなく、素材として見ているのかもしれません」


 御影が言う。


「素材」


 敦の声が低くなる。


 橘がすぐに言った。


「怒りを餌にされる可能性があります」


「分かってます」


「本当に?」


「怪しいです」


「なら、深呼吸してください」


 昨日も似たようなことを御影に言われた。


 敦は素直に息を吸った。


 吐く。


 もう一度吸う。


 怒りは消えない。


 だが、燃やさない。


 怒りを火にするのは簡単だ。


 しかし今は、照準を合わせる必要がある。


 月映座は、古い駅前通りの外れにあった。


 昭和のまま時間が止まったような建物だった。


 上部に、かすれた文字。


《月映座》


 チケット窓口は閉じている。


 ポスター掲示板には、昔の映画ポスターの色褪せたコピーが残っていた。


 だが、そのうち一枚だけが新しい。


 白い紙に黒い文字。


《試写中》


 敦は、それを見た瞬間に眉を寄せた。


「誰が貼ったんですか」


 橘が管理会社の担当者へ確認する。


 担当者は青ざめた顔で首を横に振った。


「知りません。今朝は、そんなものありませんでした」


 御影が札を取り出す。


「始まっています」


「中に人は?」


 橘が聞く。


 警察官が答えた。


「若い男女二名が入った可能性があります。保存会の会員だと思われます。外から呼びかけましたが、返答はありません」


 敦の体が前へ出かける。


 止めた。


 橘を見る。


「行きます。いいですか」


 橘は一瞬だけ敦を見た。


 それから頷く。


「記録します。人命優先。ただし、単独で奥へ行かないでください」


「了解」


 真壁が入口へ。


 御影がその横。


 烏丸は少し後ろで、杖の先を床に置いた。


「入口は悪くありません。ロビー右側の鏡は布を」


「鏡があるんですか」


 橘が担当者を見る。


「古い姿見がロビーに……」


「すぐ布を」


 管理会社の担当者が慌てる。


 だが、敦は首を横に振った。


「中に入ってからやと危ないです。俺が先に見ます」


 御影が頷く。


「正面から見ないように」


「はい」


 真壁が扉を開ける。


 古い空気が流れ出た。


 埃、湿気、古い座席の布。映画館特有の、少し甘くて乾いた匂い。


 その奥に、焦げたフィルムの匂いが混じっていた。


 ロビーは薄暗かった。


 右側に、背の高い姿見がある。


 その表面には、黒い幕のようなものが薄く張り付いていた。


 敦は正面から見ない。


 横から手をかざし、白い力を薄く走らせる。


 鏡は割れない。


 表面に絡んだ黒い膜だけが、すっと消えた。


「布を」


 橘が即座に指示する。


 警察官が黒い布を掛ける。


 ロビーの奥には、客席へ続く重い扉。


 その隙間から、青白いスクリーンの光が漏れていた。


 中から、かすかな音が聞こえる。


 かたかた。


 かたかた。


 映写機の音。


 そして、誰かの小さな声。


「……見える」


 女性の声だった。


「もう少しで、見える」


 敦の背筋が冷えた。


 生きている声だ。


 扉を開ける。


 客席は、ほとんど暗闇だった。


 スクリーンだけが光っている。


 古い白黒映像が流れていた。


 商店街。


 祭り。


 子どもたち。


 昭和の町並み。


 普通の地域記録映画に見える。


 だが、画面の奥に、黒い席があった。


 映像の中の映画館。


 その客席の中央に、誰かが座っている。


 顔は見えない。


 こちらを向いている。


 いや、違う。


 映像の中から、こちらの客席を見ている。


 客席中央には、若い女性が一人座っていた。


 保存会の会員だろう。


 目を見開き、スクリーンを見上げている。


 その横には若い男が倒れていた。意識はあるようだが、動けない。


 女性の唇が動く。


「映ってる……私が、向こうに」


 御影が低く言った。


「見せられています。近づきすぎないで」


 烏丸が杖を強く握る。


「中央の席は駄目です。その列へ入る未来は悪い」


「じゃあ、どうやって助ける」


 真壁が聞く。


「横からも駄目です。上からも悪い。スクリーンを見たまま近づくと、引かれます」


 敦は女性とスクリーンを交互に見ないようにした。


 スクリーンは見ない。


 光だけを見る。


 映像ではなく、光の流れ。


 映写室からスクリーンへ伸びる光。


 その光の中に、黒い糸が混じっている。


 配信の回線と似ている。


 ただし、こちらはもっと太い。


 少ない人数を、深く引くための道。


「光に混じってます」


 敦が言うと、御影が頷いた。


「映写光ですね」


「光だけ止めたら?」


「スクリーン側は止まります。でも映写機側に残る」


「映写室ですか」


「はい」


 橘が言う。


「映写室へは、ロビー奥の階段から行けます」


 烏丸が首を横に振る。


「映写室へ行く未来も悪いです。今すぐ行くと、上で閉じ込められます」


「じゃあ、先に客席の二人」


 敦は右手を上げた。


 白魔法ではない。


 無属性魔法。


 空気を押す。


 女性とスクリーンの間に、見えない幕を作る。


 完全に遮るのではない。


 光を少しだけ曲げる。


 映写光に混じっていた黒い糸が、幕に引っかかった。


 女性が大きく息を吸った。


「はっ……」


「目を閉じて!」


 敦が叫ぶ。


 女性は反射的に目を閉じた。


 隣で倒れていた男も、かすかに動いた。


 真壁が動く。


 御影が札を投げる。


 札が客席の通路に青い線を作った。


「今なら行けます。ただし中央列には入らないで」


 真壁は通路から身を乗り出し、倒れていた男の襟を掴んだ。


 敦は無属性魔法で、男の体を少し軽くする。


 真壁の動きが一瞬だけ速くなった。


 男が通路へ引きずり出される。


 次に女性。


 彼女はまだ目を閉じている。


 だが、体が前へ倒れかける。


 スクリーンに戻ろうとしている。


 敦は白魔法を薄く伸ばした。


 精神をいじらない。


 記憶を消さない。


 ただ、目の奥に絡んだ黒い膜を剥がす。


「戻ってこい」


 敦は低く言った。


「ここは客席や。画面の中やない」


 女性の肩が震えた。


「……わたし、映って」


「見なくていい」


「でも」


「見なくていい」


 敦の声に、女性はようやく力を抜いた。


 真壁が彼女も通路へ引き出す。


 橘がすぐに二人の状態を確認した。


「意識あり。呼吸あり。救急へ連絡。映像を見せないように目を閉じさせてください」


 警察官が動く。


 管理会社の担当者は、顔面蒼白でロビーに下がった。


 スクリーンの映像が揺れた。


 祭りの映像。


 子どもたち。


 その中に、今救い出した女性の姿が一瞬だけ混じった。


 敦の腹の底が冷える。


 引き剥がすのが少し遅ければ、彼女は映像の中に残されたかもしれない。


「御影さん」


「はい」


「スクリーン側、焼いていい場所は」


「映写光に絡んでいる黒い筋です。スクリーン本体は焼かないで。映像データも、可能なら残してください」


「了解」


 敦はスクリーンを直接見ない。


 光だけを見る。


 光の中の黒い筋。


 それを、白い力で細く焼く。


 じゅ、と音がした。


 スクリーンの映像が一瞬だけ白く霞む。


 だが、消えない。


 商店街の映像は残る。


 その中に混じっていた黒い席だけが、薄くなった。


 映写機の音が乱れる。


 かた。


 かたかた。


 かたん。


 上だ。


 映写室。


 烏丸が言う。


「今なら、上へ行けます。ただし、映写室の扉を開ける前に、音を消してください」


「音?」


「音で引かれます。フィルムの音を聞きすぎると、映像の側へ寄る」


「分かりました」


 敦は無属性魔法で、周囲の音を薄くした。


 完全な無音ではない。


 ただ、映写機の音だけが少し遠くなる。


 空気の振動を撫でるようにずらす。


 御影が一瞬だけ目を丸くした。


「音も?」


「少しだけ」


「便利ですね」


「知られると便利扱いされるので、内緒で」


「記録はします」


「そこはしますよね」


 橘が言う。


「現場リスクに関わる範囲で」


「お願いします」


 真壁を先頭に、ロビー奥の階段を上がる。


 古い階段は狭い。


 壁に、昔の映画ポスターが貼られている。


 色褪せた女優の顔。


 戦争映画の兵隊。


 怪獣映画の怪物。


 それらの目が、ほんの少し動いた気がした。


 御影が札を一枚、壁へ貼る。


「見ないでください」


「見てません」


 敦は視線を足元へ落とす。


 だが、足元にも古いフィルム片が落ちていた。


 黒い小さな帯。


 そこに、白い顔が一つだけ焼きついている。


 敦は踏む前に止まった。


「床にもあります」


 烏丸が頷く。


「踏む未来は悪いです」


「言うの遅い」


「今見えました」


 敦は無属性魔法でフィルム片を壁際へ滑らせた。


 触らない。


 拾わない。


 踏まない。


 御影がそれを札で挟む。


「これも証拠です」


「証拠だらけですね」


「相手が残しているのか、残してしまっているのか」


「どっちですか」


「両方かもしれません」


 映写室の扉の前に立つ。


 中から、光が漏れている。


 扉の下の隙間から、細い白い筋。


 その中に、黒い粒が混じっている。


 敦は息を整えた。


「開けますか」


 御影が札を構える。


「はい。まず私が封じます。龍宮寺さんは、映写機へ伸びている黒い管だけを」


「映写機は壊さない」


「可能なら」


「可能なら、ですね」


 烏丸が短く言う。


「フィルム缶の中は見ないでください。特に、ラベルが貼られていない缶」


「見ない」


「あと、扉を開けた直後、あなたの名前が呼ばれます」


 敦は顔をしかめた。


「誰の声で?」


「分かりません」


「最悪やな」


 真壁が扉に手をかける。


 御影が頷く。


 扉が開いた。


 映写室は狭かった。


 古い映写機が中央にある。


 電源ケーブルは抜けている。


 それでも、映写機は回っていた。


 かたかた。


 かたかた。


 フィルムが回る。


 光が出る。


 あり得ない。


 だが、回っている。


 映写機の横には、黒いフィルム缶。


 黒玻璃堂の印。


 丸。


 縦に一本。


 そして、床に白い紙。


 そこに、墨のような字で書かれていた。


《龍宮寺敦様》


 名前を見た瞬間、部屋の奥から声がした。


「龍宮寺さん」


 橘の声だった。


 敦の背筋が冷えた。


 後ろにも橘はいる。


 なら、これは違う。


「龍宮寺さん、助けてください」


 今度は、春野蓮の声。


「聖者さん」


 真白の声。


「本物なら」


 知らない声。


「助けて」


「見せて」


「来て」


 いくつもの声が、映写機の回転音に混じる。


 敦は目を閉じた。


 名前は糸になる。


 御影が言っていた。


 なら、聞きすぎても糸になる。


「聞かないでください」


 御影が鋭く言う。


「分かってます」


 敦は無属性魔法で、耳元の空気を薄く固めた。


 音を遠ざける。


 完全には消さない。


 必要な声まで消すと、仲間の指示が聞こえなくなる。


 人の声を真似たものだけ、少しだけ遠くへ押す。


 映写機の声が歪んだ。


「白い聖者」


「見せて」


「撮らせて」


「上映して」


「うるさい」


 敦は低く言った。


 御影が札を三枚、映写機の足元へ投げる。


 青い線が走る。


「黒い管、見えますか」


「見えます」


 映写機からスクリーンへ伸びる光。


 その根元に、太い黒い管がある。


 配信の回線に絡んだものと似ている。


 ただし、これはもっと古い。


 フィルムそのものに絡みついている。


 敦は白い力を細く絞った。


 全部焼けば、映写機もフィルムも消える。


 それでは駄目だ。


 管だけ。


 黒い管だけ。


 白い光が走る。


 黒い管が焼ける。


 映写機の音が跳ねた。


 かたん。


 かたかたかた。


 フィルムが暴れる。


 御影が叫ぶ。


「フィルムが切れます!」


「切れたら?」


「中の像が散ります!」


「最悪!」


 敦は無属性魔法でフィルムの動きを抑えた。


 引っ張るのではなく、回転の勢いを逃がす。


 映写機の軸にかかる力を、横へ流す。


 フィルムの震えが少し収まる。


 真壁が映写機の横へ回り込む。


「止めるぞ」


「触らないで!」


 御影が叫ぶ。


「直接触ると持っていかれます」


 真壁が手を止める。


 敦は映写機を見る。


 止める。


 だが、触らない。


 電源はない。


 なら、動かしているのは怪異の力だ。


 その力の流れを止めればいい。


 敦は聖銀片をポケットの中で握った。


 穢れの流れを読む。


 映写機の後ろ。


 黒いフィルム缶。


 そこから、細い線が伸びている。


 本体は映写機ではない。


 フィルム缶だ。


「本体、缶です」


 御影がそちらを見た。


「黒玻璃堂の」


「はい」


「開けてはいけません」


「開けません」


 敦は白い光を缶の周囲へ薄く回した。


 焼くのではなく、囲む。


 御影がすぐに札を合わせる。


 青い線が白い光に重なる。


「そのまま。缶の外側だけ」


「はい」


 黒いフィルム缶が震えた。


 中から、かすかな拍手の音がした。


 ぱち。


 ぱち。


 ぱち。


 誰もいない客席から聞こえる拍手。


 映画が終わった後の拍手。


 敦は奥歯を噛んだ。


「まだ始まってへんやろ」


 白い光を、さらに細くする。


 缶の隙間から漏れる黒い煙だけを焼く。


 缶本体は残す。


 中身も残す。


 ただ、外へ伸びようとする上映の道だけを焼く。


 じゅ、と嫌な音がした。


 映写機の光が消えた。


 かたかたという音も止まる。


 映写室が、急に静かになった。


 静かすぎて、耳が痛い。


 御影が大きく息を吐いた。


「止まりました」


「下の二人は」


 橘が端末を確認する。


「救急対応中。意識はあります。スクリーンを見せないようにしています」


「よかった」


 敦は本気でそう言った。


 その時、黒いフィルム缶の上に、文字が浮かんだ。


 黒い油のような文字。


《試写中断》


 御影が札を構える。


 文字は、さらに続いた。


《観客、選定済》


 敦が低く呟く。


「観客……」


 その瞬間、三上の声が、橘の端末から直接響いた。


『榊原さん! 橘さん! まずいです』


「何」


『SNSの一部アカウントへ、同じ文面のDMが送られています。昨日から「梅田の聖者に助けてほしい」と投稿していた人たちです』


 敦の胸が冷えた。


『文面は、《奇跡を見たい方へ。上映場所は後ほど》』


 橘の顔が硬くなる。


 御影が唇を噛む。


 烏丸が白い杖を握り直す。


「助けを求めた人間を、観客にするつもりか」


 敦の声が、自分でも分かるくらい低くなった。


 人の不幸を拾っている。


 助けてほしいという声を集めている。


 それを、怪異の餌場へ招待している。


 昨日、榊原が言った言葉がよみがえった。


 すべての不幸を、あなたの呼び出し音にしないためです。


 だが、黒玻璃堂は逆だ。


 すべての不幸を、上映の呼び出し音にしている。


 敦は拳を握った。


 白い力が漏れかける。


 御影がすぐに言った。


「龍宮寺さん」


「分かってます」


「怒りを餌にされます」


「分かってます」


「でも、怒っていいです」


 敦は御影を見た。


 御影は、まっすぐこちらを見ていた。


「燃やさなければ」


 敦は、ゆっくり息を吐いた。


 怒っていい。


 燃やさなければ。


 それは、少しだけ救いだった。


 黒いフィルム缶は、もう動かない。


 だが、その文字だけは消えない。


《観客、選定済》


 敦はそれを見下ろした。


「ほな、次は観客を守る番ですね」


 橘が頷く。


「はい。DMを受け取った人の特定と保護を急ぎます。三上さん、一覧化を」


『やっています。数が多いです』


「多くてもやる」


 橘の声は硬かった。


 真壁が映写室の扉へ向かう。


「周辺も確認する」


 御影はフィルム缶へ札を重ねる。


「これは支部へ運びます。開封は封印環境で」


 烏丸が白い杖を床に当てた。


「悪い未来は、まだ散っています」


「良い未来は?」


 敦が聞く。


 烏丸は少しだけ考えた。


「今日、あなたが一人で走らなかった未来です」


 敦は小さく笑った。


「それ、成長扱いですか」


「はい」


「子ども扱いやな」


「いえ。大人でもできない人は多いです」


 さっき御影に言われた言葉と同じだった。


 敦は返事をしなかった。


 ただ、黒いフィルム缶を見た。


 撮影。


 上映。


 観客。


 相手の形が、少しずつ見えてきている。


 怪異だけではない。


 人間の欲だけでもない。


 不幸を見つけ、声を拾い、見世物にする誰かがいる。


 敦は、胸の奥に残る怒りを握りしめた。


 燃やさない。


 まだ燃やさない。


 その代わり、忘れない。


 

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