第14話 試写の客席
影見写真館を出た時、空はまだ昼前の明るさだった。
けれど敦には、朝から一日分の仕事を終えたような重さが残っていた。
暗室の赤いランプ、吊られた印画紙、古い大判カメラ。そして、紙の裏に残されていた《撮影失敗。次は、上映》という言葉。
撮影。
上映。
相手は、段階を上げている。
鏡で覗き、レンズで繋ぎ、写真で残す。
次は、見せる。
誰かに。
たくさんの誰かに。
敦は、封印布で包まれた黒い箱を見た。
御影が両手で抱えている。中から声はしないが、ただの箱には戻っていない。人の顔を紙に貼りつけようとした何かの残り香が、布越しにまだ薄く滲んでいた。
「これも支部へ?」
敦が聞くと、御影は頷いた。
「はい。写真、黒い箱、床下の封筒、額縁。すべて大阪支部へ移します。封印庫で確認します」
「燃やさずに」
「燃やさずに」
御影の声は、少しだけ柔らかかった。
「よく我慢しましたね」
「褒められてるんですか」
「はい」
「子ども扱いやな」
「いえ。大人でもできない人は多いです」
その言葉に、敦は返しに詰まった。
確かに、燃やす方が楽だった。
写真館ごと白く焼けば、あの嫌な気配は消えたかもしれない。だが、証拠も消える。誰が送ったのかも、次に何を狙っているのかも分からなくなる。
力があるなら、使えばいい。
向こうではそれで済む場面も多かった。
だが、こちらでは違う。
力を使った後に、書類が残る。
映像が残る。
責任が残る。
そして、人の記憶が残る。
橘が警察官に短く説明していた。
「現場保存を優先してください。写真類には触れないでください。具合が悪くなった方は、念のため病院確認を」
さっき黒い影を見た警察官は、まだ青い顔をしている。それでも意識ははっきりしていた。敦が抜いた黒い針のようなものは、もう戻っていない。
橘はその警察官にも、丁寧に声をかけていた。
「今の処置は緊急対応として記録します。後で体調に異常があれば、必ず報告してください」
警察官は何度も頷いた。
普通の事件ではない。
だが、普通の手続きに近づけようとしている。
橘の仕事は、たぶんそういうことなのだろう。
異常を、できるだけ社会の形に戻す。
真壁が車の横で待っていた。
「次はどうする」
橘が端末を見る。
「榊原さんからです。一度、現地近くで昼食と状況確認。その後、奈良方面の映画館へ向かうか判断します」
「判断?」
敦が聞くと、橘は頷いた。
「すぐには行かない、と言ったでしょう」
「はい」
「ただし、映画館側で人が入る予定があるなら、話は変わります」
三上の声が端末から入った。
『今、その確認中です。映画館は奈良県北西部、大阪から車で一時間ほどの古い町にある単館劇場です。名前は月映座。二十年以上前に閉館していますが、建物は残っています』
「映画館としては使ってないんですね」
『はい。ただ、最近、地域の映像保存会が一日だけ借りる手続きをしていました。表向きは、昭和期の地域記録映像を上映する小規模イベントです。正式な一般公開ではなく、関係者向けでした』
「予定は?」
『十九時から準備、二十時半に試写、二十一時に関係者入場の予定でした。ですが、保存会の若い会員二名にだけ、十三時半から機材確認に入るよう別案内が飛んでいます』
御影の顔色が変わる。
「機材確認……」
『はい。代表は、その案内を出していません。二名には現在、電話が繋がりません』
「黒玻璃堂ですね」
橘が低く言う。
『可能性が高いです。さらに、月映座へ向かった荷物は、映写機部品の修理品として搬入されたことになっています』
「中身は?」
『配送伝票上はフィルム缶と映写機用レンズ部品です。ただし、正規の修理業者の記録はありません』
敦は、写真館の暗室を振り返った。
赤いランプはもう見えない。
それでも胸の奥で、かたかたと何かが回る音が残っている。
古い映写機の音。
まだ始まっていない上映の音。
「人が入ってる可能性があるなら、止めなあかんですね」
敦が言うと、橘はすぐには頷かなかった。
「止めます。ただし、あなた一人を先に走らせる形にはしません」
「分かってます」
「本当に?」
「昨日よりは」
橘は少しだけ目を細めた。
「なら、まず食べます」
「またですか」
「またです」
烏丸が白い杖をつきながら近づいてきた。
「食べる未来は、やはり良いです」
「烏丸さん、もうそれ持ちネタになってません?」
「人が嫌がる未来よりはいいです」
「それはそう」
真壁が短く言った。
「近くに定食屋がある」
「行きましょう」
橘が即答した。
敦は少しだけ笑った。
怪異の次に、定食屋。
現代の聖者は忙しい。
定食屋は、古い商店街の角にあった。
昼時を少し外していたため、客は少ない。店のテレビでは、昨日の配信騒ぎとは関係のないニュースが流れている。
それだけで少し安心した。
全世界が自分を見ているわけではない。
少なくとも、この店の客は、敦をただの大柄な男として見ている。
敦は唐揚げ定食の大盛りを頼んだ。追加で豚汁と、おにぎり二個。
三上が端末越しに言った。
『食費記録、更新します』
「遠隔で管理せんでええです」
『必要経費なので』
「弁護士に怒られません?」
『間宮先生から、食費上限の正式案は後で相談すると連絡が来ています』
「現実、追いかけてくるなあ」
敦は箸を持ちながら、ため息をついた。
だが、食べる。
米がうまい。
唐揚げがうまい。
豚汁が、かなりうまい。
体が少し戻っていく。
向こうでは、戦場前に食べられる時は食べろと叩き込まれた。現代でも、それは同じらしい。
御影は小さな定食を前に、箸を止めていた。
敦はそれに気づいた。
「御影さん」
「はい」
「食べてます?」
「食べます」
「烏丸さん」
「御影さんも食べる未来は良いです」
御影が少しだけ睨む。
「食べます」
橘が淡々と言う。
「記録しますか」
「しなくていいです」
御影はそう言ってから、きちんと箸を動かした。
烏丸は楽しそうに味噌汁を飲んでいる。
真壁は無言で定食を食べていた。
早い。
無駄がない。
戦場の食べ方だった。
敦は少しだけ親近感を覚えた。
食事の途中、三上から映像が共有された。
月映座の外観。
古い映画館。
縦長の看板。
閉じたチケット窓口。
曇ったガラス扉。
その横に、今夜のイベント告知の紙が貼られている。
《地域記録映画試写会》
《関係者のみ》
《映像保存会》
普通に見える。
見えるから、余計に嫌だった。
『保存会の代表には連絡済みです』
三上が言う。
『代表は、十三時半の機材確認について知りません。案内を受け取った若い会員二名が、すでに現地へ向かった可能性があります』
「今どこですか」
『電話が繋がりません。メッセージも既読になっていません』
敦の箸が止まる。
橘がすぐに言った。
「龍宮寺さん」
「分かってます」
「今すぐ一人で走らない」
「分かってます」
敦は箸を置き、深呼吸した。
食べる。
判断する。
動くなら、全員で。
契約で決めたことだ。
橘は端末で通話を繋いだ。
「榊原さん。月映座へ向かいます。若い会員二名の所在確認が取れません。警察と管理会社へ現地待機を要請。祓戸連盟側は御影さん、烏丸さん同行。龍宮寺さんは仮合意範囲内の現場協力として記録します」
通話の向こうから、榊原の声がわずかに聞こえた。
短い確認。
休息。
食事。
弁護士共有。
敦本人の同意。
橘が一つずつ答えていく。
そして、端末を敦へ向けた。
『龍宮寺さん』
「はい」
榊原の声は、落ち着いていた。
『行く理由はあります。ですが、あなた一人を使い潰す理由にはしません。行くなら契約上の協力行為として記録します。危険手当対象。現場判断は共有。無理な追撃はしない。いいですね』
「はい」
『それと、昼食は?』
「食べてます」
『食べ終えてから出てください』
「全員それ言う」
『大事です』
「分かりました」
通話が切れる。
敦は唐揚げを一つ口に入れた。
急いでいる時ほど、食べる。
それが今の戦い方らしい。
月映座までは、車で一時間ほどだった。
大阪の街並みが少しずつ変わっていく。ビルが減り、住宅地になり、古い看板の店が増える。
敦は窓の外を見ながら、ポケットの中の聖銀片を指で押さえた。
映画館。
上映。
観客。
スクリーン。
暗闇。
人は映画を見る時、自分から暗い場所へ入る。
大きな画面を見上げる。
周囲の光を消し、音に包まれ、画面に意識を預ける。
それは、怪異にとってかなり都合がいいのではないか。
「御影さん」
「はい」
「映画館って、やっぱり相性悪いですか」
「悪いです」
御影は即答した。
「暗闇、音、視線の集中、同じ方向を見る観客。映るものへ意識を預ける場所です。古い映画館なら、そこに過去の記憶も重なります」
「配信より危ない?」
「種類が違います。配信は広がります。映画館は、深く入ります」
「嫌な言い方ですね」
「嫌な場所にされているんです」
烏丸が白い杖を両手で持っていた。
車の揺れに合わせて、杖の先が膝の上で小さく動く。
「映写室が悪いです」
「また具体的ですね」
「そこだけ黒い未来が濃い。あと、客席の中央。座ってはいけない席があります」
「指定席ですか」
「たぶん」
「俺用?」
「その可能性は高いです」
敦は額を押さえた。
「ほんま、測るの好きやな」
「相手はあなたを怪異退治の障害ではなく、素材として見ているのかもしれません」
御影が言う。
「素材」
敦の声が低くなる。
橘がすぐに言った。
「怒りを餌にされる可能性があります」
「分かってます」
「本当に?」
「怪しいです」
「なら、深呼吸してください」
昨日も似たようなことを御影に言われた。
敦は素直に息を吸った。
吐く。
もう一度吸う。
怒りは消えない。
だが、燃やさない。
怒りを火にするのは簡単だ。
しかし今は、照準を合わせる必要がある。
月映座は、古い駅前通りの外れにあった。
昭和のまま時間が止まったような建物だった。
上部に、かすれた文字。
《月映座》
チケット窓口は閉じている。
ポスター掲示板には、昔の映画ポスターの色褪せたコピーが残っていた。
だが、そのうち一枚だけが新しい。
白い紙に黒い文字。
《試写中》
敦は、それを見た瞬間に眉を寄せた。
「誰が貼ったんですか」
橘が管理会社の担当者へ確認する。
担当者は青ざめた顔で首を横に振った。
「知りません。今朝は、そんなものありませんでした」
御影が札を取り出す。
「始まっています」
「中に人は?」
橘が聞く。
警察官が答えた。
「若い男女二名が入った可能性があります。保存会の会員だと思われます。外から呼びかけましたが、返答はありません」
敦の体が前へ出かける。
止めた。
橘を見る。
「行きます。いいですか」
橘は一瞬だけ敦を見た。
それから頷く。
「記録します。人命優先。ただし、単独で奥へ行かないでください」
「了解」
真壁が入口へ。
御影がその横。
烏丸は少し後ろで、杖の先を床に置いた。
「入口は悪くありません。ロビー右側の鏡は布を」
「鏡があるんですか」
橘が担当者を見る。
「古い姿見がロビーに……」
「すぐ布を」
管理会社の担当者が慌てる。
だが、敦は首を横に振った。
「中に入ってからやと危ないです。俺が先に見ます」
御影が頷く。
「正面から見ないように」
「はい」
真壁が扉を開ける。
古い空気が流れ出た。
埃、湿気、古い座席の布。映画館特有の、少し甘くて乾いた匂い。
その奥に、焦げたフィルムの匂いが混じっていた。
ロビーは薄暗かった。
右側に、背の高い姿見がある。
その表面には、黒い幕のようなものが薄く張り付いていた。
敦は正面から見ない。
横から手をかざし、白い力を薄く走らせる。
鏡は割れない。
表面に絡んだ黒い膜だけが、すっと消えた。
「布を」
橘が即座に指示する。
警察官が黒い布を掛ける。
ロビーの奥には、客席へ続く重い扉。
その隙間から、青白いスクリーンの光が漏れていた。
中から、かすかな音が聞こえる。
かたかた。
かたかた。
映写機の音。
そして、誰かの小さな声。
「……見える」
女性の声だった。
「もう少しで、見える」
敦の背筋が冷えた。
生きている声だ。
扉を開ける。
客席は、ほとんど暗闇だった。
スクリーンだけが光っている。
古い白黒映像が流れていた。
商店街。
祭り。
子どもたち。
昭和の町並み。
普通の地域記録映画に見える。
だが、画面の奥に、黒い席があった。
映像の中の映画館。
その客席の中央に、誰かが座っている。
顔は見えない。
こちらを向いている。
いや、違う。
映像の中から、こちらの客席を見ている。
客席中央には、若い女性が一人座っていた。
保存会の会員だろう。
目を見開き、スクリーンを見上げている。
その横には若い男が倒れていた。意識はあるようだが、動けない。
女性の唇が動く。
「映ってる……私が、向こうに」
御影が低く言った。
「見せられています。近づきすぎないで」
烏丸が杖を強く握る。
「中央の席は駄目です。その列へ入る未来は悪い」
「じゃあ、どうやって助ける」
真壁が聞く。
「横からも駄目です。上からも悪い。スクリーンを見たまま近づくと、引かれます」
敦は女性とスクリーンを交互に見ないようにした。
スクリーンは見ない。
光だけを見る。
映像ではなく、光の流れ。
映写室からスクリーンへ伸びる光。
その光の中に、黒い糸が混じっている。
配信の回線と似ている。
ただし、こちらはもっと太い。
少ない人数を、深く引くための道。
「光に混じってます」
敦が言うと、御影が頷いた。
「映写光ですね」
「光だけ止めたら?」
「スクリーン側は止まります。でも映写機側に残る」
「映写室ですか」
「はい」
橘が言う。
「映写室へは、ロビー奥の階段から行けます」
烏丸が首を横に振る。
「映写室へ行く未来も悪いです。今すぐ行くと、上で閉じ込められます」
「じゃあ、先に客席の二人」
敦は右手を上げた。
白魔法ではない。
無属性魔法。
空気を押す。
女性とスクリーンの間に、見えない幕を作る。
完全に遮るのではない。
光を少しだけ曲げる。
映写光に混じっていた黒い糸が、幕に引っかかった。
女性が大きく息を吸った。
「はっ……」
「目を閉じて!」
敦が叫ぶ。
女性は反射的に目を閉じた。
隣で倒れていた男も、かすかに動いた。
真壁が動く。
御影が札を投げる。
札が客席の通路に青い線を作った。
「今なら行けます。ただし中央列には入らないで」
真壁は通路から身を乗り出し、倒れていた男の襟を掴んだ。
敦は無属性魔法で、男の体を少し軽くする。
真壁の動きが一瞬だけ速くなった。
男が通路へ引きずり出される。
次に女性。
彼女はまだ目を閉じている。
だが、体が前へ倒れかける。
スクリーンに戻ろうとしている。
敦は白魔法を薄く伸ばした。
精神をいじらない。
記憶を消さない。
ただ、目の奥に絡んだ黒い膜を剥がす。
「戻ってこい」
敦は低く言った。
「ここは客席や。画面の中やない」
女性の肩が震えた。
「……わたし、映って」
「見なくていい」
「でも」
「見なくていい」
敦の声に、女性はようやく力を抜いた。
真壁が彼女も通路へ引き出す。
橘がすぐに二人の状態を確認した。
「意識あり。呼吸あり。救急へ連絡。映像を見せないように目を閉じさせてください」
警察官が動く。
管理会社の担当者は、顔面蒼白でロビーに下がった。
スクリーンの映像が揺れた。
祭りの映像。
子どもたち。
その中に、今救い出した女性の姿が一瞬だけ混じった。
敦の腹の底が冷える。
引き剥がすのが少し遅ければ、彼女は映像の中に残されたかもしれない。
「御影さん」
「はい」
「スクリーン側、焼いていい場所は」
「映写光に絡んでいる黒い筋です。スクリーン本体は焼かないで。映像データも、可能なら残してください」
「了解」
敦はスクリーンを直接見ない。
光だけを見る。
光の中の黒い筋。
それを、白い力で細く焼く。
じゅ、と音がした。
スクリーンの映像が一瞬だけ白く霞む。
だが、消えない。
商店街の映像は残る。
その中に混じっていた黒い席だけが、薄くなった。
映写機の音が乱れる。
かた。
かたかた。
かたん。
上だ。
映写室。
烏丸が言う。
「今なら、上へ行けます。ただし、映写室の扉を開ける前に、音を消してください」
「音?」
「音で引かれます。フィルムの音を聞きすぎると、映像の側へ寄る」
「分かりました」
敦は無属性魔法で、周囲の音を薄くした。
完全な無音ではない。
ただ、映写機の音だけが少し遠くなる。
空気の振動を撫でるようにずらす。
御影が一瞬だけ目を丸くした。
「音も?」
「少しだけ」
「便利ですね」
「知られると便利扱いされるので、内緒で」
「記録はします」
「そこはしますよね」
橘が言う。
「現場リスクに関わる範囲で」
「お願いします」
真壁を先頭に、ロビー奥の階段を上がる。
古い階段は狭い。
壁に、昔の映画ポスターが貼られている。
色褪せた女優の顔。
戦争映画の兵隊。
怪獣映画の怪物。
それらの目が、ほんの少し動いた気がした。
御影が札を一枚、壁へ貼る。
「見ないでください」
「見てません」
敦は視線を足元へ落とす。
だが、足元にも古いフィルム片が落ちていた。
黒い小さな帯。
そこに、白い顔が一つだけ焼きついている。
敦は踏む前に止まった。
「床にもあります」
烏丸が頷く。
「踏む未来は悪いです」
「言うの遅い」
「今見えました」
敦は無属性魔法でフィルム片を壁際へ滑らせた。
触らない。
拾わない。
踏まない。
御影がそれを札で挟む。
「これも証拠です」
「証拠だらけですね」
「相手が残しているのか、残してしまっているのか」
「どっちですか」
「両方かもしれません」
映写室の扉の前に立つ。
中から、光が漏れている。
扉の下の隙間から、細い白い筋。
その中に、黒い粒が混じっている。
敦は息を整えた。
「開けますか」
御影が札を構える。
「はい。まず私が封じます。龍宮寺さんは、映写機へ伸びている黒い管だけを」
「映写機は壊さない」
「可能なら」
「可能なら、ですね」
烏丸が短く言う。
「フィルム缶の中は見ないでください。特に、ラベルが貼られていない缶」
「見ない」
「あと、扉を開けた直後、あなたの名前が呼ばれます」
敦は顔をしかめた。
「誰の声で?」
「分かりません」
「最悪やな」
真壁が扉に手をかける。
御影が頷く。
扉が開いた。
映写室は狭かった。
古い映写機が中央にある。
電源ケーブルは抜けている。
それでも、映写機は回っていた。
かたかた。
かたかた。
フィルムが回る。
光が出る。
あり得ない。
だが、回っている。
映写機の横には、黒いフィルム缶。
黒玻璃堂の印。
丸。
縦に一本。
そして、床に白い紙。
そこに、墨のような字で書かれていた。
《龍宮寺敦様》
名前を見た瞬間、部屋の奥から声がした。
「龍宮寺さん」
橘の声だった。
敦の背筋が冷えた。
後ろにも橘はいる。
なら、これは違う。
「龍宮寺さん、助けてください」
今度は、春野蓮の声。
「聖者さん」
真白の声。
「本物なら」
知らない声。
「助けて」
「見せて」
「来て」
いくつもの声が、映写機の回転音に混じる。
敦は目を閉じた。
名前は糸になる。
御影が言っていた。
なら、聞きすぎても糸になる。
「聞かないでください」
御影が鋭く言う。
「分かってます」
敦は無属性魔法で、耳元の空気を薄く固めた。
音を遠ざける。
完全には消さない。
必要な声まで消すと、仲間の指示が聞こえなくなる。
人の声を真似たものだけ、少しだけ遠くへ押す。
映写機の声が歪んだ。
「白い聖者」
「見せて」
「撮らせて」
「上映して」
「うるさい」
敦は低く言った。
御影が札を三枚、映写機の足元へ投げる。
青い線が走る。
「黒い管、見えますか」
「見えます」
映写機からスクリーンへ伸びる光。
その根元に、太い黒い管がある。
配信の回線に絡んだものと似ている。
ただし、これはもっと古い。
フィルムそのものに絡みついている。
敦は白い力を細く絞った。
全部焼けば、映写機もフィルムも消える。
それでは駄目だ。
管だけ。
黒い管だけ。
白い光が走る。
黒い管が焼ける。
映写機の音が跳ねた。
かたん。
かたかたかた。
フィルムが暴れる。
御影が叫ぶ。
「フィルムが切れます!」
「切れたら?」
「中の像が散ります!」
「最悪!」
敦は無属性魔法でフィルムの動きを抑えた。
引っ張るのではなく、回転の勢いを逃がす。
映写機の軸にかかる力を、横へ流す。
フィルムの震えが少し収まる。
真壁が映写機の横へ回り込む。
「止めるぞ」
「触らないで!」
御影が叫ぶ。
「直接触ると持っていかれます」
真壁が手を止める。
敦は映写機を見る。
止める。
だが、触らない。
電源はない。
なら、動かしているのは怪異の力だ。
その力の流れを止めればいい。
敦は聖銀片をポケットの中で握った。
穢れの流れを読む。
映写機の後ろ。
黒いフィルム缶。
そこから、細い線が伸びている。
本体は映写機ではない。
フィルム缶だ。
「本体、缶です」
御影がそちらを見た。
「黒玻璃堂の」
「はい」
「開けてはいけません」
「開けません」
敦は白い光を缶の周囲へ薄く回した。
焼くのではなく、囲む。
御影がすぐに札を合わせる。
青い線が白い光に重なる。
「そのまま。缶の外側だけ」
「はい」
黒いフィルム缶が震えた。
中から、かすかな拍手の音がした。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
誰もいない客席から聞こえる拍手。
映画が終わった後の拍手。
敦は奥歯を噛んだ。
「まだ始まってへんやろ」
白い光を、さらに細くする。
缶の隙間から漏れる黒い煙だけを焼く。
缶本体は残す。
中身も残す。
ただ、外へ伸びようとする上映の道だけを焼く。
じゅ、と嫌な音がした。
映写機の光が消えた。
かたかたという音も止まる。
映写室が、急に静かになった。
静かすぎて、耳が痛い。
御影が大きく息を吐いた。
「止まりました」
「下の二人は」
橘が端末を確認する。
「救急対応中。意識はあります。スクリーンを見せないようにしています」
「よかった」
敦は本気でそう言った。
その時、黒いフィルム缶の上に、文字が浮かんだ。
黒い油のような文字。
《試写中断》
御影が札を構える。
文字は、さらに続いた。
《観客、選定済》
敦が低く呟く。
「観客……」
その瞬間、三上の声が、橘の端末から直接響いた。
『榊原さん! 橘さん! まずいです』
「何」
『SNSの一部アカウントへ、同じ文面のDMが送られています。昨日から「梅田の聖者に助けてほしい」と投稿していた人たちです』
敦の胸が冷えた。
『文面は、《奇跡を見たい方へ。上映場所は後ほど》』
橘の顔が硬くなる。
御影が唇を噛む。
烏丸が白い杖を握り直す。
「助けを求めた人間を、観客にするつもりか」
敦の声が、自分でも分かるくらい低くなった。
人の不幸を拾っている。
助けてほしいという声を集めている。
それを、怪異の餌場へ招待している。
昨日、榊原が言った言葉がよみがえった。
すべての不幸を、あなたの呼び出し音にしないためです。
だが、黒玻璃堂は逆だ。
すべての不幸を、上映の呼び出し音にしている。
敦は拳を握った。
白い力が漏れかける。
御影がすぐに言った。
「龍宮寺さん」
「分かってます」
「怒りを餌にされます」
「分かってます」
「でも、怒っていいです」
敦は御影を見た。
御影は、まっすぐこちらを見ていた。
「燃やさなければ」
敦は、ゆっくり息を吐いた。
怒っていい。
燃やさなければ。
それは、少しだけ救いだった。
黒いフィルム缶は、もう動かない。
だが、その文字だけは消えない。
《観客、選定済》
敦はそれを見下ろした。
「ほな、次は観客を守る番ですね」
橘が頷く。
「はい。DMを受け取った人の特定と保護を急ぎます。三上さん、一覧化を」
『やっています。数が多いです』
「多くてもやる」
橘の声は硬かった。
真壁が映写室の扉へ向かう。
「周辺も確認する」
御影はフィルム缶へ札を重ねる。
「これは支部へ運びます。開封は封印環境で」
烏丸が白い杖を床に当てた。
「悪い未来は、まだ散っています」
「良い未来は?」
敦が聞く。
烏丸は少しだけ考えた。
「今日、あなたが一人で走らなかった未来です」
敦は小さく笑った。
「それ、成長扱いですか」
「はい」
「子ども扱いやな」
「いえ。大人でもできない人は多いです」
さっき御影に言われた言葉と同じだった。
敦は返事をしなかった。
ただ、黒いフィルム缶を見た。
撮影。
上映。
観客。
相手の形が、少しずつ見えてきている。
怪異だけではない。
人間の欲だけでもない。
不幸を見つけ、声を拾い、見世物にする誰かがいる。
敦は、胸の奥に残る怒りを握りしめた。
燃やさない。
まだ燃やさない。
その代わり、忘れない。




