第13話 影見写真館
敦が目を覚ました時、部屋はまだ薄暗かった。
カーテンの隙間から、朝の光が細く入っている。
ベッド。
白い天井。
エアコンの低い音。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。
宿屋ではない。
野営地でもない。
魔王城へ続く地下道でもない。
大阪の短期滞在マンション。
昨日、契約で決められた寝床。
敦はゆっくり息を吐いた。
「……寝たんか、俺」
スマホを見る。
時刻は六時三十八分。
通知は来ている。
だが、夜中に開いた形跡はない。
間宮からの宿題。
寝ること。
余計な検索をしないこと。
困ったら連絡すること。
どうやら、ひとつ目とふたつ目は守れたらしい。
敦は少しだけ笑った。
魔王討伐後、最初に達成した現代の宿題が「寝ること」というのも、なかなか情けない。
だが、悪くはなかった。
体はまだ重い。
けれど、昨日の夜のような、頭の奥に砂が詰まったような感じは薄れている。
腹は減っていた。
そこは相変わらずだった。
洗面所へ向かう。
浴室の鏡には黒い布が掛けられている。
顔は映らない。
それでいい。
蛇口から水を出し、顔を洗う。
冷たい。
現代の水道水。
異世界では、きれいな水はそれだけで価値があった。
ここでは蛇口をひねれば出る。
その当たり前も、やはり少し変な感じがする。
タオルで顔を拭いたところで、玄関のチャイムが鳴った。
敦は反射的に身構える。
すぐにスマホも震えた。
《橘です。朝食と資料を持ってきました》
「先に連絡、ありがたいな」
敦は小さく呟き、ドアを開けた。
橘が立っていた。
片手に紙袋。
もう片手に薄いファイル。
いつものスーツ姿だが、目元には少し疲れがある。
この人も、きちんと寝たのか怪しい。
「おはようございます」
「おはようございます」
「六時間以上、休息を取りましたね」
「契約、守りました」
「確認しました」
橘は紙袋を差し出した。
「朝食です」
中には、おにぎり、サンドイッチ、ヨーグルト、ゆで卵、バナナ、さらに大きめの惣菜パンが入っていた。
量が多い。
だが、足りる。
たぶん。
「三上さんですか」
「はい。食費記録に入れています」
「朝から現実ですね」
「現実は朝も来ます」
橘は淡々と言った。
敦は紙袋を受け取り、机に置いた。
「黒玻璃堂の件ですか」
「はい。朝食を食べながら聞いてください」
「食べながらでいい話なんですか」
「食べずに聞く方が悪い未来だと、烏丸さんが」
「烏丸さん、どんどん食事予知担当になってません?」
「本人は否定していません」
敦はおにぎりを開けた。
鮭だった。
ありがたい。
橘はファイルを開こうとして、ほんの一瞬だけ手を止めた。
敦はその動きを見逃さなかった。
昨日から何度も現場を回し、警察、病院、管理会社、弁護士、祓戸連盟との連絡を繋いでいた。
顔色は普段通りに見える。
声も崩れていない。
だが、目の奥に疲れが残っている。
怪異に触れた後の疲れではない。
人間を何人も支えた後の疲れ方だった。
「橘さん」
「はい」
「軽いやつ、かけてもいいですか」
「軽いやつ?」
「治癒やなくて、頭の奥の疲れを少し流す白魔法です。記憶を消したり、感情をいじったりするもんではありません。肩に入った力を抜く程度です」
橘は少しだけ敦を見た。
「精神に関わるものですか」
「近いです。だから、勝手には使いません」
橘は一拍置いてから、静かに頷いた。
「同意します。後で記録にも残します」
「分かりました」
敦は橘の額に触れなかった。
手をかざすだけにする。
白い光を、ほんの薄くほどいた。
治すのではない。
焼くのでもない。
濁った水に、澄んだ水を一滴落とすような感覚。
橘の周囲にまとわりついていた、細い黒い埃のような疲労の膜が、ふっと薄くなる。
橘が、ゆっくり息を吐いた。
「……頭が、少し静かになりました」
「寝不足までは治ってません」
「それは分かります」
「無理に元気にする魔法やないです。倒れる前に、少しだけ整えるやつです」
「十分です」
橘は目を伏せ、もう一度息を吐いた。
「ありがとうございます」
「便利やからこそ、勝手に使ったらあかんやつですね」
「はい。精神状態に関わる補助は、同意と記録が必要です」
「了解です」
敦は手を下ろした。
人を落ち着かせる力は、人を従わせる力と隣り合っている。
そこを間違えれば、自分は聖者ではなくなる。
敦は、その線だけは越えないと決めた。
橘は少しだけ呼吸を整えてから、改めてファイルを開いた。
「昨日の夜、黒玻璃堂の荷物は三つに分かれました。一つは市内の廃業した写真館。影見写真館です」
「写真館」
「十七年前に営業終了。経営者は影見清吾。当時六十八歳。閉業後、数年で死亡しています。現在の建物所有者は遠縁の親族ですが、管理会社に任せたまま、長く空き店舗でした」
「そこに荷物が届いた」
「はい。正確には、届けられた形跡があります。配送業者の正規記録ではありません。回収業者を装った人物が、夜のうちに店舗裏手から入った可能性が高い」
「中は見たんですか」
「まだです」
敦はおにぎりを飲み込み、頷いた。
「罠の可能性」
「はい。写真館なので、鏡やレンズ以上に厄介です」
「写真も反射面になるんですか」
橘は首を横に振る。
「そこは御影さんから説明があります」
その時、橘の端末が鳴った。
画面に御影の顔が映る。
背景は車内らしい。
御影はすでに身支度を整えていたが、目の下に少し疲れが残っている。
『おはようございます』
「おはようございます」
『昨日の三点は、大阪支部の封印庫に入りました。漏れはありません』
「よかったです」
『まだよくはありません』
「ですよね」
御影は画面越しに小さく頷いた。
『影見写真館の件ですが、写真は鏡ではありません。でも、写したものの形を残します。人はそこに、自分の記憶や感情を重ねる』
「それが道になる?」
『はい。特に古い写真、遺影、家族写真、事件現場の記録写真、強い未練が残る写真は、怪異の足場になります』
「今回の相手にぴったりですね」
『最悪に近いです』
御影の声は硬かった。
『写真館には、暗室があります。暗室は、光を制限し、像を浮かび上がらせる場所です。儀式に使われると、かなり危険です』
「何を映すんですか」
『映ってはいけないものを、像として定着させることがあります』
敦は食べる手を止めた。
「定着」
『はい。一時的に覗くだけなら、鏡やレンズ。でも写真は、残ります』
部屋の空気が少し重くなった気がした。
橘が端末を机の上に置く。
御影の横から、烏丸の声がした。
『現地は悪い未来が多いです』
「おはようございます、烏丸さん」
『おはようございます。あと、食べてください』
「食べてます」
『それは良い未来です』
「もう食事担当でええんちゃいますか」
『心外ですが、否定はしません』
御影が横で少しだけ呆れた顔をした。
それから、すぐ真面目な表情に戻る。
『龍宮寺さん、今日の現場では、写真を正面から見ないでください。特に、目が合う写真は危険です』
「写真と目が合うって、嫌な言い方ですね」
『でも、そういうことが起こります』
烏丸が続けた。
『現地でいくつか黒い画面が見えます。鏡より薄い。でも、数が多い。あと、上から何かが落ちます』
「物理ですか」
『半分は物理です』
「残り半分は?」
『悪意です』
「朝から嫌な二択」
橘は端末を切り替え、別の資料を見せる。
「現地には、警察と管理会社が先行しています。ただし中へは入れていません。表向きは危険物確認と不審者侵入の調査です」
「俺はどういう立場で?」
「特殊事案係への一時協力者です。昨日の仮合意の範囲内。間宮先生にも共有済みです」
「弁護士にも?」
「はい。返信が来ています」
橘は端末を敦へ向けた。
《現場協力は仮合意の範囲内。ただし本人同意・休息後・危険手当対象・記録共有必須。無理な追加要求をしないこと。》
その下に、もう一文。
《朝食を抜かせないこと。》
敦は少しだけ笑った。
「弁護士まで食事管理に入ってきた」
「大事です」
「分かりました」
敦は残りのおにぎりを食べた。
惣菜パンも食べた。
ヨーグルトも食べた。
バナナも食べた。
橘が記録用紙に何かを書いている。
「今、何書きました?」
「朝食摂取確認です」
「そこまで?」
「一応」
「聖者の食事ログ、嫌やなあ」
そう言いながらも、敦は少し助かっていた。
食べろ。
寝ろ。
相談しろ。
どれも地味だ。
だが、地味なものが今の自分を繋いでいる。
食事を終えると、敦は立ち上がった。
「行きます」
「はい。ただし、単独行動禁止です」
「分かってます」
敦は玄関へ向かいかけ、少しだけ足を止めた。
右手を軽く握る。
アイテムボックスの奥に、聖銀の短剣がある。
持っていけば楽だ。
呪物にも効く。
異世界の戦場なら、迷わず腰に差した。
だが、ここは大阪だ。
銃刀法。
所持品検査。
説明。
面倒な言葉がいくつも浮かぶ。
敦は、短剣を出さなかった。
代わりに、指先ほどの小さな聖銀片だけを、誰にも見えないように掌へ落とす。
魔王城で割れた聖具の欠片。
刃物ではない。
ただの金属片に見える。
それでも、穢れを読む時の芯にはなる。
敦はそれをポケットの奥へ入れた。
橘が振り返る。
「何か?」
「いえ。鍵、閉めます」
「お願いします」
危うく、全部見せるところだった。
敦は心の中で自分に言う。
隠し札は、隠し札のまま。
車は、朝の大阪を抜けていった。
通勤時間には少し遅い。
それでも道路は混んでいる。
真壁が運転席。
橘が助手席。
後部座席に敦。
御影と烏丸は現地で合流する。
三上の声は車内スピーカーから流れた。
『影見写真館周辺、今のところ一般人の集まりはありません。昨日の配信騒ぎとは違って、場所が表に出ていないのが大きいです』
「出さないでください」
敦が言う。
『全力で出さないようにしています』
「頼みます」
橘が端末を見ながら言う。
「三上さん、写真館の過去情報は?」
『営業当時は普通の町の写真館です。証明写真、七五三、成人式、結婚式、遺影の修整。地元密着型。ただ、閉業前の数年間は、奇妙な噂が少しあります』
「噂?」
『撮った覚えのない人影が写る。現像した写真の人物の目が黒くなる。遺影に写った故人の口元が変わっている。そういう類です』
「怪異案件だったんですか」
御影の声が別回線から入った。
『当時、祓戸連盟が一度調べています。ただ、強い怪異とは判断されなかった。古い暗室と、店主の感受性が少し強かった程度の記録です』
「店主?」
『影見清吾。写真を見る目が良すぎた人だったようです。写っている人の死期や病み、家族の嘘を当てたという話があります』
「それ、普通に嫌ですね」
『本人も嫌だったと思います』
御影の声は少し低かった。
『見えすぎる人間は、たいてい幸せにはなりません』
車内が少し静かになった。
烏丸が軽く言う。
『僕の悪口ですか』
『一般論です』
『なら大丈夫です』
「大丈夫なんですか」
敦が聞くと、烏丸はいつもの調子で答えた。
『半分くらいは』
「また半分」
真壁が短く言った。
「着くぞ」
車は古い商店街の脇に入った。
シャッターの下りた店が多い。
昔ながらの喫茶店。
閉店した洋品店。
看板だけ残った文具店。
その一角に、影見写真館はあった。
ガラスのはまった古い扉。
色褪せた看板。
店頭のショーケース。
そこには、古い写真がまだ飾られていた。
七五三の子ども。
結婚式の夫婦。
成人式の女性。
家族写真。
どれも、年月で色が抜けている。
それでも、人の顔だけは妙に残っていた。
見られている。
そう感じた。
敦は視線をずらした。
「これ、正面から見たらあかんやつですね」
御影が写真館の前で頷く。
「はい。特に、目の部分は」
烏丸は白い杖を床に軽く当てていた。
「入口は悪くありません。問題は奥です。あと、左のショーケースに近づく未来は悪いです」
橘が警察官と管理会社の担当者に短く説明している。
真壁は周囲を確認。
三上は回線越しに建物図面を送ってきた。
『一階が店舗と撮影室、奥に暗室。二階は住居だったようです。階段は店舗奥。電気は契約停止中ですが、昨夜、短時間だけ電力使用の記録があります』
「赤いランプですね」
『おそらく』
管理会社の担当者が鍵を差し出す。
手が震えていた。
無理もない。
朝から国だの警察だの、よく分からない人間が集まっている。
真壁が鍵を受け取り、扉を開けた。
古いベルが鳴った。
ちりん。
鏡の音とは違う。
ただのドアベル。
それでも、敦の体は少し反応した。
店内は薄暗かった。
埃の匂い。
古い紙の匂い。
現像液の残り香のような、酸っぱい匂い。
壁には写真が並んでいる。
ショーケースの中にも、アルバムや額縁が置かれている。
どれも古い。
だが、店の奥だけが妙に暗かった。
暗いというより、光が届いていない。
御影が札を一枚取り出す。
「まず、店内の写真には触らないでください。倒れても、拾わないで」
「倒れたら?」
「拾う前に言ってください」
烏丸が杖を鳴らす。
「右の壁は大丈夫。左のショーケースは駄目です。中央の床、三歩目に少し悪い未来」
「三歩目?」
真壁が足を止める。
敦は床を見た。
古い木の床。
見た目には何もない。
だが、空気の流れが少しだけ違う。
敦は無意識に、無属性魔法で床板の振動を読んだ。
足裏ではない。
空気と床を伝わる微かなきしみ。
そこだけ、薄い空洞がある。
「床下、何かあります」
御影が目を向ける。
「分かるんですか」
「音が違う」
嘘ではない。
全部ではないが。
真壁がしゃがみ、床板を確認する。
「板が浮いてる」
橘が管理会社の担当者を下がらせた。
「全員、入口側へ」
敦は床板へ手をかざした。
開ける前に、白い力をほんの少し流す。
焼かない。
ただ、穢れの流れを見る。
床板の下に、黒い線が一本走っていた。
糸ではない。
印だ。
踏めば、店内の写真の目がこちらを向く。
そんな感じがする。
「踏んだら、写真が起きます」
御影の表情が変わる。
「罠です」
「解除できますか」
「私が札で押さえます。龍宮寺さん、黒い線の端だけ焼けますか」
「やります」
御影が札を床へ置く。
青い線が床板の隙間へ入る。
敦は白い力を細く流した。
黒い線の端だけを炙る。
床板は焦げない。
写真も動かない。
ただ、床下で何かが小さく鳴った。
ぷつん。
切れた。
烏丸が頷く。
「三歩目の悪い未来が消えました」
「便利ですね」
「今のは分かりやすい方です」
真壁が床板を上げる。
下には、小さな黒い封筒があった。
写真用の袋。
表に、黒玻璃堂の印。
丸。
縦に一本。
敦は眉を寄せた。
「写真ですか」
御影は封筒を開けずに、札で挟んだ。
「現場では見ません。持ち帰って封印環境で確認します」
「開けたら?」
「たぶん、こちらを見ます」
「嫌すぎる」
封筒を御影が封印布へ包む。
それだけで、店内の空気が少し軽くなった。
だが、奥の暗さは残っている。
赤い光が、薄く漏れていた。
暗室だ。
敦は奥を見る。
扉の上に、小さな札が貼られている。
《暗室 入室注意》
文字は古い。
だが、その下に、新しいテープの跡があった。
誰かが最近、何かを貼り直した。
三上の声が端末から流れる。
『店内の防犯カメラはありません。ただ、周辺カメラに、昨夜二十三時十九分、黒いケースを持った人物が裏口へ回る映像があります』
「顔は?」
『帽子とマスク。見えません。ただ、歩き方が少し変です』
「怪我?」
『いえ。片手で重いものを持っているのに、体がほとんど傾いていません』
敦は少し嫌な顔をした。
「重さを逃がしてるか、何かで支えてるか」
言ってから、しまったと思った。
御影がこちらを見る。
「分かるんですか」
「向こうで、そういう術を見慣れてます。力の向きだけを扱う魔法みたいなものです。俺らは無属性って呼んでました」
「無属性……こちらで言う念動や荷重ずらしに近いものですか」
「たぶん近いです」
「使えるんですか」
「少し」
嘘ではない。
少し、という言葉の幅が広いだけだ。
烏丸が薄く笑った。
「少し、の未来は便利ですね」
「烏丸さん」
「言いません」
御影は追及しなかった。
ただ、現代側の言葉に置き換えるように、少し考えてから言った。
「では、相手も念動系の術か、荷重を誤魔化す呪具を使っている可能性があります」
「はい」
橘が言う。
「その情報は、後で間宮先生にも共有します。能力詳細ではなく、現場リスクとして」
「お願いします」
敦は少しほっとした。
全部を話すわけではない。
でも、必要な危険は共有する。
その線引きを、少しずつ覚えていくしかない。
暗室の前に立つ。
赤い光が、扉の隙間から漏れている。
電気は止まっているはずだ。
なら、この光は何で点いているのか。
御影が札を構える。
「開けます」
真壁が扉の横につく。
橘は一歩下がり、管理会社の担当者と警察官をさらに遠ざけた。
烏丸が白い杖を床に置く。
「開けた直後、上です」
「上」
敦は頷いた。
御影が扉を少し開けた。
赤い光が、濡れたように流れ出た。
同時に、天井から黒い額縁が落ちてきた。
大きい。
人の頭ほどある。
真壁が動くより早く、敦は無属性魔法を使った。
見えない力で、額縁の落下を止める。
空中で、がくん、と止まった。
木枠がきしむ。
ガラスが割れかける。
敦はそのまま、額縁を壁際へ滑らせて落とした。
音はほとんど立てなかった。
真壁が敦を見る。
「今のは?」
「受けました」
「手、触れてなかったぞ」
「気のせいです」
「そうか」
真壁はそれ以上聞かなかった。
ありがたい。
御影は額縁を見た。
中には、写真が入っていた。
白黒の集合写真。
古い写真館の前に、人々が並んでいる。
中央に、年老いた男。
おそらく影見清吾。
その後ろに、黒い影が一つだけ写っていた。
人の形をしている。
だが、顔がない。
目も口もない。
ただ、そこだけが黒く塗り潰されている。
「見ないで」
御影が鋭く言った。
全員が視線を外す。
だが、一瞬だけ遅れた警察官が、息を呑んだ。
「うっ」
膝が崩れる。
橘が駆け寄ろうとする。
敦が先に動いた。
警察官の額に手を触れず、白魔法を薄く流す。
治癒ではない。
解呪に近い。
目の奥に入ろうとした黒い針を、そっと抜く。
強く焼けば、視界に傷が残る。
だから、薄く。
警察官が大きく息を吸った。
「はっ……」
「目、閉じてください」
敦が言う。
「吐き気は?」
「す、少し」
「吐いてもええです。無理に立たんでください」
橘が警察官を支える。
「搬送までは不要?」
敦は少し見る。
黒いものは抜けた。
だが、気分の悪さは残るだろう。
「少し休めば大丈夫やと思います。でも病院確認はした方がいいです」
「分かりました。緊急対応として記録します」
橘が即座に手配する。
御影が額縁へ札を貼った。
「この写真も封じます」
「黒い影は?」
「たぶん、定着しかけたものです。まだ本体ではありません」
「本体は暗室」
「おそらく」
敦は暗室の中を見ないようにしながら、気配だけを探った。
赤い光。
現像液の匂い。
古い水の気配。
壁に吊られた何枚もの印画紙。
そこに、黒いものが薄く広がっている。
鏡の怪異とは違う。
レンズの通路とも違う。
これは、写し取っている。
人の顔。
記憶。
視線。
それらを紙に貼りつけようとしている。
「御影さん」
「はい」
「これ、昨日の鏡やレンズより、静かです」
「はい」
「でも、嫌な感じは強い」
「写真は、声を上げません。残るだけです」
その言葉が、妙に怖かった。
敦は暗室の扉の前に立つ。
「入ります」
烏丸がすぐに言う。
「龍宮寺さん、足元より壁です。右の壁に吊られた写真を見ないでください。あと、左奥の水盤は覗かない」
「注文多いですね」
「少ない方です」
「じゃあ、行きます」
敦は一歩入った。
暗室の中は赤かった。
赤いランプ。
吊られた印画紙。
古い器具。
現像液の入ったバット。
水盤。
棚。
薬品瓶。
そのすべてが、長く放置されていたはずなのに、いくつかだけ新しい。
中央の作業台に、黒い箱が置かれていた。
黒玻璃堂の印。
箱の蓋は開いている。
中には、何もない。
いや、何もないように見える。
敦はポケットの中の聖銀片を指で押さえた。
穢れの流れを読む。
黒いものは、箱から出て、暗室全体へ広がっている。
そして、壁の写真へ。
吊られた印画紙へ。
水盤へ。
さらに、奥の古いカメラへ。
大判カメラ。
蛇腹のついた、昔の写真機。
そのレンズだけが、こちらを向いていた。
「またレンズか」
敦が呟くと、御影が入口から息を呑んだ。
「見ないでください」
「見てません」
正面からは見ない。
敦は視界の端で位置を捉え、無属性魔法で空気を薄く固めた。
自分とレンズの間に、見えない膜を作る。
完全な結界ではない。
ただ、視線を少し歪ませる壁。
レンズの奥で、何かがこちらを探した。
見つからない。
少しだけ苛立ったように、赤い光が揺れた。
御影が背後で低く言う。
「今、何かしましたね」
「見えにくくしただけです」
「それも、さっき言っていた無属性ですか」
「たぶん」
「たぶん」
「向こうでは分類より生き残る方が大事やったんで」
御影はそれ以上聞かなかった。
烏丸の声が入口から飛ぶ。
「右壁の三枚目、落ちます」
敦は無属性魔法で、右壁の写真を壁へ押し戻した。
額縁が、がたがた震える。
落ちない。
写真の中の人物の目だけが、黒く濡れたように光った。
見ない。
見ないまま、白い力を細く伸ばす。
写真の表面に絡んだ黒い膜だけを焼く。
紙は燃やさない。
像も消さない。
ただ、こちらへ伸びようとする手だけを焼く。
じゅ、と小さな音。
写真の目が、ただの古いインクへ戻った。
「一枚落ちました」
三上の声が端末から入る。
『異常反応、少し低下しました。暗室全体に広がっていたノイズが減っています』
「三上さん、そこまで見えるんですか」
『御影さんの簡易センサーと、こちらの機器を繋いでいます。正直、何を見ているのか半分分かりません』
「半分流行ってるなあ」
烏丸が少しだけ笑った気配がした。
敦は作業台へ近づく。
黒い箱。
空。
だが、底に一枚だけ紙が貼りついている。
写真ではない。
伝票でもない。
古い撮影予約票のような紙。
そこに、黒い字で書かれていた。
《被写体、未定》
その下に、もう一行。
《白い聖者、撮影候補》
敦の背中に冷たいものが走った。
御影が声を低くする。
「龍宮寺さんを、写真に定着させるつもりです」
「定着されたら?」
「あなたの姿、力の流れ、あるいは一部の性質を、向こう側に記録されます」
「コピーされる?」
「完全ではありません。でも、対策は立てられる」
烏丸が言う。
「見られる未来は悪いです。撮られる未来はもっと悪い」
「でしょうね」
敦は作業台の紙を見下ろした。
腹が立つ。
相手はまだ、こちらを測っている。
鏡で見た。
配信で見た。
レンズで見た。
次は写真に残すつもりだった。
敦は右手を上げかける。
焼きたい。
全部焼きたい。
だが、止めた。
証拠。
痕跡。
次へ繋がる手掛かり。
御影が言うより早く、敦は息を吐いた。
「これ、本体ごと焼いたらあかんやつですね」
御影が少し驚いた顔をした。
「はい」
「分かってきました」
「助かります」
「腹は立ってますけど」
「それも分かります」
敦は紙の周囲に絡んだ黒い膜だけを焼いた。
文字は残る。
紙も残る。
ただ、こちらの名前へ伸びようとしていた嫌な糸だけが消える。
作業台の黒い箱が、かたん、と鳴った。
中から、声がした。
「撮らせて」
幼い声だった。
敦は動きを止めた。
「撮らせて」
また声。
子ども。
いや、子どもの声を真似ている。
昨日の鏡と同じだ。
助けたい気持ちを使う。
人の声を餌にする。
今度は、子どもの声でこちらの手を鈍らせる。
敦は静かに言った。
「御影さん」
「はい」
「これ、子どもですか」
御影は黒い箱を見た。
青い線を伸ばす。
少しだけ目を細める。
「違います。子どもの写真に残った声を使っています」
「なら、遠慮いらんですね」
「ただし、中の写真は燃やさないでください」
「はい」
敦は無属性魔法で、黒い箱の蓋をそっと押さえた。
内側から何かが押し上げようとする。
強い。
だが、昨日の鏡ほどではない。
箱を壊さないように、力の向きを逃がす。
押さえつけるのではなく、開こうとする力を横へ流す。
箱が軋む。
中の声が歪む。
「撮らせて」
「撮らんでええ」
敦は白い力を箱の隙間へ流した。
焼く場所は、写真ではない。
写真に食いついている黒い舌のようなもの。
それだけを焼く。
じゅう、と音がした。
赤いランプが一瞬、白く瞬いた。
暗室の壁に吊られた印画紙が、ざわりと揺れる。
そこに、顔が浮かびかけた。
知らない顔。
水瀬海斗。
春野真白。
敦自身。
そして、まだ会っていない誰か。
いくつもの輪郭が、紙の上で混ざりかけていた。
「まずい」
御影が札を投げる。
札が空中で青く光る。
「像が混ざっています。ここで定着すると、誰のものでもない写し身ができます」
「それ、何になるんですか」
「分かりません。でも、ろくなものではありません」
「でしょうね」
烏丸が叫ぶ。
「中央の水盤です。そこを見ないで、縁だけ!」
「縁だけ!」
敦は水盤を見ない。
視界の端で位置だけ捉える。
無属性魔法で空気を押し、水盤の表面を揺らす。
そこに映ろうとしていた像が崩れる。
同時に、白い光を縁へ走らせた。
水は燃えない。
器も割れない。
ただ、水面を反射面にしていた黒い膜だけが剥がれ落ちる。
水盤が、ただの汚れた水に戻った。
三上の声が飛ぶ。
『暗室のノイズ、大きく低下。赤い光も落ちています』
赤いランプが明滅する。
一度。
二度。
そして、消えた。
暗室が普通の薄暗さに戻る。
重かった空気が、少し流れた。
御影が息を吐く。
「閉じました。完全ではありませんが、ここで定着する危険は止まりました」
「写真は?」
「封印して持ち帰ります。燃やさずに」
「黒い箱は?」
「同じく」
敦は手を下ろした。
疲れた。
昨日より短い現場のはずなのに、神経を細かく使ったせいで、妙な疲れがある。
派手に焼く方が楽だ。
けれど、それをすれば証拠も痕跡も、人の記憶も壊す。
面倒だ。
やはり、面倒だ。
御影が黒い箱を封印布で包みながら、ぽつりと言った。
「昨日より、細かくなっています」
「相手が?」
「はい。あなたに焼かれないように、証拠を壊させないように、少しずつ形を変えている」
「こっちを学習してるんですね」
「おそらく」
敦は暗室の奥を見た。
古い大判カメラは、もうこちらを見ていない。
ただの古い道具に戻っている。
それでも、嫌な気配は完全には消えていなかった。
店そのものではない。
もっと遠いところ。
この写真館へ荷物を送った誰か。
黒玻璃堂の名前を使っている誰か。
そいつが、またこちらを見ている。
橘が暗室の入口から声をかける。
「龍宮寺さん。体調は?」
「腹が減りました」
「それは体調ですか」
「重要項目です」
「記録します」
「ほんまに?」
「半分冗談です」
「半分なんや」
その時、三上の声が硬くなった。
『榊原さん、橘さん、共有します。封筒の配送情報から、残り二つの荷物の一つが追えました』
「場所は?」
橘が聞く。
『府外へ向かったものです。奈良方面。送り先は廃業した映画館です』
御影が顔を上げる。
「映画館……」
敦は嫌な予感がした。
写真。
レンズ。
鏡。
次は、映像。
三上が続ける。
『ただ、それだけではありません。影見写真館の黒い箱から、短いメモ画像を復元しました』
「メモ画像?」
『はい。箱の底に貼られていた紙の裏側です。表に見えていたのは《白い聖者、撮影候補》。裏にも文字があります』
「読んでください」
三上は一瞬だけ間を置いた。
『《撮影失敗。次は、上映》』
暗室の空気が、また冷えた。
敦は、消えた赤いランプを見た。
撮影。
上映。
相手は、見せる段階を進めている。
鏡で覗き、レンズで繋ぎ、写真で残し、次は映像で広げる。
人に見せることそのものを、怪異の道にしている。
敦は静かに息を吐いた。
怒りはある。
だが、今は燃やさない。
燃やす場所を間違えれば、相手の思うつぼだ。
「橘さん」
「はい」
「次、映画館ですか」
「すぐには行きません。まず、この写真館の証拠保全と、あなたの状態確認です」
「分かってます」
敦はそう言った。
本当に、分かっている。
昨日よりは。
ただ、分かっていても、腹は立つ。
黒玻璃堂は人を映す。
記録する。
見世物にする。
そして、その先で何かを育てている。
敦は作業台の黒い箱を見た。
封印布の中で、もう声はしない。
それでも、紙の裏の言葉だけが頭に残った。
《撮影失敗。次は、上映》
なら、次は観客がいる。
画面がある。
暗闇がある。
誰かが座る席がある。
敦は拳を握り、すぐに開いた。
燃やすためではない。
間違えないために。
「次は、見る人間も守らなあかんな」
御影が静かに頷く。
「はい」
烏丸が白い杖を床に当てた。
「悪い未来は、かなり増えました」
「良い未来は?」
敦が聞くと、烏丸は少しだけ黙った。
それから、薄く笑う。
「あります。あなたが朝食を食べた未来です」
「そこに戻るんかい」
「大事です」
暗室の中で、ほんの少しだけ笑いが起きた。
だが、その笑いはすぐに消えた。
赤いランプは消えている。
写真は封じた。
水盤も、黒い箱も、今は沈黙している。
それでも、どこか遠くで、古い映写機が回り始めるような音がした気がした。
かたかた。
かたかた。
まだ聞こえないはずの音。
まだ始まっていないはずの上映。
敦は、その音を胸の奥で聞きながら、暗室を出た。




