第12話 弁護士と聖者
短期滞在マンションは、普通のワンルームだった。
普通すぎるほど普通だった。
白い壁。
小さなキッチン。
細い廊下。
ユニットバス。
ベッド。
机。
冷蔵庫。
電子レンジ。
カーテンの閉じられた窓。
それだけの場所だった。
だが、敦にとっては、妙に現実味がなかった。
鍵がある。
自分だけが入れる部屋がある。
ベッドがある。
風呂がある。
誰かの命令でいつでも起こされる場所ではない。
たったそれだけのことが、やけに重い。
「居室側の鏡は外してあります」
橘が玄関先で言った。
「浴室の鏡は備え付けで外せなかったので、御影さんの指示で一時的に覆いをしています。窓ガラスにも簡易処置済みです。反射を完全になくすことはできませんが、今夜はこれで十分だと」
「御影さんは?」
「連盟の搬送班と合流しています。一枚目の鏡、二枚目の鏡、レンズは大阪支部の封印庫へ移送中です」
「烏丸さんは?」
「同じく連盟側へ。移送経路の確認に同行しています」
敦は頷いた。
ちゃんと分かれている。
特殊事案係は宿泊と警備と連絡。
祓戸連盟は呪物と封印。
敦は、ここで寝る。
当たり前のようで、当たり前ではない役割分担だった。
部屋の中には監視カメラはない。
廊下やエントランスにはある。
橘はそのことも説明した。
「廊下側は警備のために映します。室内にはありません」
「分かりました」
「着替えと最低限の日用品は用意しています。サイズが合わなければ明日替えます」
「そこまで?」
「生活基盤も保護の一部です」
「保護やなくて契約、でしたよね」
「はい。契約の一部です」
橘は机の上に封筒を置いた。
「仮合意書の控え、宿泊先の注意事項、食費と交通費の記録用紙です」
「食費、ほんまに記録するんですね」
「します」
「弁当代で国が傾かへんといいですけど」
「予算より先に、三上さんの表計算が悲鳴を上げるかもしれません」
「それは申し訳ない」
少しだけ空気が緩んだ。
橘は端末を確認する。
「二十二時から、弁護士とのオンライン面談があります。正式契約ではありません。顔合わせと、最低限の注意点の確認です」
「俺側の弁護士ですよね」
「はい。特殊事案係の顧問ではありません。候補の一人です。合わなければ別の候補にできます」
「合うか合わへんか、弁護士で分かるもんですか」
「たぶん、話せば分かります」
「何を?」
「あなたを人間として見るか、案件として見るか」
敦は黙った。
橘は、それ以上は言わなかった。
「何かあれば、こちらへ連絡を。真壁さんが近くにいます。ただし、呼ぶ前に一度、これが本当に今すぐ必要か考えてください」
「俺もですか」
「あなたもです」
橘の声は真面目だった。
「今日、あなたは何度もすぐ動きました。今夜は、すぐ動かない練習です」
「練習って」
「必要です」
敦は苦笑した。
魔王を倒した後に、まさか「すぐ動かない練習」をさせられるとは思わなかった。
だが、否定はできない。
実際、自分は動こうとしていた。
黒玻璃堂の倉庫へ。
配送先へ。
助けを求める投稿へ。
どこへでも。
橘がドアを開ける直前、敦は声をかけた。
「橘さん」
「はい」
「今日の俺、危なかったですか」
橘は少しだけ振り返った。
「どの意味で?」
「絡め取られるという意味で」
橘はすぐには答えなかった。
廊下の灯りが、彼女の横顔を薄く照らしている。
「危なかったです」
「やっぱり」
「でも、止まれました」
「それ、烏丸さんにも言われました」
「予知抜きでも同じです」
橘は静かに言った。
「止まれる人でいてください。そうでないと、助けたい人のところへ行く前に、助けてほしい声そのものに潰されます」
それだけ言って、橘は部屋を出た。
ドアが閉まる。
鍵がかかる音がした。
敦は、しばらくその音を聞いていた。
鍵。
鍵がある。
誰かに閉じ込められた音ではない。
自分のために閉じた音だった。
敦は部屋の中を見回した。
誰もいない。
室内にカメラもない。
窓のカーテンは閉じられている。
浴室の鏡は黒い布で覆われている。
ようやく一人になった。
敦は右手を軽く握り、意識を体の奥へ沈めた。
そこに、見えない棚がある。
異世界で五年間、命を預けてきた空間。
アイテムボックス。
神が雑に残していった、数少ない本当に便利なものだった。
中には、まだいろいろ入っている。
聖銀の短剣。
回復薬。
解毒薬。
硬い黒パンと干し肉。
魔石。
傷だらけの外套。
魔王軍幹部から奪った指輪。
魔王城で拾った封印釘。
それから、金貨。
どれも向こうでは命綱だった。
だが、現代では扱いに困るものばかりでもある。
短剣を出せば銃刀法の問題になる。
金貨を売れば出所を聞かれる。
魔石など、説明のしようがない。
回復薬も、成分分析に出された瞬間、面倒なことになる。
「ほんま、神さま雑やな」
敦は小さく呟いた。
力は返した。
道具も残した。
だが、それを現代でどう使うかまでは考えていない。
魔王の城ではありがたかったものが、日本のワンルームでは危険物と不審物の山になる。
敦はアイテムボックスの奥へ意識を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。
今夜は出さない。
少なくとも、ここに何があるかを国にも連盟にも全部話すつもりはない。
治癒と浄化だけでも、もう十分面倒なことになっている。
アイテムボックスまで知られれば、便利な倉庫扱いされる未来が見える。
予知能力などなくても分かる。
「隠し札は、隠し札のままや」
敦は右手を下ろした。
向こうで覚えた白魔法も、治癒だけではない。
毒を抜く術。
呪いを剥がす術。
光で目を眩ませる術。
仲間の体を守る祝福。
瘴気を寄せつけない簡易結界。
穢れの流れを読む感覚。
それに、無属性魔法。
見えない力で物を押す。
落ちるものを受ける。
音を薄くする。
空気を固めて壁にする。
相手の足元だけをわずかに重くする。
離れた小物を引き寄せる。
扉の向こうの振動を読む。
戦場では、派手な火や雷より、そういう地味な術の方が命を救うことも多かった。
ただ、現代でそれをそのまま見せれば、治療ではなく実験材料になる。
使えることと、見せていいことは違う。
それを、今日一日で嫌というほど思い知らされた。
敦は机へ戻り、弁当を開けた。
冷めていた。
それでもうまかった。
米を食べる。
唐揚げを食べる。
卵焼きを食べる。
少しずつ、体が現代へ戻ってくる。
魔物の血も、瘴気の匂いも、鏡の冷気もない。
あるのは、冷めた弁当と、紙の仮合意書と、電気ポットの湯が沸く音。
それが妙にありがたかった。
食べ終える頃、スマホが震えた。
橘からのメッセージだった。
《オンライン面談、五分後です。端末のリンクを開いてください》
敦は水を飲み、少しだけ背筋を伸ばした。
鏡の怪異より緊張する。
弁護士というものに、まともに相談した経験はない。
リストラの時も、退職書類を受け取って終わった。
あの時、誰かに相談する余裕も知識もなかった。
今度は違う。
違うはずだ。
敦はリンクを開いた。
画面に、少し時間を置いて女性が映った。
四十代前半くらい。
短く整えた髪。
細い眼鏡。
落ち着いた紺色のジャケット。
背景は事務所の本棚だった。
法律書の背表紙が並んでいる。
女性は画面越しに軽く頭を下げた。
「こんばんは。弁護士の間宮律子です」
「龍宮寺敦です」
「今日は、正式受任前の顔合わせです。まず確認します。私は特殊事案係の顧問弁護士ではありません。榊原さんから候補として紹介されましたが、受任する場合、私はあなたの代理人になります」
「俺の味方、ということですか」
「正確には、あなたの利益を守る立場です」
「利益」
「はい。感情的な意味での味方ではなく、法的・契約上の味方です。必要なら、榊原さんたちにも反対します」
敦は少しだけ息を吐いた。
「それは、ありがたいです」
「ありがたいと思うのは、正式契約書を読んでからにしてください」
「手厳しいですね」
「手厳しいくらいでないと、あなたの周りは危ないと思います」
間宮は画面越しに敦を見た。
その目は、興味本位ではなかった。
怖がってもいない。
評価しているというより、測っている。
ただし、力ではない。
疲れ方。
反応。
言葉の選び方。
そういうものを見ている目だった。
「今日の概要は、榊原さんから最低限聞いています。異常事案への協力、治癒らしき能力、浄化らしき能力、動画拡散、今後の契約。それから、あなたが三十歳で、リストラ直後で、社員寮退去の問題を抱えていること」
「そこまで」
「必要な情報です」
間宮は淡々と言った。
「あなたを守るには、能力の話だけでは足りません。住む場所、収入、保険、税金、携帯電話、銀行口座、前職との関係。そういう現実の部分が弱いと、そこを掴まれます」
敦は、思わず笑いそうになった。
神に能力をもらった時より、よほど具体的だった。
「神様より配慮ありますね」
口に出してから、しまったと思った。
だが、間宮は眉一つ動かさなかった。
「神様と比較されるのは初めてですが、少なくとも私は、契約書と住民税の方を見ます」
「助かります」
「笑い事ではありません。あなたの場合、能力より先に生活基盤を整えないと、簡単に利用されます」
「今日も、似たようなことを言われました」
「何度でも言われた方がいいです」
間宮は紙を一枚、画面の前に置いた。
こちらには読めない。
おそらくメモだろう。
「確認します。あなたは今後、治癒や浄化を求められる可能性が高い」
「はい」
「その際、最初に決めなければならないのは、何ができるかではありません。何をしないかです」
敦は目を細めた。
「しないこと」
「はい。死者を戻せない。病気をすべて治せるとは限らない。本人同意なしに治癒しない。医療行為との線引きを勝手に超えない。報酬なしの常態化をしない。検査名目で身体や能力を提供しない。限界を公開しない」
「限界を公開しない?」
「あなたの限界は、助けを求める人にとっては希望になります。でも、利用しようとする人にとっては操作方法になります」
敦は黙った。
榊原も似たようなことを言っていた。
治癒の限界は、命綱であり首輪にもなる。
白魔法も同じだ。
無属性魔法も同じだ。
何が治せるか。
何を祓えるか。
何を止められるか。
どれくらい守れるか。
その線を知られれば、救える命も増えるかもしれない。
だが同時に、その線を狙う者も出る。
間宮は続けた。
「たとえば、あなたが『骨折までなら治せるが、内臓疾患は難しい』と公開したとします。すると、骨折患者が殺到するだけではありません。誰かがあなたを試すために、わざと骨折させた人間を連れてくる可能性もあります」
敦の背筋が冷えた。
「そこまでしますか」
「します」
間宮は即答した。
「お金、宗教、政治、医療、研究、復讐。理由はいくらでもあります。善意の依頼だけを見ると、悪意に遅れます」
敦は、今日見た投稿を思い出した。
《本物なら証明して》
《治せるなら何で隠れてるんですか》
《助けてくれないなら偽物》
あれらが全部悪意とは限らない。
けれど、善意だけでもない。
「じゃあ、何をどこまで話せばいいんですか」
「最初は少なく」
「少なく」
「はい。『協力できる場合がある』『医療や専門機関と連携する』『個別判断が必要』『直接依頼は受け付けない』。これくらいです」
「俺、聖者とか呼ばれてますけど」
「名乗らないでください」
「名乗る気はないです」
「それは良かった」
間宮は少しだけ眼鏡を直した。
「あなたが聖者を名乗れば、助けなかった時に責められます。名乗らなくても責められるでしょうが、少しはましです」
「まし、ですか」
「世間は、完璧にはなりません」
その言い方に、敦は妙に納得してしまった。
世間は、完璧にはならない。
魔王を倒すより、ずっと曖昧で、ずっと嫌な敵だ。
「仮合意書は読みましたか」
「はい。全部はまだ飲み込めてないですが」
「問題ありません。飲み込む前にサインしてはいけないものが多すぎます。今夜の仮合意は最低限です。正式版では、いくつか追加します」
「何を?」
「拒否権の明文化。休息時間の保証。協力費の算定方法。危険手当。食費上限」
「食費上限」
「必要です」
「そこ、上限つけるんですか」
「青天井は紛争になります」
敦は少しだけ顔をしかめた。
「食費で揉める聖者、嫌ですね」
「揉める前に決めるのが契約です」
「なるほど」
「それから、動画・肖像の管理。能力使用時の映像を誰が持ち、誰が閲覧でき、外部へ出す時に誰の同意が必要か」
「それ、大事ですね」
「非常に大事です。あなたの力は映像だけでも価値を持ちます。研究機関、報道、宗教団体、民間企業、海外。欲しがる相手は多いでしょう」
敦は額を押さえた。
「魔王より多い」
「魔王の件は存じませんが、多いでしょうね」
間宮は淡々としている。
その淡々さが、逆に頼もしかった。
「あと、前職と社員寮の件も確認します」
「あ、それもですか」
「もちろんです。社員寮の退去期限、未払いの有無、退職手続き、雇用保険、健康保険の切り替え、住民税。ここを放置すると、あなたは怪異より先に役所と元勤務先に追われます」
「現実が強い」
「現実は強いです」
間宮はきっぱり言った。
「あなたが本当に人を助けたいなら、まず自分の住所と保険と収入を安定させてください」
敦は言葉に詰まった。
あまりにも地味だ。
だが、間違っていない。
聖者の力。
浄化。
治癒。
魔王討伐。
アイテムボックス。
白魔法。
無属性魔法。
そういう派手なものの足元に、住所と保険と収入がある。
そこが崩れたら、人を助ける前に自分が倒れる。
「神様は、そこまで考えてくれませんでした」
敦が呟くと、間宮は初めて少しだけ表情を緩めた。
「神様の代理人ではありませんので、そこは私から請求できません」
「できたらしてほしいです」
「相手方住所不明です」
「ですよね」
少しだけ、笑えた。
笑えたことに、敦自身が少し驚いた。
間宮はすぐに表情を戻した。
「真面目な話に戻します。あなたは、自分の能力の詳細を私に話す義務はありません。ただし、契約上必要な範囲では、できることとできないことを曖昧にしたままでは危険な場合があります」
「全部は話しません」
「話さなくていいです」
敦は少しだけ意外だった。
「いいんですか」
「はい。全部話す必要はありません。むしろ、初対面の弁護士に全部話す人の方が危険です」
「弁護士なのに?」
「弁護士だからです。信頼関係は一度の面談で完成しません」
間宮はそう言った。
「今夜必要なのは、あなたが『全部話さなくても契約できる』と理解することです。言わない権利も、あなたの権利です」
敦はゆっくりと頷いた。
言わない権利。
それもまた、向こうではあまりなかったものだ。
聖者として何ができるか、常に求められた。
力を隠せば、なぜ出し惜しみをするのかと言われた。
ここでは、言わないことも契約に入る。
変な世界だ。
だが、悪くない。
「もう一つだけ」
間宮が言った。
「あなたは今後、『助けなかった責任』を背負わされそうになると思います」
敦の胸が、また重くなる。
「はい」
「法的責任と、感情的責任は違います。誰かが助からなかった時、あなたが悪いと感じることはあるでしょう。でも、それがそのまま法的責任になるわけではありません。逆に、法的責任がないからといって、心が軽くなるわけでもない」
「難しいですね」
「難しいです。だから、一人で判断しないでください」
間宮は画面越しに、まっすぐ敦を見た。
「あなたに必要なのは、勇気ではなく相談先です」
その言葉は、妙に刺さった。
勇気なら、もう何度も出した。
無理やり出した。
怖くても前に出た。
痛くても立った。
だが、相談することは、あまりしてこなかった。
向こうでは、相談する前に戦場が来た。
今は違う。
違うようにしなければならない。
「分かりました」
敦は言った。
「すぐに一人で決めないようにします」
「まずはそれで十分です」
間宮は頷いた。
「正式な契約書案は、明日の昼までに出します。あなたは今夜、これ以上新しい書類を読み込まないでください」
「読まない方がいいんですか」
「疲れている時に読む契約書は、怪異より危険です」
「それ、弁護士が言うと重いですね」
「事実です」
面談は、四十分ほどで終わった。
最後に間宮は、もう一度言った。
「龍宮寺さん。あなたの力は、誰かにとって救いになるでしょう。でも、救いになる力ほど、他人に所有されやすい」
「所有」
「はい。だから、契約で線を引きます。あなたが冷たい人間になるためではありません。助け続けるためです」
敦は、その言葉をしばらく聞いていた。
助け続けるために、線を引く。
それは、今日何度も聞いた話と同じだった。
けれど、弁護士の口から出ると、また別の重さがあった。
「明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ。今夜は寝てください」
「皆それ言いますね」
「言われるだけの状態に見えます」
間宮は少しだけ目を細めた。
「画面越しでも分かります」
「そんなに?」
「はい」
通信が切れた。
画面が黒くなる。
敦は反射的に、黒い画面を見ないようにした。
今日だけで、反射面にはうんざりしている。
スマホを伏せ、背もたれに体を預ける。
部屋が静かだった。
冷蔵庫の音。
エアコンの低い音。
遠くの車の音。
それだけ。
助けを求める投稿は、今も増えているかもしれない。
黒玻璃堂の荷物は、どこかへ運ばれているかもしれない。
誰かがこちらを見ているかもしれない。
それでも、今は動かない。
契約で決めた。
止まると決めた。
敦は仮合意書の控えを机に置いた。
その横に、間宮から送られてきた短いメッセージが表示される。
《今夜の宿題:寝ること。余計な検索をしないこと。困ったら連絡すること》
敦は思わず笑った。
「宿題が小学生やな」
だが、その宿題はたぶん難しい。
魔王を倒すよりは簡単なはずなのに、難しい。
風呂に入る。
浴室の鏡は覆われていた。
黒い布が、壁に不自然に張られている。
変な光景だ。
だが、ありがたい。
湯を浴びると、体の表面から一日分の緊張が少しずつ流れていく。
傷はない。
血もない。
それでも、疲れは確かにあった。
敦は髪を拭き、用意されていた部屋着へ着替えた。
少しだけ肩がきつい。
明日、替えてもらう必要があるかもしれない。
聖者の体格に合う服は、現代でも地味に面倒だ。
ベッドへ向かう。
スマホを見たい衝動がある。
投稿。
ニュース。
黒玻璃堂。
春野真白。
水瀬海斗。
自分の名前。
見れば、きっと何か出てくる。
助けてという声も、責める声も、面白がる声も。
敦はスマホを手に取った。
そして、少し迷ってから、画面を伏せた。
「余計な検索をしないこと」
小さく呟く。
弁護士の宿題。
契約の一部ではない。
それでも、今夜は従ってみることにした。
電気を消す。
部屋が暗くなる。
窓の外の明かりが、カーテン越しにぼんやり滲む。
敦はベッドに横になった。
柔らかい。
柔らかすぎて、少し落ち着かない。
向こうの野営より、ずっと良いはずなのに。
目を閉じる。
声が浮かぶ。
助けて。
本物なら。
聖者なら。
それから、別の声も。
ツナマヨ。
ちゃんと文句言いました。
敦は深く息を吐いた。
全部は助けられない。
だが、全部を無視するわけでもない。
助け続けるために、線を引く。
寝る。
相談する。
契約する。
食費を記録する。
どれも、聖者らしくはない。
けれど、現代で生きるには、たぶん必要なことだった。
眠りに落ちる直前、スマホが一度だけ震えた。
敦は反射的に起きかけた。
だが、止まった。
深呼吸する。
緊急なら、橘か榊原か三上から電話が来る。
そう決めた。
そういう仕組みにした。
なら、今は見ない。
敦は目を閉じ直した。
スマホは、もう鳴らなかった。
その頃、画面の向こうでは、三上が通知を一つ確認していた。
黒玻璃堂の配送先。
三つに分かれた荷物のうち、市内へ向かった一つ。
送り先は、廃業した写真館だった。
店名。
影見写真館。
営業終了から、十七年。
だが、その夜。
閉ざされたはずの写真館の暗室で、赤いランプが一つだけ灯っていた。




