第11話 休む契約
事務所へ戻った時、時計は二十一時を少し過ぎていた。
昼から夜までが、やけに長い。
春野家。
配信スタジオ。
割れたレンズ。
二枚の鏡。
黒玻璃堂。
そして、画面の向こうにいる誰か。
一つ一つは数時間の出来事でしかないはずなのに、敦の体には、向こうで三日ほど戦場を歩いた後のような重さが残っていた。
ただし、腹はまだ減っている。
そこだけは、かなり腹立たしいくらい正直だった。
五階の事務室に入ると、三上がすぐに顔を上げた。
「おかえりなさい。全員無事ですか」
「無事です」
橘が答える。
「水瀬海斗さんとスタッフ二名は、救急確認の上で事情聴取。配信データは保全。二枚目の鏡とレンズは御影さんが封印済みです」
御影は封印布に包まれた鏡とレンズを、机の上へ慎重に置いた。
一枚目の木箱とは離して置く。
近づけるだけでも、嫌な感じがするらしい。
敦にも、少し分かった。
黒いものはもうほとんど漏れていない。
それでも、二つの包みが同じ机にあるだけで、部屋の空気がほんのわずか重くなる。
「並べない方がいいです」
御影が言った。
「鏡同士、反射面同士は、意味を持ちます」
「距離を取ればいい?」
榊原が聞く。
「はい。できれば別室。封印線を挟んでください」
「三上くん」
「準備してます」
三上はすでに、事務室の奥にある小さな会議室の床へ養生テープで四角を作っていた。
その上に御影が札を置く。
普通の事務所に、急に退魔の作法が入り込む。
蛍光灯。
コピー機。
ノートパソコン。
そこに封印布と札。
現代と怪異が同じ机に並んでいる。
敦はその光景を見て、何とも言えない気持ちになった。
魔物の洞窟より、厄介かもしれない。
洞窟は、危険な場所だと分かる。
だが、ここは普通の事務所だ。
普通の椅子に座り、普通の書類をめくりながら、人を食う鏡の話をする。
それが妙に怖い。
「連盟の搬送班を呼びます」
御影が言った。
「この三つは、ここで長く保管しない方がいい。今夜中に大阪支部の封印庫へ移します」
榊原が頷く。
「特殊事案係は搬送経路と警備を手配します。保管そのものは祓戸連盟側で」
「お願いします」
御影は短く答えた。
霊的な封印は御影たちの領分。
人の目から隠し、車を出し、書類と警備を整えるのは橘たちの領分。
敦はその分担を見て、少しだけ納得した。
この世界では、力だけでは足りない。
だが、力を使わない者にも役割がある。
それもまた、少しずつ分かってきたことだった。
「龍宮寺さん」
榊原が声をかけた。
「座って」
「はい」
「食べて」
「はい?」
会議机の上に、新しい弁当が置かれていた。
さっきの残りではない。
新しい。
しかも大盛りだった。
敦は思わず三上を見た。
三上は少し得意そうに言う。
「追加で頼みました」
「三上さん」
「はい」
「あなた、優秀すぎません?」
「仕事です」
「これは仕事以上です」
烏丸が椅子に座りながら頷いた。
「食べる未来は良いです」
「便利やな、その言い方」
「実際、今食べない未来は悪いです」
榊原も頷く。
「食べながらでいい。今日の現場対応は、ここで一度終了します」
敦は弁当の蓋を開けかけた手を止めた。
「黒玻璃堂の倉庫は?」
「今すぐ突入はしません」
「でも、放っといたら」
「放っておかない。けれど、あなたを今すぐ走らせることもしません」
榊原の声は静かだった。
強くはない。
だが、動かない。
その声に、敦は少しだけ苛立った。
「誰かが、また餌にされるかもしれません」
「その可能性はあります」
「なら」
「だからこそ、準備します」
榊原は資料を一枚、敦の前に置いた。
大正区の倉庫。
黒玻璃堂。
配送伝票。
水瀬海斗へのDM。
古い管理番号。
並んだ文字は、どれも嫌な重さを持っていた。
「現時点で分かっていることを言います。黒玻璃堂の名義を使った者は、水瀬海斗さんへ二枚目の鏡を貸し出した。連絡には店の公式アカウントを使っている。ただし、そのアカウントの登録情報は偽装されています」
三上が続ける。
「大正区の倉庫は、短期契約のレンタル倉庫です。契約者は法人名義ですが、実体が薄いです。管理会社には連絡済み。警察側も、危険物確認という名目で周辺を押さえています」
「中は?」
敦が聞く。
「まだ開けていません」
「何でですか」
「罠の可能性があるからです」
三上ははっきり言った。
「鏡、レンズと来ています。次がドアノブ、監視カメラ、窓ガラス、床の水たまり、何でもあり得ます。何も知らない警察官や管理会社の人が入れば、被害が出るかもしれません」
敦は口を閉じた。
正しい。
それは分かる。
分かるが、体が納得しない。
助けを求める声があるなら、動く。
危険があるなら、先に入る。
向こうでは、それで何度も生き残ってきた。
だが、ここでは違う。
自分が動いたことで、別の誰かが見落とされるかもしれない。
烏丸がさっき言った言葉が、まだ耳に残っている。
助けられるはずの人を見落とします。
それは、負けるより嫌だった。
榊原が敦の前に、さらに一枚の紙を置いた。
「これは、正式契約前の仮合意書です」
「もう作ったんですか」
「叩き台よ。正式なものは弁護士を入れる。でも、今夜から必要な最低限は書面にする」
敦は箸を置いた。
今度は本当に置いた。
スマホを取り出して録音を始める。
「録音します」
「榊原美津子、同意します」
「橘怜奈も同意します」
三上が手を上げる。
「三上悠斗、同意します」
真壁が壁際から短く言う。
「真壁、同意する」
御影が少し姿勢を正した。
「御影沙夜、祓戸連盟側の立会人として同意します」
烏丸も軽く手を上げる。
「烏丸透、連盟協力者として同意します。弁当を少し分けてもらう未来は悪くありません」
「それは後で」
敦が言うと、烏丸は素直に頷いた。
「後でも悪くありません」
榊原は紙を指で押さえた。
「まず一つ。特殊事案係は、龍宮寺敦さんに対して、能力使用を命令しない。協力は本人の同意に基づく」
「はい」
「二つ。能力使用の現場記録、報告書、映像、関連資料は、原則として龍宮寺さんにも共有する」
「はい」
「三つ。治癒、浄化、戦闘行為について、無償協力を常態化させない。緊急時を除き、協力費、交通費、滞在費、食費を記録し、支払う」
敦は少しだけ顔を上げた。
「食費も?」
「あなたの場合、必要経費です」
三上が小さく頷いた。
「かなり重要な経費です」
「何でそこで真顔なんですか」
「見積もりが必要なので」
烏丸が口を挟む。
「食費を削る未来は悪いです」
「もうええです、その予知」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、榊原の声はすぐに戻る。
「四つ。休息を協力条件に含めます」
敦は眉を寄せた。
「休息?」
「あなたは、今日だけで三件の異常案件に対応した。春野家、配信スタジオ、レンズ。さらに治癒と浄化を使っている。こちらが休息を取らせずに次へ行かせるなら、それは協力ではなく消耗です」
「俺はまだ動けます」
「動けるかどうかではありません」
榊原は敦をまっすぐ見た。
「動ける人を、動けるからといって動かし続ける。それが使い潰すということです」
敦は黙った。
何も言い返せなかった。
向こうでも、似たようなことはあった。
聖者殿ならできる。
あなたなら耐えられる。
あなたしかいない。
その言葉を重ねられて、気づけば誰よりも前に立たされていた。
感謝もされた。
祈られもした。
だが、休んでいいとはあまり言われなかった。
敦は紙の文字を見た。
休息。
それが契約条件に入っている。
変な気分だった。
「五つ」
榊原が続ける。
「龍宮寺さん本人に、受任弁護士をつけます。こちらの顧問弁護士ではなく、あなた側の代理人です。候補を複数提示し、あなたが選ぶ」
「明日ですか」
「可能なら今夜、オンラインで一人だけ顔合わせします。正式面談は明日以降」
「早いですね」
「早くしないと、あなたが善意で次々サインしそうだから」
「そこまで信用ないですか」
「善意に関しては、あまり信用していません」
榊原は真顔で言った。
「あなたは、助けてと言われると動く人です」
敦は否定しかけた。
だが、できなかった。
実際、動いている。
梅田で車を止めた。
倉庫で荷を受けた。
春野蓮の投稿を見て、春野家へ行った。
水瀬海斗の配信を止めた。
全部、自分で選んだ。
誰かに命令されたわけではない。
だからこそ危ない。
橘が端末を操作し、別の画面を大型モニターへ映した。
「龍宮寺さん。見せるか迷いましたが、これは知っておいた方がいいと思います」
「何ですか」
「あなた宛てではありません。ただ、あなたを指している投稿です」
モニターに、無数の投稿が並んだ。
《梅田の聖者さん、母を助けてください》
《弟が事故で意識不明です。白い光で治せるならお願いします》
《父が亡くなりました。戻せませんか》
《呪われています。来てください》
《うちの子を見てください》
《本物なら証明して》
《治せるなら何で隠れてるんですか》
《助けてくれないなら偽物》
敦は、画面から目を逸らせなかった。
文字の一つ一つに、人がいる。
苦しんでいる人。
縋っている人。
怒っている人。
試している人。
利用しようとしている人。
全部が混じっていた。
「これ、全部……」
「全部には応じません」
橘が言った。
「応じられません。応じたら、あなたも相手も壊れます」
三上が続ける。
「中には詐欺アカウント、便乗、愉快犯、反社会的勢力らしきものもあります。医療機関に関わるものも多い。勝手に接触すれば、法的にも倫理的にも大きな問題になります」
「でも、本物もある」
敦は言った。
声が少し掠れた。
「本当に困ってる人もあるんでしょう」
「あります」
榊原は否定しなかった。
「だから、窓口を作ります。医療、警察、祓戸連盟、自治体、特殊事案係。必要なところへ振り分ける。あなたが直接全部を見る形にはしません」
「見なかったことにするんですか」
「違います」
榊原の声が、少し強くなった。
「すべての不幸を、あなたの呼び出し音にしないためです」
敦の胸に、その言葉が刺さった。
すべての不幸を、自分の呼び出し音にしない。
画面には、まだ投稿が流れている。
助けて。
お願い。
本物なら。
聖者なら。
神様なら。
人の声は、遠くても届く。
届いてしまう。
だが、届いた声すべてに走れば、敦はたぶん壊れる。
それだけではない。
中途半端に手を出したせいで、もっと壊すかもしれない。
敦はゆっくり息を吐いた。
「俺は、全部は助けられない」
口に出すと、思ったより重かった。
御影が静かに頷く。
「誰にもできません」
「でも、助けられるものはある」
「はい」
「なら、選ばなあかん」
「はい」
敦は画面を見つめた。
目が痛い。
黒いレンズに見られた時とは違う痛みだ。
人の声が、多すぎる。
榊原が紙を一枚めくる。
「六つ。依頼受付は、当面、特殊事案係と祓戸連盟が一次確認を行う。龍宮寺さんへ直接渡すものは、緊急度、危険度、法的問題を確認した上で絞ります」
「俺が見たいと言ったら?」
「見せます。ただし、一人で抱え込まない形で」
橘が言う。
「閲覧時間も区切ります。深夜に一人で見ないでください」
「子ども扱いですね」
「自分を責める人ほど、深夜の画面に弱いです」
橘の声は柔らかくなかった。
だが、乱暴でもなかった。
敦は苦笑した。
「経験談ですか」
「仕事柄、よく見ます」
それ以上、橘は言わなかった。
敦も聞かなかった。
榊原が最後の項目を示す。
「七つ。今夜の宿泊場所。ここではありません」
「事務所じゃないんですか」
「仮眠室は緊急用です。長く置くと、あなたは保護対象ではなく備品扱いになります」
「備品」
「冗談ではありません」
榊原は真顔のままだった。
「住む場所は大事です。鍵がある。寝る場所がある。風呂がある。荷物を置ける。誰かの呼び出しでいつでも起こされる場所ではない。そういう場所を確保します」
敦は、言葉を失った。
鍵がある。
寝る場所がある。
風呂がある。
荷物を置ける。
当たり前のことのはずだった。
だが、今の敦には、その当たり前がほとんどなかった。
社員寮は退去寸前。
所持金は少ない。
スマホ代も、税金も、保険料も来る。
魔王を倒した男の足元は、まだぐらぐらだった。
「一時的に、協力者用の短期滞在マンションを使ってもらいます」
榊原が言った。
「場所は非公開。室内の鏡は外してあります。テレビ、窓、浴室の反射面には簡易処置済み。監視カメラは共有部のみ。室内にはありません」
「そこまで?」
「今日の相手は、反射面を使っています」
「ありがたいです」
素直に出た。
榊原は少しだけ頷いた。
「感謝は受け取ります。でも、これは恩ではありません。契約の一部です」
「恩にしたら、首輪になるから?」
「そうです」
敦は仮合意書を見た。
紙の上の文字は堅い。
だが、その堅さが今は少しだけありがたかった。
感謝。
善意。
使命。
聖者。
そういう柔らかそうな言葉は、時々、人を縛る。
契約書の方が、まだましなこともある。
敦はペンを持った。
「正式契約前の仮合意、ですね」
「はい。納得できないところは、今ここで言ってください」
「休息って、どれくらいですか」
「最低六時間。緊急時を除き、あなたを現場へ出しません」
「緊急時の判断は?」
「私、橘さん、御影さん、烏丸さん。少なくとも二者以上の確認。あなた本人にも確認します」
「俺が行くと言ったら?」
「止める時は止めます」
「強いですね」
「止める契約なので」
敦は少し笑った。
「分かりました」
サインした。
名前を書く。
龍宮寺敦。
たった四文字なのに、やけに重い。
榊原が紙を受け取り、すぐにコピーを取るよう三上へ渡した。
「あなたの控えも渡します」
「はい」
三上がコピー機へ向かう。
機械音が、部屋に響いた。
退魔の札と、コピー機の音。
本当に変な世界だ。
その時、橘の端末が震えた。
全員が一瞬だけ身構える。
橘は画面を確認し、表情を少し緩めた。
「春野蓮さんからです。真白さんが、少しだけ食べられたそうです」
敦は顔を上げた。
「ツナマヨ?」
「はい。病院側が許可した範囲で、少しだけ」
橘は画面を見せた。
短いメッセージだった。
《真白がツナマヨを少し食べました。まだ眠そうやけど、ちゃんと文句言いました。ありがとうございました》
敦は、しばらくその画面を見ていた。
全部は助けられない。
そう口にしたばかりだった。
それでも、一人は戻った。
ツナマヨを食べて、文句を言えるところまで戻った。
それは、確かにあった。
「よかった」
敦は小さく言った。
今度こそ、本当に。
御影も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「よかったです」
烏丸が静かに頷く。
「良い未来です」
「それは、俺でも分かります」
「でしょうね」
部屋に、少しだけ笑いが戻った。
だが、三上のパソコンが小さく鳴った。
短い通知音。
今度は警告ではない。
三上が画面を見る。
「大正区の倉庫の件です」
榊原が顔を戻す。
「何か動きが?」
「管理会社から返信。倉庫は三日前に解約されています。ただ、今日の夕方に、荷物の回収業者を名乗る人物が入った記録があります」
「映像は?」
「防犯カメラがあります。ただし、画質が悪いです」
三上がモニターへ映像を出す。
倉庫の入口。
夕方。
帽子をかぶった人物が、段ボールを台車へ乗せている。
顔は見えない。
性別も分かりにくい。
ただ、台車の上に積まれた箱の一つに、黒い印が見えた。
丸。
縦に一本。
鏡の紋とは違う。
レンズでもない。
だが、何かを示す印。
御影の顔が固まった。
「その印……」
「知ってますか」
敦が聞く。
「祓戸連盟では使いません」
「じゃあ」
「黒玻璃堂の古い商品印です」
榊原が低く言う。
「回収された荷物は?」
三上が別画面を開く。
「配送先を追っています。少なくとも三つに分かれています。一つは市内。もう一つは府外。最後の一つは、まだ追跡中です」
「今から行かない」
榊原が先に言った。
敦は口を閉じた。
先に言われた。
烏丸が白い杖を指で撫でる。
「行かない未来の方が良いです」
「分かってます」
敦は少し不機嫌に言った。
「分かってますけど、腹立つだけです」
「それは正常です」
御影が言った。
「腹が立たない方が、おかしい」
敦はモニターの中の段ボールを見た。
何が入っているのか。
誰のところへ向かっているのか。
また誰かが餌にされるのか。
考えるだけで、体が前へ出そうになる。
だが、手元には仮合意書がある。
休む契約。
止まる契約。
自分を使い潰さないための紙。
敦は拳を握り、開いた。
「三上さん」
「はい」
「その配送先、分かったら共有してください」
「もちろんです」
「俺が寝てても?」
三上は一瞬だけ迷い、榊原を見た。
榊原が答える。
「緊急度が高ければ起こします。低ければ、朝に共有します」
「低いって誰が判断するんですか」
「私たちが。あなた一人ではなく」
敦は頷いた。
納得しきったわけではない。
でも、今はそれでいい。
全部を自分の呼び出し音にしない。
さっき決めたばかりだ。
橘が立ち上がる。
「滞在先へ案内します」
「今からですか」
「はい。ここで寝落ちされると、また事務所が住居になります」
「備品化する前に移動ですね」
「そうです」
敦は弁当の残りを見た。
三上がすぐに袋を出す。
「持ち帰り用です」
「三上さん、ほんま優秀」
「食費記録に入れます」
「急に現実」
「大事です」
敦は弁当を袋に入れた。
仮合意書の控えも受け取る。
紙。
弁当。
おにぎり。
スマホ。
聖者の力。
妙な持ち物ばかりだ。
ただし、鏡もレンズも持たない。
あれは御影と祓戸連盟の搬送班が運ぶ。
敦が抱えて帰っていいものではない。
そういう線引きも、たぶん契約の一部なのだろう。
事務室を出る前に、敦は振り返った。
会議室の中には、封印された鏡とレンズが置かれている。
札の線。
コピー機。
モニター。
見慣れないものが、見慣れたものに混じっていた。
この世界で生きるというのは、たぶん、こういうことなのだろう。
危ないものを全部壊すのではない。
危なくない形にして、記録し、封じ、管理し、必要なら次に繋げる。
面倒だ。
とても面倒だ。
だが、誰かを助けるには、その面倒を避けてはいけない。
エレベーターへ向かう途中、烏丸が横に並んだ。
「龍宮寺さん」
「はい」
「止まれたのは、良いことです」
「慰めですか」
「いえ。予知抜きです」
烏丸は薄く笑った。
「止まれない強い人は、だいたい早く壊れます」
「嫌な言い方ですね」
「でも、今日は止まれました」
敦は返事に困った。
結局、袋の中の弁当を持ち直すだけになった。
「腹減ってたんで」
「それも理由としては十分です」
エレベーターの扉が開いた。
エレベーター内の壁面鏡には、黒い布が掛けられていた。
「御影さんの指示で、管理会社に布を掛けてもらいました」
橘が言った。
「霊的な処置ではありません。ただ、今夜は余計な反射面を減らした方がいいので」
「ありがとうございます」
敦はエレベーターに乗った。
布に覆われた壁面鏡。
手に持った弁当。
ポケットの仮合意書。
今日一日で、ずいぶん変なものが増えた。
扉が閉まる。
鏡は映さない。
黒い布の向こうに、何も見えない。
それが、今は少しだけありがたかった。
敦は壁にもたれ、目を閉じた。
頭の奥に、まだ声が残っている。
助けて。
お願いします。
本物なら。
聖者なら。
その全部を、今夜の呼び出し音にはしない。
そう決める。
それでも、春野真白がツナマヨを食べたという一文だけは、胸の中で小さく光っていた。
全部は救えない。
けれど、ひとつだけ少し不幸じゃなくできた。
今夜は、それを抱えて眠る。
契約で決めた通りに。




