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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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11/27

第11話 休む契約

 事務所へ戻った時、時計は二十一時を少し過ぎていた。


 昼から夜までが、やけに長い。


 春野家。


 配信スタジオ。


 割れたレンズ。


 二枚の鏡。


 黒玻璃堂。


 そして、画面の向こうにいる誰か。


 一つ一つは数時間の出来事でしかないはずなのに、敦の体には、向こうで三日ほど戦場を歩いた後のような重さが残っていた。


 ただし、腹はまだ減っている。


 そこだけは、かなり腹立たしいくらい正直だった。


 五階の事務室に入ると、三上がすぐに顔を上げた。


「おかえりなさい。全員無事ですか」


「無事です」


 橘が答える。


「水瀬海斗さんとスタッフ二名は、救急確認の上で事情聴取。配信データは保全。二枚目の鏡とレンズは御影さんが封印済みです」


 御影は封印布に包まれた鏡とレンズを、机の上へ慎重に置いた。


 一枚目の木箱とは離して置く。


 近づけるだけでも、嫌な感じがするらしい。


 敦にも、少し分かった。


 黒いものはもうほとんど漏れていない。


 それでも、二つの包みが同じ机にあるだけで、部屋の空気がほんのわずか重くなる。


「並べない方がいいです」


 御影が言った。


「鏡同士、反射面同士は、意味を持ちます」


「距離を取ればいい?」


 榊原が聞く。


「はい。できれば別室。封印線を挟んでください」


「三上くん」


「準備してます」


 三上はすでに、事務室の奥にある小さな会議室の床へ養生テープで四角を作っていた。


 その上に御影が札を置く。


 普通の事務所に、急に退魔の作法が入り込む。


 蛍光灯。


 コピー機。


 ノートパソコン。


 そこに封印布と札。


 現代と怪異が同じ机に並んでいる。


 敦はその光景を見て、何とも言えない気持ちになった。


 魔物の洞窟より、厄介かもしれない。


 洞窟は、危険な場所だと分かる。


 だが、ここは普通の事務所だ。


 普通の椅子に座り、普通の書類をめくりながら、人を食う鏡の話をする。


 それが妙に怖い。


「連盟の搬送班を呼びます」


 御影が言った。


「この三つは、ここで長く保管しない方がいい。今夜中に大阪支部の封印庫へ移します」


 榊原が頷く。


「特殊事案係は搬送経路と警備を手配します。保管そのものは祓戸連盟側で」


「お願いします」


 御影は短く答えた。


 霊的な封印は御影たちの領分。


 人の目から隠し、車を出し、書類と警備を整えるのは橘たちの領分。


 敦はその分担を見て、少しだけ納得した。


 この世界では、力だけでは足りない。


 だが、力を使わない者にも役割がある。


 それもまた、少しずつ分かってきたことだった。


「龍宮寺さん」


 榊原が声をかけた。


「座って」


「はい」


「食べて」


「はい?」


 会議机の上に、新しい弁当が置かれていた。


 さっきの残りではない。


 新しい。


 しかも大盛りだった。


 敦は思わず三上を見た。


 三上は少し得意そうに言う。


「追加で頼みました」


「三上さん」


「はい」


「あなた、優秀すぎません?」


「仕事です」


「これは仕事以上です」


 烏丸が椅子に座りながら頷いた。


「食べる未来は良いです」


「便利やな、その言い方」


「実際、今食べない未来は悪いです」


 榊原も頷く。


「食べながらでいい。今日の現場対応は、ここで一度終了します」


 敦は弁当の蓋を開けかけた手を止めた。


「黒玻璃堂の倉庫は?」


「今すぐ突入はしません」


「でも、放っといたら」


「放っておかない。けれど、あなたを今すぐ走らせることもしません」


 榊原の声は静かだった。


 強くはない。


 だが、動かない。


 その声に、敦は少しだけ苛立った。


「誰かが、また餌にされるかもしれません」


「その可能性はあります」


「なら」


「だからこそ、準備します」


 榊原は資料を一枚、敦の前に置いた。


 大正区の倉庫。


 黒玻璃堂。


 配送伝票。


 水瀬海斗へのDM。


 古い管理番号。


 並んだ文字は、どれも嫌な重さを持っていた。


「現時点で分かっていることを言います。黒玻璃堂の名義を使った者は、水瀬海斗さんへ二枚目の鏡を貸し出した。連絡には店の公式アカウントを使っている。ただし、そのアカウントの登録情報は偽装されています」


 三上が続ける。


「大正区の倉庫は、短期契約のレンタル倉庫です。契約者は法人名義ですが、実体が薄いです。管理会社には連絡済み。警察側も、危険物確認という名目で周辺を押さえています」


「中は?」


 敦が聞く。


「まだ開けていません」


「何でですか」


「罠の可能性があるからです」


 三上ははっきり言った。


「鏡、レンズと来ています。次がドアノブ、監視カメラ、窓ガラス、床の水たまり、何でもあり得ます。何も知らない警察官や管理会社の人が入れば、被害が出るかもしれません」


 敦は口を閉じた。


 正しい。


 それは分かる。


 分かるが、体が納得しない。


 助けを求める声があるなら、動く。


 危険があるなら、先に入る。


 向こうでは、それで何度も生き残ってきた。


 だが、ここでは違う。


 自分が動いたことで、別の誰かが見落とされるかもしれない。


 烏丸がさっき言った言葉が、まだ耳に残っている。


 助けられるはずの人を見落とします。


 それは、負けるより嫌だった。


 榊原が敦の前に、さらに一枚の紙を置いた。


「これは、正式契約前の仮合意書です」


「もう作ったんですか」


「叩き台よ。正式なものは弁護士を入れる。でも、今夜から必要な最低限は書面にする」


 敦は箸を置いた。


 今度は本当に置いた。


 スマホを取り出して録音を始める。


「録音します」


「榊原美津子、同意します」


「橘怜奈も同意します」


 三上が手を上げる。


「三上悠斗、同意します」


 真壁が壁際から短く言う。


「真壁、同意する」


 御影が少し姿勢を正した。


「御影沙夜、祓戸連盟側の立会人として同意します」


 烏丸も軽く手を上げる。


「烏丸透、連盟協力者として同意します。弁当を少し分けてもらう未来は悪くありません」


「それは後で」


 敦が言うと、烏丸は素直に頷いた。


「後でも悪くありません」


 榊原は紙を指で押さえた。


「まず一つ。特殊事案係は、龍宮寺敦さんに対して、能力使用を命令しない。協力は本人の同意に基づく」


「はい」


「二つ。能力使用の現場記録、報告書、映像、関連資料は、原則として龍宮寺さんにも共有する」


「はい」


「三つ。治癒、浄化、戦闘行為について、無償協力を常態化させない。緊急時を除き、協力費、交通費、滞在費、食費を記録し、支払う」


 敦は少しだけ顔を上げた。


「食費も?」


「あなたの場合、必要経費です」


 三上が小さく頷いた。


「かなり重要な経費です」


「何でそこで真顔なんですか」


「見積もりが必要なので」


 烏丸が口を挟む。


「食費を削る未来は悪いです」


「もうええです、その予知」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、榊原の声はすぐに戻る。


「四つ。休息を協力条件に含めます」


 敦は眉を寄せた。


「休息?」


「あなたは、今日だけで三件の異常案件に対応した。春野家、配信スタジオ、レンズ。さらに治癒と浄化を使っている。こちらが休息を取らせずに次へ行かせるなら、それは協力ではなく消耗です」


「俺はまだ動けます」


「動けるかどうかではありません」


 榊原は敦をまっすぐ見た。


「動ける人を、動けるからといって動かし続ける。それが使い潰すということです」


 敦は黙った。


 何も言い返せなかった。


 向こうでも、似たようなことはあった。


 聖者殿ならできる。


 あなたなら耐えられる。


 あなたしかいない。


 その言葉を重ねられて、気づけば誰よりも前に立たされていた。


 感謝もされた。


 祈られもした。


 だが、休んでいいとはあまり言われなかった。


 敦は紙の文字を見た。


 休息。


 それが契約条件に入っている。


 変な気分だった。


「五つ」


 榊原が続ける。


「龍宮寺さん本人に、受任弁護士をつけます。こちらの顧問弁護士ではなく、あなた側の代理人です。候補を複数提示し、あなたが選ぶ」


「明日ですか」


「可能なら今夜、オンラインで一人だけ顔合わせします。正式面談は明日以降」


「早いですね」


「早くしないと、あなたが善意で次々サインしそうだから」


「そこまで信用ないですか」


「善意に関しては、あまり信用していません」


 榊原は真顔で言った。


「あなたは、助けてと言われると動く人です」


 敦は否定しかけた。


 だが、できなかった。


 実際、動いている。


 梅田で車を止めた。


 倉庫で荷を受けた。


 春野蓮の投稿を見て、春野家へ行った。


 水瀬海斗の配信を止めた。


 全部、自分で選んだ。


 誰かに命令されたわけではない。


 だからこそ危ない。


 橘が端末を操作し、別の画面を大型モニターへ映した。


「龍宮寺さん。見せるか迷いましたが、これは知っておいた方がいいと思います」


「何ですか」


「あなた宛てではありません。ただ、あなたを指している投稿です」


 モニターに、無数の投稿が並んだ。


《梅田の聖者さん、母を助けてください》


《弟が事故で意識不明です。白い光で治せるならお願いします》


《父が亡くなりました。戻せませんか》


《呪われています。来てください》


《うちの子を見てください》


《本物なら証明して》


《治せるなら何で隠れてるんですか》


《助けてくれないなら偽物》


 敦は、画面から目を逸らせなかった。


 文字の一つ一つに、人がいる。


 苦しんでいる人。


 縋っている人。


 怒っている人。


 試している人。


 利用しようとしている人。


 全部が混じっていた。


「これ、全部……」


「全部には応じません」


 橘が言った。


「応じられません。応じたら、あなたも相手も壊れます」


 三上が続ける。


「中には詐欺アカウント、便乗、愉快犯、反社会的勢力らしきものもあります。医療機関に関わるものも多い。勝手に接触すれば、法的にも倫理的にも大きな問題になります」


「でも、本物もある」


 敦は言った。


 声が少し掠れた。


「本当に困ってる人もあるんでしょう」


「あります」


 榊原は否定しなかった。


「だから、窓口を作ります。医療、警察、祓戸連盟、自治体、特殊事案係。必要なところへ振り分ける。あなたが直接全部を見る形にはしません」


「見なかったことにするんですか」


「違います」


 榊原の声が、少し強くなった。


「すべての不幸を、あなたの呼び出し音にしないためです」


 敦の胸に、その言葉が刺さった。


 すべての不幸を、自分の呼び出し音にしない。


 画面には、まだ投稿が流れている。


 助けて。


 お願い。


 本物なら。


 聖者なら。


 神様なら。


 人の声は、遠くても届く。


 届いてしまう。


 だが、届いた声すべてに走れば、敦はたぶん壊れる。


 それだけではない。


 中途半端に手を出したせいで、もっと壊すかもしれない。


 敦はゆっくり息を吐いた。


「俺は、全部は助けられない」


 口に出すと、思ったより重かった。


 御影が静かに頷く。


「誰にもできません」


「でも、助けられるものはある」


「はい」


「なら、選ばなあかん」


「はい」


 敦は画面を見つめた。


 目が痛い。


 黒いレンズに見られた時とは違う痛みだ。


 人の声が、多すぎる。


 榊原が紙を一枚めくる。


「六つ。依頼受付は、当面、特殊事案係と祓戸連盟が一次確認を行う。龍宮寺さんへ直接渡すものは、緊急度、危険度、法的問題を確認した上で絞ります」


「俺が見たいと言ったら?」


「見せます。ただし、一人で抱え込まない形で」


 橘が言う。


「閲覧時間も区切ります。深夜に一人で見ないでください」


「子ども扱いですね」


「自分を責める人ほど、深夜の画面に弱いです」


 橘の声は柔らかくなかった。


 だが、乱暴でもなかった。


 敦は苦笑した。


「経験談ですか」


「仕事柄、よく見ます」


 それ以上、橘は言わなかった。


 敦も聞かなかった。


 榊原が最後の項目を示す。


「七つ。今夜の宿泊場所。ここではありません」


「事務所じゃないんですか」


「仮眠室は緊急用です。長く置くと、あなたは保護対象ではなく備品扱いになります」


「備品」


「冗談ではありません」


 榊原は真顔のままだった。


「住む場所は大事です。鍵がある。寝る場所がある。風呂がある。荷物を置ける。誰かの呼び出しでいつでも起こされる場所ではない。そういう場所を確保します」


 敦は、言葉を失った。


 鍵がある。


 寝る場所がある。


 風呂がある。


 荷物を置ける。


 当たり前のことのはずだった。


 だが、今の敦には、その当たり前がほとんどなかった。


 社員寮は退去寸前。


 所持金は少ない。


 スマホ代も、税金も、保険料も来る。


 魔王を倒した男の足元は、まだぐらぐらだった。


「一時的に、協力者用の短期滞在マンションを使ってもらいます」


 榊原が言った。


「場所は非公開。室内の鏡は外してあります。テレビ、窓、浴室の反射面には簡易処置済み。監視カメラは共有部のみ。室内にはありません」


「そこまで?」


「今日の相手は、反射面を使っています」


「ありがたいです」


 素直に出た。


 榊原は少しだけ頷いた。


「感謝は受け取ります。でも、これは恩ではありません。契約の一部です」


「恩にしたら、首輪になるから?」


「そうです」


 敦は仮合意書を見た。


 紙の上の文字は堅い。


 だが、その堅さが今は少しだけありがたかった。


 感謝。


 善意。


 使命。


 聖者。


 そういう柔らかそうな言葉は、時々、人を縛る。


 契約書の方が、まだましなこともある。


 敦はペンを持った。


「正式契約前の仮合意、ですね」


「はい。納得できないところは、今ここで言ってください」


「休息って、どれくらいですか」


「最低六時間。緊急時を除き、あなたを現場へ出しません」


「緊急時の判断は?」


「私、橘さん、御影さん、烏丸さん。少なくとも二者以上の確認。あなた本人にも確認します」


「俺が行くと言ったら?」


「止める時は止めます」


「強いですね」


「止める契約なので」


 敦は少し笑った。


「分かりました」


 サインした。


 名前を書く。


 龍宮寺敦。


 たった四文字なのに、やけに重い。


 榊原が紙を受け取り、すぐにコピーを取るよう三上へ渡した。


「あなたの控えも渡します」


「はい」


 三上がコピー機へ向かう。


 機械音が、部屋に響いた。


 退魔の札と、コピー機の音。


 本当に変な世界だ。


 その時、橘の端末が震えた。


 全員が一瞬だけ身構える。


 橘は画面を確認し、表情を少し緩めた。


「春野蓮さんからです。真白さんが、少しだけ食べられたそうです」


 敦は顔を上げた。


「ツナマヨ?」


「はい。病院側が許可した範囲で、少しだけ」


 橘は画面を見せた。


 短いメッセージだった。


《真白がツナマヨを少し食べました。まだ眠そうやけど、ちゃんと文句言いました。ありがとうございました》


 敦は、しばらくその画面を見ていた。


 全部は助けられない。


 そう口にしたばかりだった。


 それでも、一人は戻った。


 ツナマヨを食べて、文句を言えるところまで戻った。


 それは、確かにあった。


「よかった」


 敦は小さく言った。


 今度こそ、本当に。


 御影も、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「よかったです」


 烏丸が静かに頷く。


「良い未来です」


「それは、俺でも分かります」


「でしょうね」


 部屋に、少しだけ笑いが戻った。


 だが、三上のパソコンが小さく鳴った。


 短い通知音。


 今度は警告ではない。


 三上が画面を見る。


「大正区の倉庫の件です」


 榊原が顔を戻す。


「何か動きが?」


「管理会社から返信。倉庫は三日前に解約されています。ただ、今日の夕方に、荷物の回収業者を名乗る人物が入った記録があります」


「映像は?」


「防犯カメラがあります。ただし、画質が悪いです」


 三上がモニターへ映像を出す。


 倉庫の入口。


 夕方。


 帽子をかぶった人物が、段ボールを台車へ乗せている。


 顔は見えない。


 性別も分かりにくい。


 ただ、台車の上に積まれた箱の一つに、黒い印が見えた。


 丸。


 縦に一本。


 鏡の紋とは違う。


 レンズでもない。


 だが、何かを示す印。


 御影の顔が固まった。


「その印……」


「知ってますか」


 敦が聞く。


「祓戸連盟では使いません」


「じゃあ」


「黒玻璃堂の古い商品印です」


 榊原が低く言う。


「回収された荷物は?」


 三上が別画面を開く。


「配送先を追っています。少なくとも三つに分かれています。一つは市内。もう一つは府外。最後の一つは、まだ追跡中です」


「今から行かない」


 榊原が先に言った。


 敦は口を閉じた。


 先に言われた。


 烏丸が白い杖を指で撫でる。


「行かない未来の方が良いです」


「分かってます」


 敦は少し不機嫌に言った。


「分かってますけど、腹立つだけです」


「それは正常です」


 御影が言った。


「腹が立たない方が、おかしい」


 敦はモニターの中の段ボールを見た。


 何が入っているのか。


 誰のところへ向かっているのか。


 また誰かが餌にされるのか。


 考えるだけで、体が前へ出そうになる。


 だが、手元には仮合意書がある。


 休む契約。


 止まる契約。


 自分を使い潰さないための紙。


 敦は拳を握り、開いた。


「三上さん」


「はい」


「その配送先、分かったら共有してください」


「もちろんです」


「俺が寝てても?」


 三上は一瞬だけ迷い、榊原を見た。


 榊原が答える。


「緊急度が高ければ起こします。低ければ、朝に共有します」


「低いって誰が判断するんですか」


「私たちが。あなた一人ではなく」


 敦は頷いた。


 納得しきったわけではない。


 でも、今はそれでいい。


 全部を自分の呼び出し音にしない。


 さっき決めたばかりだ。


 橘が立ち上がる。


「滞在先へ案内します」


「今からですか」


「はい。ここで寝落ちされると、また事務所が住居になります」


「備品化する前に移動ですね」


「そうです」


 敦は弁当の残りを見た。


 三上がすぐに袋を出す。


「持ち帰り用です」


「三上さん、ほんま優秀」


「食費記録に入れます」


「急に現実」


「大事です」


 敦は弁当を袋に入れた。


 仮合意書の控えも受け取る。


 紙。


 弁当。


 おにぎり。


 スマホ。


 聖者の力。


 妙な持ち物ばかりだ。


 ただし、鏡もレンズも持たない。


 あれは御影と祓戸連盟の搬送班が運ぶ。


 敦が抱えて帰っていいものではない。


 そういう線引きも、たぶん契約の一部なのだろう。


 事務室を出る前に、敦は振り返った。


 会議室の中には、封印された鏡とレンズが置かれている。


 札の線。


 コピー機。


 モニター。


 見慣れないものが、見慣れたものに混じっていた。


 この世界で生きるというのは、たぶん、こういうことなのだろう。


 危ないものを全部壊すのではない。


 危なくない形にして、記録し、封じ、管理し、必要なら次に繋げる。


 面倒だ。


 とても面倒だ。


 だが、誰かを助けるには、その面倒を避けてはいけない。


 エレベーターへ向かう途中、烏丸が横に並んだ。


「龍宮寺さん」


「はい」


「止まれたのは、良いことです」


「慰めですか」


「いえ。予知抜きです」


 烏丸は薄く笑った。


「止まれない強い人は、だいたい早く壊れます」


「嫌な言い方ですね」


「でも、今日は止まれました」


 敦は返事に困った。


 結局、袋の中の弁当を持ち直すだけになった。


「腹減ってたんで」


「それも理由としては十分です」


 エレベーターの扉が開いた。


 エレベーター内の壁面鏡には、黒い布が掛けられていた。


「御影さんの指示で、管理会社に布を掛けてもらいました」


 橘が言った。


「霊的な処置ではありません。ただ、今夜は余計な反射面を減らした方がいいので」


「ありがとうございます」


 敦はエレベーターに乗った。


 布に覆われた壁面鏡。


 手に持った弁当。


 ポケットの仮合意書。


 今日一日で、ずいぶん変なものが増えた。


 扉が閉まる。


 鏡は映さない。


 黒い布の向こうに、何も見えない。


 それが、今は少しだけありがたかった。


 敦は壁にもたれ、目を閉じた。


 頭の奥に、まだ声が残っている。


 助けて。


 お願いします。


 本物なら。


 聖者なら。


 その全部を、今夜の呼び出し音にはしない。


 そう決める。


 それでも、春野真白がツナマヨを食べたという一文だけは、胸の中で小さく光っていた。


 全部は救えない。


 けれど、ひとつだけ少し不幸じゃなくできた。


 今夜は、それを抱えて眠る。


 契約で決めた通りに。


 

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