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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第2話 日払い聖者

 動画の再生数は、二十分で三百から三千を超えた。


 敦は高架下の暗がりで、スマホ画面を睨んでいた。


《梅田で事故。車を素手で止めた男?》


《いやCGやろ》


《車の壊れ方おかしい》


《手、光ってない?》


《このガタイならワンチャンあるんちゃう》


《あるわけないやろ、人間やぞ》


 コメントは増えていく。


 幸い、動画は雨でかなりぼやけていた。


 敦の顔ははっきり映っていない。


 白い軽ワゴンが突っ込んできて、次の瞬間に止まる。


 その前に、黒い大柄な影が飛び込んでいる。


 見れば見るほど、不自然だった。


「……見れば見るほど俺やな」


 敦はスマホをポケットに突っ込んだ。


 削除依頼など出せるはずがない。


 本人です、と名乗るようなものだ。


 かといって放っておけば広がる。


 だが、今の敦には動画対策より先に、もっと切実な問題があった。


 今日、寝る場所。


 今日、食う飯。


 明日からの金。


 魔王を倒した聖者でも、現代日本で無銭宿泊はできない。


 敦は派遣アプリを開いた。


 さっき届いた仕事案内は、まだ残っていた。


 大阪湾沿いの物流倉庫。


 夜勤。


 荷下ろし、仕分け、検品補助。


 日払い可。


 集合は二十三時。


 時給は悪くない。


 ただし、交通費込み。


「現実やなあ」


 魔王城の玉座で死闘をしたあとに、日払い倉庫作業。


 普通なら笑うところだ。


 だが、敦は笑えなかった。


 仕事があるだけありがたい。


 飯が食える。


 ネットカフェにも入れる。


 スマホ代も落とせる。


 家賃と税金は倒せなくても、逃げ続けるわけにはいかない。


「しゃあない。聖者様、帰還後の初仕事や」


 敦は駅へ向かった。


 改札を抜ける時、少しだけ緊張した。


 ICカードを使えば履歴が残る。


 防犯カメラにも映る。


 今までなら気にもしなかったことが、急に刃物のように見えた。


 異世界では、敵は正面から来た。


 魔族は牙を剥き、魔物は爪を振るい、呪術師は呪文を唱えた。


 だが、現代の敵は違う。


 カメラ。


 履歴。


 通信。


 契約。


 同意書。


 規約。


 どれも一見、牙を持っていない。


 けれど、噛まれた時にはもう遅い。


「ほんま、ややこしい世界に帰ってきたな」


 敦は小さく呟いた。


 電車に揺られながら、窓に映る自分を見る。


 短く刈った黒髪。


 広い肩。


 分厚い胸板。


 太い腕。


 どう見ても目立つ。


 隠れて生きるには、体が向いていない。


 しかも、さっき車を止めた。


 人を助けた。


 間違ったことはしていない。


 だが、正しいことをしたから安全とは限らない。


 それもまた、異世界で嫌というほど学んだ。


 魔王軍に襲われた村を救ったら、王国の貴族に目をつけられた。


 呪いを解いたら、教会に囲い込まれかけた。


 飢えた民に食料を配ったら、商人ギルドに敵視された。


 助ける力は、便利な道具として見られる。


 それを拒めば、危険な存在として見られる。


 感謝はされる。


 だが、感謝だけで終わるとは限らない。


 敦は窓から視線を外した。


「今度は、最初から考えて動かなあかんな」


 大阪湾沿いの物流倉庫は、夜でも明るかった。


 大型トラックが何台も並び、フォークリフトの警告音が響き、雨に濡れたアスファルトに白い照明が反射している。


 敦は集合場所のプレハブへ向かった。


 中には、同じ派遣らしい男女が十数人いた。


 学生。


 中年の男。


 外国人労働者らしき若者。


 目の下に疲れを溜めた主婦。


 誰もが、それぞれの事情を抱えて夜勤に来ている顔だった。


 敦は受付で名前を書いた。


「龍宮寺敦さんやね。今日初めて?」


 現場責任者らしい男が、名簿を見ながら言った。


 四十代後半。


 少し腹が出ているが、目は鋭い。


 名札には大田とある。


「はい。よろしくお願いします」


「えらい体してんなあ。格闘技でもやってたん?」


「昔、ちょっとだけです」


 嘘ではない。


 魔王軍相手の格闘を、格闘技と呼んでいいなら。


 大田は笑った。


「無理せんといてや。ここ、力自慢ほど腰いわすから」


「気をつけます」


 本当に気をつけなければならない。


 腰ではなく、力加減のほうを。


 作業は単純だった。


 トラックから降ろされた段ボールを台車へ積む。


 行き先ごとに分ける。


 バーコードを読み取る。


 指定の棚へ運ぶ。


 異世界での補給線作りに比べれば、恐ろしく整っている。


 荷にはラベルがあり、棚には番号があり、台車には車輪がある。


 怒鳴る騎士もいない。


 奪いに来る魔物もいない。


 腐った干し肉の臭いもしない。


 その代わり、すべてが時間に追われていた。


「龍宮寺さん、これ五番レーン!」


「はい」


「それ終わったら次、飲料のほう頼むわ!」


「分かりました」


 敦は、慎重に動いた。


 段ボールを持つ時は、わざと膝を使う。


 片手で持てる重さでも、両手で抱える。


 台車を押す時も、普通の速度に合わせる。


 鉄の扉を開ける時は、力を入れすぎない。


 人間のふりをする。


 それが、こんなに疲れるとは思わなかった。


 魔王と戦った時より、精神を使っている気がする。


 休憩時間、敦は自販機横のベンチに座った。


 缶コーヒーを買う余裕はない。


 水で十分だ。


 スマホを見る。


 動画は、もう五万再生を超えていた。


「早すぎるやろ……」


 コメントも増えている。


《梅田のガチムチ兄貴、何者》


《親子助けてるやん。ええ人やん》


《運転手も助けてへん?》


《光ってるのガチならヤバい》


《聖者かよ》


《ガチムチ聖者爆誕》


 敦はそこで画面を閉じた。


「誰がガチムチ聖者や」


 間違ってはいない。


 間違ってはいないが、納得はしたくなかった。


「兄ちゃん、さっきの動画見てんの?」


 隣から声がした。


 敦は顔を上げた。


 作業着姿の年配男が、缶コーヒー片手に立っていた。


 白髪混じりの髪。


 顔には深い皺。


 だが、目は妙に優しい。


「いや、ちょっと」


「今みんな見とるで。梅田で車止めた男やろ。世の中、わけ分からんことあるなあ」


「そうですね」


「でも、あの人はえらいわ。普通、車突っ込んできたら逃げるで」


 敦は返事に困った。


 男はベンチの端に腰を下ろした。


「わし、佐伯。ここ長いねん。兄ちゃんは?」


「龍宮寺です」


「龍宮寺。強そうな名前やな」


「名前だけです」


「体も強そうやけどな」


 佐伯は笑った。


 敦も曖昧に笑った。


 こういう何気ない会話が、妙に胸に刺さった。


 異世界では、敦はずっと役目を背負っていた。


 聖者。


 救い手。


 魔王を倒す者。


 誰もが敦に何かを求めた。


 現代に戻ってきて、初めてただの派遣労働者として名前を聞かれた。


 それが、少しだけありがたかった。


 休憩が終わり、作業に戻る。


 深夜一時を過ぎた頃、倉庫内の空気が少し荒れ始めた。


 人は眠くなる。


 注意力が落ちる。


 時間に追われる。


 そうなると、事故が起きる。


 敦は何となく嫌な気配を感じていた。


 魔力ではない。


 殺気でもない。


 ただ、物の置き方、人の動線、焦った声、濡れた床、フォークリフトの角度。


 そういう細かいものが、頭の中で一つの形になっていく。


 異世界の戦場で身についた感覚だった。


「そこ、通らんほうがええ」


 敦は近くを通りかかった若い作業員に声をかけた。


「え?」


「その棚、荷が寄ってる」


 若い作業員は棚を見た。


「いや、大丈夫っすよ」


「大丈夫ちゃう。右上、浮いてる」


「でも急ぎなんで」


 若い作業員が進もうとした。


 その瞬間、フォークリフトの警告音が鋭く鳴った。


 別の通路から出てきたリフトが、濡れた床でわずかに滑る。


 爪の先が、棚の支柱に当たった。


 鈍い音。


 次に、金属の軋む音。


 敦の目が細くなる。


 棚が傾いた。


 上段に積まれていた重い箱が、まとめて落ちる。


 真下には、さっきの若い作業員。


 逃げるには遅い。


「伏せろ!」


 敦は叫んだ。


 同時に走った。


 人の目を気にする余裕はなかった。


 若い作業員の襟首を掴み、後ろへ放る。


 加減はした。


 だが、男の体は軽々と床を滑り、通路の外へ転がった。


 次の瞬間、崩れた荷が敦の上へ降ってきた。


 重さは数百キロ。


 普通なら潰れる。


 敦は両腕を上げた。


 闘気を通す。


 ただし、光らせない。


 筋肉の奥に熱を閉じ込め、骨と腱だけを強化する。


 箱が腕に当たった。


 衝撃が走る。


 だが、敦は沈まなかった。


 落ちてきた荷を受け止める。


 完全に止めるのではなく、少しずつ横へ流す。


 正面から受ければ不自然すぎる。


 潰されず、押し流されたように見せる。


 床に段ボールが崩れ落ち、粉塵が舞った。


 倉庫内が静まり返った。


「おい! 大丈夫か!」


 大田の怒鳴り声が響いた。


 敦は段ボールの山から体を起こした。


 服に埃がついている。


 腕は痛くない。


 怪我もない。


 まずい。


 怪我がなさすぎる。


 敦は慌てて、左腕を押さえた。


「痛っ……」


 わざと少し顔を歪める。


 佐伯が駆け寄ってきた。


「龍宮寺! お前、挟まれたんか!」


「ちょっと当たりました。でも、大丈夫です」


「大丈夫なわけあるか! 今、上から全部いったやろ!」


 若い作業員は、床に座り込んだまま震えていた。


 顔は真っ青。


 だが、怪我はなさそうだ。


 敦はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「立てるか?」


「は、はい……すんません……俺……」


「謝るんはあとでええ。まず怪我確認せえ」


 大田が現場を止めた。


 リフトの運転手も震えている。


 棚は曲がり、段ボールは潰れ、床には中身が散らばっていた。


 ただ、死者も重傷者もいない。


 それがすべてだった。


 救急車を呼ぶかどうかで現場が騒ぐ中、敦は壁際に下がった。


 左腕を押さえたまま、周囲の視線を避ける。


 佐伯が近づいてきた。


「兄ちゃん」


「はい」


「ほんまに大丈夫か?」


「大丈夫です。たぶん打撲くらいで」


「打撲で済む落ち方ちゃうかったぞ」


 佐伯の声は低かった。


 責めているのではない。


 心配している。


 だが、その心配の奥に、疑いが混ざっていた。


 敦は何も言えなかった。


 佐伯は一度、崩れた棚を見た。


 それから敦の腕を見た。


「まあ、ええ。今は黙っといたる。でもな」


「……はい」


「あんまり無茶すんな。助けられた側は感謝するけど、見てる側は怖なる時もある」


 敦は、ゆっくり佐伯を見た。


 この男は、気づいている。


 全部ではない。


 だが、何かがおかしいとは分かっている。


 佐伯は、声を少し落とした。


「人助けは立派や。そこは間違いない。けどな、人間は、よう分からんもんを見た時、感謝より先に怖がることがある。兄ちゃんがええ奴かどうかとは、別の話や」


 敦の胸に、その言葉が沈んだ。


 異世界でも同じだった。


 救われた人は泣いて感謝した。


 だが、周りで見ていた人間は、時々、敦を見る目を変えた。


 あれは人なのか。


 あれは味方なのか。


 あれは、いつか自分たちにも向くのではないか。


 助けたはずなのに、距離ができる。


 その痛みを、敦は知っていた。


「覚えとき。人助けも、やり方間違えたら、人を遠ざける」


 佐伯はそう言って、缶コーヒーを敦の足元に置いた。


「飲め。奢りや」


「……ありがとうございます」


「礼はええ。顔色悪いで。いや、顔色悪いふりかもしれんけどな」


 佐伯は苦笑して去っていった。


 敦は缶コーヒーを拾った。


 温かかった。


 たった百数十円の缶コーヒー。


 それなのに、異世界で王から渡された宝石より、よほど重く感じた。


 作業は一時中断になった。


 現場確認と片付けで、予定より早く上がることになった。


 日払いの手続きは、朝方になってようやく終わった。


 九千六百円。


 交通費を引けば、もう少し少ない。


 それでも、今日を生きる金だった。


 敦は倉庫を出た。


 雨は上がっていた。


 空はまだ暗い。


 東の端が、少しだけ灰色になっている。


 スマホが震えた。


 敦は嫌な予感とともに画面を開いた。


 梅田の動画は、三十万再生を超えていた。


 そして、コメント欄の流れが変わっていた。


《これ南港の倉庫におる派遣の人に似てない?》


《さっき現場で棚崩れ助けた奴ちゃうん》


《ガタイ同じやん》


《梅田の人、また人助けしてて草》


《いや怖いって。何者やねん》


 敦の指が止まった。


 倉庫の中で、誰かが見ていた。


 撮っていたのか。


 それとも、ただ書き込んだだけか。


 分からない。


 だが、点と点が繋がり始めている。


 梅田の事故。


 南港の倉庫。


 大柄な男。


 関西弁。


 人を助ける。


 怪我をしない。


 このままいけば、名前に届く。


 派遣会社。


 勤務記録。


 防犯カメラ。


 交通履歴。


 現代の追跡網は、魔王軍の斥候よりずっと細かい。


「……早いな」


 敦はスマホを握りしめた。


 異世界で、魔王軍が村を焼く時より早い。


 人の好奇心は、炎より広がる。


 その時、倉庫の駐車場の向こうで、黒い車のヘッドライトが点いた。


 ただの迎えかもしれない。


 ただの関係者かもしれない。


 だが、車の横に立つスーツ姿の女が、敦のほうを見ていた。


 傘は差していない。


 雨上がりの湿った空気の中で、女はまっすぐこちらを見ている。


 敦は動かなかった。


 女も動かなかった。


 数秒。


 それだけで十分だった。


 探されている。


 そう分かった。


 敦はゆっくり息を吐いた。


 逃げるか。


 話すか。


 殴るわけにはいかない。


 治す相手でもない。


 魔王なら、まだ簡単だった。


 敦はスマホをポケットに入れた。


「ほんま、帰ってきたばっかりやぞ」


 朝の倉庫街に、トラックのエンジン音が低く響いている。


 魔王を倒した聖者の現代生活は、日払い一日目にして、もう静かではいられなくなっていた。


 

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