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『魔王を倒したガチムチ聖者、召喚された日に戻される 〜リストラ帰りの三十歳、能力そのままで現代を生き直す〜』  作者: あちゅ和尚


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第1話 戻された日

 龍宮寺敦は、雨の匂いで目を覚ました。


 濡れたアスファルト。


 高架を走る電車の音。


 コンビニの揚げ物と、排気ガスと、湿った人混みの匂い。


 大阪、梅田の外れ。


 駅から少し離れた高架下。


 そこに、敦は立っていた。


 右手にはスマートフォン。


 左手には、安物のビニール傘。


 画面には、二〇二六年六月十二日、午後八時十九分。


 敦は、しばらくその数字を見つめた。


「……戻ったんか」


 声が掠れていた。


 喉の奥に、まだ血の味が残っている気がした。


 黒く、熱く、鉄のような味。


 魔王の血。


 いや、違う。


 あれはもう終わった。


 終わらせた。


 魔王城の玉座。


 砕けた聖剣。


 焼け落ちた天井。


 逃がした仲間たち。


 そして、たった一人で向き合った黒い王。


 三日三晩、殺し合った。


 最後に立っていたのは、勇者ではなかった。


 聖女でも、剣聖でも、賢者でもなかった。


 龍宮寺敦。


 三十歳。


 リストラに遭い、会社の寮も追い出されかけ、日雇いとネットカフェでその日をつなぐしかなかった男。


 百八十八センチの大柄な体。


 分厚い胸板。


 太い腕。


 昔から筋トレだけは続けていたせいで、会社では重い物を運ぶ時だけ便利に呼ばれた。


 けれど、部署が潰れた時には、真っ先に切られた。


 親はいない。


 兄弟もいない。


 頼れる親戚もいない。


 天涯孤独。


 そう言えば聞こえはまだましだが、要するに、倒れても誰も気づかない人間だった。


 その敦が、あの日、勇者召喚に巻き込まれた。


 高校生たちが光に包まれ、ついでのように敦も異世界へ落とされた。


 そして、勇者たちとは別に、白い部屋へ呼ばれた。


 そこにいた神を名乗る存在は、笑いもせずに言った。


『勇者では魔王を倒せない』


 ふざけるな、と思った。


 なら召喚するな。


 そう言いたかった。


 だが、神は続けた。


『だから、お前がやれ』


 その代わり、力を与えると。


 聖者の力。


 無詠唱。


 アイテムボックス。


 闘気を用いた体術。


 聞いた時は、適当なゲーム設定を渡されたようにしか思えなかった。


 だが、その力は本物だった。


 毒を祓った。


 呪いを砕いた。


 千切れかけた腕をつなぎ、死にかけた兵を立たせた。


 詠唱なしで魔術を放ち、アイテムボックスから武器と薬を取り出し、闘気で肉体を鋼のように変えた。


 気づけば、敦はこう呼ばれていた。


 祈るより殴るほうが早い聖者。


 まったくもって、ありがたみのない二つ名だった。


 そして、魔王を倒した。


 その褒美として、召喚された日に戻された。


 力はそのまま。


 時間もそのまま。


 現代側では、一秒も進んでいない。


 敦はスマホの画面を消した。


「褒美、ねえ」


 笑いは出なかった。


 帰ってきた。


 それはいい。


 だが、戻された先は、豪邸でも別荘でもない。


 リストラされた日の夜。


 寮を出る期限が迫り、財布には六千二百円。


 銀行残高は二万円を少し切っている。


 国保も住民税も、待ってはくれない。


 魔王は倒せた。


 だが、家賃と税金は倒れてくれないらしい。


「神様よ。そこはもうちょい何とかしてくれてもよかったやろ」


 敦は高架下の壁にもたれた。


 雨が傘を叩く。


 目の前を、仕事帰りの会社員や学生が通り過ぎていく。


 誰も敦を見ない。


 誰も、彼が異世界で魔王を倒してきたとは知らない。


 当たり前だ。


 知っていたら困る。


 敦は右手を軽く握った。


 体の奥に、熱が灯る。


 闘気。


 まだある。


 ほんの少しだけ流す。


 筋肉の奥が、静かに震えた。


 力を入れれば、目の前のコンクリート壁を砕ける。


 もっと込めれば、高架の柱すらへし折れるかもしれない。


「……あかんあかん」


 敦は慌てて力を引っ込めた。


 ここは魔王城ではない。


 大阪の街中だ。


 壊したら、魔族ではなく警察が来る。


 次に、頭の中で黒い空間を思い浮かべた。


 アイテムボックス。


 見えない棚が、意識の奥で開く。


 中には、異世界で使っていた物がそのまま残っていた。


 聖銀の短剣。


 回復薬。


 解毒薬。


 保存食。


 魔石。


 金貨。


 魔王軍幹部から奪った指輪。


 そして、魔王の折れた角。


 敦は無言で目を閉じた。


「持って帰らせるなや、そんなもん」


 現代日本で、魔王の角。


 売れるわけがない。


 売れたとしても、説明できない。


 金貨も同じだ。


 金として換金できるかもしれないが、出どころを聞かれたら終わる。


 聖銀の短剣など、持ち歩いているだけで銃刀法の世話になる。


 便利な力を持って帰ったはずなのに、使い道を間違えれば一瞬で人生が終わる。


 敦は深く息を吐いた。


「まず寝床やな」


 今日泊まる場所。


 明日の飯。


 仕事。


 金。


 身分証はある。


 口座もある。


 スマホも使える。


 だが、生活基盤は崩れかけている。


 異世界で魔王を倒した経験など、履歴書には書けない。


 聖者です。


 魔王討伐経験ありです。


 回復できます。


 殴れます。


 そんなものを書いたら、採用どころか病院を勧められる。


「日雇い、まだ入れるか……?」


 敦は派遣アプリを開こうとした。


 その時だった。


 道路の向こうで、短い悲鳴が上がった。


 敦の目が、反射で動いた。


 横断歩道。


 信号は青。


 母親らしき女が、小さな男の子の手を引いて渡っている。


 そこへ、白い軽ワゴンが突っ込んできていた。


 速度はそこまで出ていない。


 だが、雨で路面が濡れている。


 運転席の男は、ハンドルに覆いかぶさるように前のめりになっていた。


 意識がない。


 母親が気づいた。


 顔が恐怖で固まる。


 子どもの手を引く。


 間に合わない。


 敦は、もう動いていた。


 一歩。


 アスファルトを蹴る。


 二歩。


 雨粒が遅く見える。


 三歩。


 敦の体は、人の目では追えない速度で横断歩道へ飛び込んだ。


 左腕で男の子を抱え込む。


 右手で母親の肩を押し、車の進路から外す。


 軽ワゴンのバンパーが、敦の脇腹へ迫った。


 避けられる。


 簡単に避けられる。


 だが、避ければ車は歩道へ乗り上げる。


 後ろには、信号待ちの人間がいる。


 敦は短く息を吐いた。


「硬化」


 呟く必要はなかった。


 けれど、異世界で染みついた癖が出た。


 闘気が肉体を覆う。


 次の瞬間、衝突音が響いた。


 金属が潰れる音。


 ガラスがひび割れる音。


 周囲の人間が息を呑む音。


 軽ワゴンは、敦にぶつかって止まった。


 敦は一歩も下がっていなかった。


 腕の中で、男の子が泣き出した。


 それを聞いて、敦は少しだけ安心した。


「大丈夫や。泣けるなら生きてる」


 敦は子どもを母親に渡した。


 母親は膝から崩れ落ちるようにして、子どもを抱きしめた。


「あ、ありがとう……ございます……!」


「立てるか?」


「は、はい……でも、この子が……!」


 男の子は右腕を押さえて泣いていた。


 肩だ。


 強く引かれた時に、関節が少しずれている。


 敦には分かった。


 異世界で、何百人もの怪我人を見てきた。


 骨折。


 脱臼。


 裂傷。


 呪い。


 毒。


 死にかけの人間の呼吸。


 嫌というほど見てきた。


 敦は周囲を見た。


 人が集まり始めている。


 スマホを向けている者もいる。


 まずい。


 ものすごくまずい。


 軽ワゴンと人間がぶつかって、潰れたのは車のほう。


 それだけでも十分おかしい。


 このうえ治癒まで見せれば、完全に終わる。


 だが、男の子は痛みに顔を歪めている。


 母親は震えている。


 運転手はまだ動かない。


 敦は奥歯を噛んだ。


「ほんま、こういうとこやぞ、神様」


 見捨てれば隠せる。


 助ければ目立つ。


 それでも、選択肢はなかった。


 敦は男の子の腕に触れた。


「坊主、ちょっとだけ我慢や。すぐ終わる」


「いたい……」


「せやな。痛いな。でも、もう大丈夫や」


 聖者の力を、細く、薄く流す。


 本来なら、千切れた腕でもつなげる力だ。


 今は、関節を正しい位置へ戻し、傷んだ筋をなだめるだけでいい。


 白い光が、指先から漏れた。


「あ……」


 母親が息を呑んだ。


 敦は内心で舌打ちした。


 抑えたつもりだった。


 だが、夜の雨の中では、淡い光でも目立ちすぎる。


 男の子の泣き声が止まった。


「……いたくない」


「そらよかった」


 敦は立ち上がった。


 周囲がざわついている。


「今、光ったよな?」


「車、止めた?」


「え、何あれ」


「動画撮った?」


 あかん。


 完全にあかん流れや。


 だが、まだ終わっていない。


 敦は軽ワゴンの運転席へ近づいた。


 運転手の中年男は、ハンドルにもたれて意識を失っている。


 窓の隙間から手を入れ、ドアを開けようとする。


 歪んで開かない。


 敦は周囲に聞こえないほど小さく息を吐いた。


 指先に闘気を込める。


 ドアの金具が、飴細工のように曲がった。


 敦は運転手を支え、シートベルトを外す。


 胸に手を当てた。


 脈が乱れている。


 呼吸も浅い。


 酒の臭いはしない。


 おそらく、急な発作。


「心臓か」


 救急車を待てば、間に合うかもしれない。


 間に合わないかもしれない。


 その差を、敦は知っている。


 異世界の戦場では、その迷いで何人も死んだ。


 敦は男の胸に手を置いた。


「悪いな。俺はもう、見捨てて楽になるやり方を覚えられへん」


 聖者の力を流す。


 今度は、光を完全には隠せなかった。


 白い輝きが雨の中に広がる。


 中年男の喉が鳴った。


 止まりかけていた呼吸が戻る。


 乱れていた脈が、少しずつ整っていく。


 周囲から、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がった。


 敦は手を離した。


「救急車呼んでください。心臓やってるかもしれません。あと警察も」


 誰かが慌ててスマホを耳に当てた。


 別の誰かが、敦に近づこうとした。


「あの、あなた、怪我は……」


「俺は大丈夫です」


「いや、でも車に……」


「大丈夫です」


 敦はそれ以上話さなかった。


 名前を聞かれる。


 連絡先を聞かれる。


 動画を撮られる。


 警察が来る。


 救急隊が来る。


 病院が来る。


 テレビが来る。


 その先には、もっと面倒なものが来る。


 異世界では、力を見せれば魔族が来た。


 現代では、力を見せればカメラと契約書と法律が来る。


 どちらが厄介か、まだ判断はつかない。


 敦は傘を拾い、高架下の暗がりへ歩き出した。


 走らない。


 走れば目立つ。


 ただ歩く。


 それでも、普通の人間よりずっと速い。


 背後で母親の声がした。


「あの! お名前だけでも!」


 敦は振り返らなかった。


 感謝されるのは、嫌いではない。


 だが今は、受け取れない。


 敦は駅から離れ、細い路地へ入った。


 人通りが切れたところで、ようやく足を止める。


 雨に濡れた髪をかき上げた。


「初日からこれか」


 低く笑った。


 魔王を倒した男が、現代では防犯カメラに怯えている。


 笑うしかない。


 けれど、笑っている場合でもない。


 敦はスマホを開いた。


 SNSで検索する。


 梅田。


 事故。


 車。


 光。


 まだ大きな投稿は出ていない。


 だが、時間の問題だ。


 あの場には、スマホを向けていた人間が何人もいた。


 動画は必ず上がる。


 削除されても、誰かが保存する。


 誰かが拡散する。


 誰かが面白がる。


 誰かが調べる。


 そして、いつか敦にたどり着く。


「さて、どうする」


 まず、寝床。


 次に、金。


 それから、生活の立て直し。


 力を隠して生きるなら、隠すための場所がいる。


 力を使って生きるなら、使い方を選ばなければならない。


 治癒で金を稼ぐ?


 危険すぎる。


 闘気で格闘家?


 相手を壊す。


 アイテムボックスで運送?


 便利だが、説明できない。


 魔石や金貨を売る?


 出どころを聞かれる。


「ほんま、魔王倒すより面倒くさいんちゃうか」


 敦はスマホを握りしめた。


 その時、通知が鳴った。


 SNSのトレンドではない。


 ニュースアプリでもない。


 派遣会社からの仕事案内だった。


 倉庫内作業。


 夜勤。


 日払い可。


 集合は二十三時。


 敦はしばらく画面を見つめた。


 魔王を倒した力を持ったまま、日払いの倉庫作業。


 あまりにも馬鹿馬鹿しい。


 だが、現実とはそういうものだ。


 力があっても、今日の寝床は勝手に生えてこない。


 腹も減る。


 税金も来る。


 スマホ代も落ちる。


 敦は小さく笑った。


「しゃあない。まずは働くか」


 その時、画面の上部に別の通知が出た。


 知らない誰かの投稿。


 位置情報つき。


 梅田駅近く。


 動画つき。


 文面は短かった。


《車を素手で止めた男、ガチで何者?》


 敦の親指が止まった。


 再生数は、まだ三百にも届いていない。


 動画はぶれている。


 雨で画面も荒い。


 顔もはっきりとは映っていない。


 だが、白い軽ワゴンが敦にぶつかって止まる瞬間は、確かに映っていた。


 そのあと、敦の指先から漏れた白い光も。


 敦は画面を消した。


 胸の奥で、異世界の戦場とは違う緊張が広がっていく。


 これは剣では斬れない。


 拳では殴れない。


 魔王より弱い。


 だが、魔王より広がる。


 火種。


 そういうものは、小さいうちほど消しにくい。


 敦は雨の夜道を見た。


 魔王を倒して終わったはずの人生が、もう一度、音もなく動き出している。


「……神様よ」


 敦は誰にも聞こえない声で呟いた。


「これ、ほんまに褒美なんか?」


 返事はない。


 ただ、スマホの向こうで、動画の再生数だけが静かに増えていた。


 

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