2-3-9 危うい二股外交
その夜、豪華な絹のカーテンに囲まれたルルヴィナ王の個室には、落ち着きのない空気が漂っていた。
王は玉座に座っていたときの傲慢な態度とは裏腹に、何かを心待ちにしている様子で、部屋をせわしなく歩き回っている。
「まだか……?」
低く漏れた声には、苛立ちと不安が入り混じっていた。
額には汗がにじみ、王は何度も懐中時計を取り出しては時刻を確かめる。その手は自覚できないほど不自然に震えている。
彼が何を、あるいは誰を待っているのかは、部屋に仕える者ですら知らされていない。
だが、その顔に浮かぶ異様な焦りだけは、隠しようがなかった。
突然、壁にかけられた魔法モニターが鈍い音を立て、着信を告げる淡い光を放った。
「来た!」
王は弾かれたように身を翻し、モニターへと飛びつく。
震える指先で魔力を注ぎ込み、応答の術式を起動させた。
画面に映し出されたのは、帝国の魔法最高顧問──ロキスヴェイン。
冷淡な表情の奥に鋭い知性を宿した瞳が、まるで見下ろすように王を射抜いている。
「お待ちしておりました、顧問殿」
王は即座に媚びへつらう笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。その姿は、玉座にあった威厳の名残すら感じさせない。
「同盟を持ちかけてきたか」
ロキスヴェインは静かに問いかける。
低く抑えた声には、人の心の奥底を測るような威圧感があった。
「は、はい」
王は慌てて頷く。
「あなたのご指示通りに交渉を進めました。
彼女らの一人をハーレムに差し出す条件を提示したところ、見事に受け入れさせることができました」
ロキスヴェインの表情は微動だにしない。
冷静なまなざしのまま、さらに問いを重ねる。
「それで、相手の反応は?」
「女王代理は激昂しましたが……」
王は一瞬言葉を選ぶように間を置き、
「レイラという娘が、その条件を呑みました。
あの国の女王候補ともあろう者が、たかが交渉であっさりと同盟を結ぼうとするとは……」
含み笑いを浮かべながら続ける。
「おかげで、話は非常にスムーズに進みました」
ロキスヴェインは、どこか満足げに口元を歪めた。
まるで舞台の上で、役者たちの動きが予定通りに収束していくのを、客席から眺めている観客のように。
「論理で来る者ほど、感情の罠に弱い」
その言葉に、ルルヴィナ王は一瞬だけ息を詰めた。
喉がひくりと鳴り、次の言葉を選ぶように視線が泳ぐ。
「……娘の方は、どうしますか?」
レイラの名を出すことすら躊躇うような口ぶりだった。
さすがに、このまま事を進めるのは危うい──
王の表情には、計算とともに拭いきれない小さな不安が滲んでいる。
だが、ロキスヴェインは一瞥すらくれなかった。
「好きにしろ。
それについては、どうでもいい」
あまりに即物的な言葉に、ルルヴィナ王は言葉を失った。
一瞬、笑っていいのか、頷くべきなのか判断できず、口を開けたまま固まる。
「ど……どうでも、いい……と申されましても……」
王の声は、思わず上ずった。
条件として提示した以上、扱いを誤れば交渉そのものが破綻しかねない。
何より、あの場で相手の感情を逆撫でしすぎたのではないか──その不安が、じわじわと胸を締めつけていた。
「このままでは、後で何を仕掛けてくるか……」
その必死さをよそに、ロキスヴェインは淡々と答える。
「問題ない。そのまま同盟を締結しろ」
短く、迷いのない命令だった。
ルルヴィナ王は、わずかに唇を噛みしめたあと、深く頭を下げる。
背中を丸め、王冠の重みを忘れたかのように。
「……承知しました。
すべて、顧問殿のお考えのままに」
恭しく頭を下げるその姿は、従順な臣下そのものだった。
少なくとも、見た目だけは。
「だが、忘れるな。
こちらが軍事支援を提供するのは、貴国が我々にとって“都合のいい立場”にいる限りだ。
我々と通じていると悟られぬよう、慎重に動け」
「心得ております、顧問殿。帝国のご意向には逆らいません」
王は汗を拭いながら、何度も頷いた。
彼にとって、ルルヴィナ王国を守ること以上に、帝国の後ろ盾を得ることこそが最優先事項だった。
「軍事支援は確約する」
ロキスヴェインの声は、氷のように冷たい。
「だが、それを得るためには、我々の計画を一切漏らすな。
そして──」
言葉が途切れた瞬間、王は思わず喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
「ルルヴィナが我々の手駒であり続けること。
それを、決して忘れるな」
通信が途絶えると同時に、モニターは暗転し、部屋には重い静寂が戻った。
だが、それは安らぎとはほど遠く、王の胸にじわじわとのしかかってくる。
「ふん……帝国の奴らも、自分たちだけが得をしようなどと思うなよ」
王はモニターを睨みつけるように見つめ、薄く笑った。
彼は南の王国と北の帝国、その双方から最大限の利益を引き出すつもりでいる。
サーラたちとの交渉を進めつつ、裏では帝国から軍事支援を取り付け、同盟を有利に運ぶ。
二股外交。
危険で、しかし甘美な賭けだ。
「ぐふふ……私は賢い王だ。誰も、この手の内など読めはしない」
満足げに呟き、王は再び椅子に腰を下ろした。
そのとき、背後の窓から吹き込んだ一陣の風が、彼の肩を撫でる。
それはひどく冷たく、まるでこれから訪れる不運の前触れのようだった。
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