2-2-21 無垢な亡命
ナディア・ヴァルシオンは、王都郊外にある教団施設の裏手に身を潜めていた。
「ここが、ライザの足取りが途絶えた場所……」
夜の帳が降りきった敷地は静まり返り、巡回の気配すら感じられない。彼女は息を殺し、風に紛れるように影へと溶け込んだ。足運びは音もなく、警戒区域を抜ける動きに一切の迷いはない。熟練の工作員としての技量が、そのまま身体に刻み込まれていた。
やがて、誰にも気づかれることなく中庭へと辿り着く。
ナディアは、直感的にここに答えがあると確信していた。夜明けまで待てば、必ず何かが見える。そう踏んでいた。
そして、朝。
彼女の予想は裏切られた。
だが、それは想像を遥かに超える形だった。
施設の庭では、ライザが変装もせず、無防備な姿で子供たちと遊んでいた。
いつもの冷酷で計算高い諜報員の面影はなく、柔らかな笑みを浮かべ、無邪気な声に応じている。小さな子供たちが彼女に抱きつき、笑い声が庭に弾ける。その光景に、ナディアは思わず足を止めた。
──まるで、別人だ。
さらに視線を巡らせて、息を呑む。
ライザより先に消息を絶ったヴァシリーが、施設の隅で若い修道士たちと談笑していたのだ。警戒心もなく、肩の力を抜いたその姿は、捕虜というより住人に近い。
二人は、すでにこの国で新たな居場所を見つけているようだった。
ライザが一人になる瞬間を見計らい、ナディアは静かに距離を詰めた。
「ライザ──」
その声に、ライザは一瞬だけ周囲の目を確認してから振り向いた。
そして、わずかに驚いたような素振りを挟みつつ、すぐに柔らかな笑みを作る。
「ナディア。やっぱり来たのね」
声音に緊張はなく、意図的に抑えられている。
それは追手と向き合う態度ではなく、偶然旧友に再会したかのように装った口調だった。
ナディアは冷ややかな視線で彼女を見据える。
「何をしている?」
ライザは軽く肩をすくめる。「見たままよ。私はこの国に亡命した」
あまりにもあっさりとした言葉に、ナディアの眉が寄る。
「亡命……?ふざけているのか。君は帝国の諜報員だろう」
しばし沈黙が落ちる。
ライザはナディアをじっと見つめ、やがて静かに首を振った。
「私はもう帝国には戻らない。あそこに、私の居場所はないもの。家族も……何もね」
淡々とした声だったが、その一言一言は重く、確かな覚悟を帯びていた。
冗談でも虚勢でもない。その瞳が、そう語っている。
「なぜ、こんな場所で子供たちと?」
問いを重ねるナディアに、ライザは少し困ったように微笑む。
「ここにいると、自分が誰なのかを考えなくて済むのよ」
彼女は庭の方へ一瞬だけ視線を向けた。
「ただ、誰かを守って、笑っていられる。それで十分」
ナディアは、しばらく言葉を失っていた。
亡命という選択の重さに圧されたわけではない。それを選ばせた帝国の冷たさに、覚えがあったからだ。
そのとき、ようやく理解した。
ヴォルフガングが「生きているなら、連れて帰れ」と言った、その本当の意味を。
彼は最初から気づいていたのだ。
ライザが捕虜になったのではなく、帝国を捨てた可能性に。
それでも「連れて帰れ」と言ったのは、帝国のためじゃない。裏切り者を裁くためでもない。
生きている人間を、ただ見捨てたくなかっただけだ。
「ライザ……君を非難する資格が、私にあるとは思っていない」
ナディアは感情を押し殺し、冷淡に告げた。
「だが、一つだけ伝えなければならない。
君にとって重要な判断材料だ」
ライザは黙って続きを待つ。
「フレヤレイドが、この国に向けられている」
その瞬間、ライザの表情が凍りついた。
その名を知らないはずがない。撃ち込まれた土地を永久に魔法汚染し、生命を拒絶する戦略兵器。ここで得た居場所も、子供たちの笑顔も、その影の下にある。
「……それが、伝えたかったこと?」
静かな問いだった。
「そうだ」ナディアは短く答える。「これが最後」
しばらくの沈黙の後、ライザはゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、ナディア」
その感謝が何に向けられたものなのか、ナディアには分からなかった。
「逃げるつもりは、ないのか?」
思わず漏れた問いに、命令の響きはなかった。
ライザは首を横に振る。
「ここには、逃げられない人たちがいるもの」
彼女が嘘をついていないことだけは、はっきりとわかった。
「……もう、同じ場所には立てないんだな」
ナディアは低く呟いた。
それは非難ではなく、純粋な困惑だった。
帝国の論理でも、戦場の常識でも、ライザの選択は説明できない。
ナディアは何も言わず背を向ける。立ち去ろうとしたその背中に、ライザの声が届いた。
「気をつけて」
ナディアは振り返らず、そのまま施設を後にした。
胸に残るわだかまりを振り払うように、歩みを早める。
帝国への帰路、彼女の心には複雑な感情が渦巻いていた。
任務は果たした。だが、敗北感だけが拭えない。ライザを連れ戻すことも、亡命を止めることもできなかった。
それでも、ヴォルフガングには伝えなければならない。
フレヤレイドの照準が向けられている場所に、かつての同胞がいるという事実を。
その先に待つ運命が何であれ、もはや選択肢はない。
ナディアは冷たい夜風を受けながら、黙々と帝国への道を歩き続けた。
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