2-2-16 仲間割れ
ヴァシリーとライザは、互いに一言も交わさないまま国境付近まで歩き通した。
国境を示す標柱は、半ば倒れたまま土に埋もれていた。かつては帝国の紋章が刻まれていたのだろうが、風雨に削られ、今では判別も難しい。
目の前には、見慣れたはずの自国の大地が広がっている。あと一歩踏み出せば、任務は完遂される──そのはずだった。
だが、その一歩が、ひどく重い。
ライザは不自然なほど無言のまま、一定の歩幅で歩き続けていた。呼吸も姿勢も整っている。それでも、長年行動を共にしてきたヴァシリーには分かってしまう。彼女の内側で、何かが微妙に噛み合わなくなっていることを。
躊躇いがちに、ヴァシリーは声をかけた。
「……レイラのことが、気になるのか?」
不意に投げかけられた言葉に、ライザの肩がわずかに強張った。だが彼女は答えない。
その沈黙こそが、答えだった。
足音が止まる。
ライザはゆっくりと振り返り、鋭い視線でヴァシリーを射抜いた。
「お前こそ、なぜ止めを刺さなかった?」
「俺はな……」
ヴァシリーは一度だけ息を整え、静かに続けた。
「王国を憎んでいない」
地下牢での生活は、拍子抜けするほど普通だった。極寒もなければ、意味のない暴力もない。生き延びるだけなら、十分すぎる環境だった。
王国への憎しみは薄れ、代わりに、奇妙な静けさが残っている。
その中でも、妙に耳に残る声があった。
ときどき牢を訪れ、世間話のように言葉を交わしてくれた少女──レイラ。
『今日は少し、寒いですね』
他愛もない言葉とともに差し出された水と食事。敵国の兵士であるはずの彼を、少女は憎む素振りを一度も見せなかった。
彼女の存在が、無意に過ぎていく日々の中で唯一、時間の流れを感じさせてくれたのだ。
「それどころか、彼女には感謝している」
その言葉は、火薬庫に落とされた火種のようだった。
次の瞬間には、ライザの体は勝手に動いていた。
ヴァシリーの胸倉を乱暴に掴んで引き寄せると、至近距離で睨みつける。
その眼差しには、これまで彼が見たことのない激しい感情が宿っている。
「もう一度、言ってみなさい」
低く、押し殺した声。
だが次の瞬間、その怒気は隠しきれず噴き出した。
「王国に感謝?正気で言っているの?」
ライザは吐き捨てるように言う。
「お前、それでも帝国の兵士か。敵に施しを受けて、情が移ったというの?」
「事実を言っただけだ」
ヴァシリーは淡々と答えた。
その平静さが、かえってライザの神経を逆撫でした。
彼女は腰のホルスターから魔法銃を抜き、ためらいなくヴァシリーの額に突きつける。
「祖国への忠誠を忘れたの?裏切り者め!」
銃口の冷たさを感じながらも、ヴァシリーは眉一つ動かさなかった。
彼女が怒っている理由が、怒りそのものではないことを、直感的に理解していたからだ。
かつての冷酷で合理的なライザなら、こんな真似はしない。
感情を表に出すこと自体が、彼女の流儀ではなかった。
「殺すなら、好きにしろ」
ヴァシリーは静かに言った。
「だが、俺は自分が感じたことを、否定するつもりはない」
その瞬間、ライザの手がわずかに震えた。
魔法銃の銃口が、ほんの数ミリ、ぶれる。
──そのとき。
「仲間割れは、よしなさい」
澄んだ声が、二人の間に割り込んだ。
はっとして振り向くと、そこにはサーラが立っていた。
風景に溶け込むように、しかし確かにそこに存在している。まるで最初から見ていたかのような、飄々とした表情だった。
「サ、サーラゼル……!?」
二人は同時に声を上げ、言葉を失う。
どうしてここにいる。
追跡されていたのか、それとも──。
「ずいぶん仲が悪いのね」
サーラは軽い調子で言い、くすりと笑った。
「国境を越える直前で喧嘩なんて。余裕がある証拠かしら」
一歩、また一歩と、彼女は距離を詰める。
ライザは反射的に銃を構え直したが、その指は引き金にかからなかった。
ヴァシリーもまた、息を殺し、サーラの一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らす。
「……どうして、ここに?」
ライザが辛うじて問いかける。
「それを知りたいなら」
サーラは意味深な笑みを浮かべた。
「ここで、無駄な選択をしないことね」
その一言が、空気を張り詰めさせる。
ライザとヴァシリーは短く視線を交わした。
いま、この場で何を選ぶべきなのか。
答えを出す猶予は、もはや一瞬しか残されていなかった。
ブクマでサーラたちの応援をお願いします!




