2-2-15 偽りの光
レイラは宝瓶の壺を胸元に引き寄せ、両手で強く抱え込んだ。
迷いを断ち切るように魔力を一気に解放する。
瞬間、壺の口から噴き出した水が白い霧となって周囲を包み込み、通路一帯に水蒸気が立ちこめた。視界を奪うその霧は、即席の防壁としてライザとヴァシリーの姿を覆い隠す。
レイラは息を整える間もなく、壺から流れ出る水を一点に収束させた。
超高圧で圧縮された水流が、甲高い音を立てて解き放たれる。鋭利な光線のようなウォーター・レイが、霧を切り裂きながら一直線に走った。
「へえ、面白い使い方をするじゃない」
ライザは身を翻し、紙一重で水流をかわす。一瞬だけ目を見開き、感心と警戒が入り混じった表情を浮かべたが、すぐに距離を取るように後退した。
その隙を逃さず、レイラはさらに魔力を注ぎ込む。
水蒸気の壁は厚みを増し、通路の空間そのものを押し潰すかのように広がっていく。相手の動きを封じ込める──そのはずだった。
「俺と君は、相性が良いようだ」
ヴァシリーが冷笑し、手をかざした刹那、レイラは“冷たさ”ではない異変を感じた。
空気から、熱が奪われていく。
肌を刺す寒気ではなく、体温そのものが吸い取られていく感覚。肺に吸い込んだ空気が、内側から痛みを伴って冷えていく。霧の中で鳴っていたかすかな水音が、突然、硬質な音へと変わった。
ぱき、ぱき、と。
水蒸気が、結晶化していく。
白い霧は瞬く間に氷の粒となり、空中で砕け散った。発射されかけていたウォーター・レイも、形を保つ前に凍りつき、床に落ちて粉々になる。
「くっ……!」
レイラは必死に壺へ魔力を送り込む。だが、放出した水は次々に凍り、役目を果たす前に失われていく。
冷気は容赦なく彼女自身にも及び、指先の感覚が薄れていった。壺を抱える腕が震え、歯の根が合わない。
「もう終わりだ」
ヴァシリーの声は、氷のように静かだった。
レイラの呼吸は浅くなり、視界の端が暗く滲む。立っていることすら難しくなり、膝が折れそうになる。
そのとき、ふいに──記憶の底から、声が浮かび上がった。
『諦めないで』
顔は思い出せない。
けれど、その声だけは、なぜか忘れられなかった。病人や怪我人、そして挫けそうになった自分に、幾度となくかけられていた声。
「……マリア……」
掠れた声が、氷の空気に溶ける。
「……助けて……」
その名が発せられた瞬間、ライザの動きが止まった。
「……こんな時にその名前を呼ぶなんて、冗談でしょう?」
呟く声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
彼女にとって「マリア」という偽名は、ただ任務のために使い捨てる道具に過ぎない。だが、死の淵に立つ少女が、その名を最後の拠り所として呼んでいる──その事実が、胸の奥に予想外の波紋を広げていく。
もちろん、レイラは知らない。
目の前の女がマリア本人であることなど。
彼女はただ、心の支えだった人物の幻影を見ているだけだった。
「あなた……マリアでしょ?」
震える唇で問いかけ、涙を滲ませながら続ける。
「やっぱり……来てくれたのね。私は……一人じゃなかった……」
ライザは視線を逸らし、感情を押し殺そうとする。だが、心の奥に芽生えた微かな迷いは、簡単には消えなかった。
「行くぞ、ライザ」
ヴァシリーの呼び声が、その逡巡を断ち切る。
ライザは最後に一度だけレイラを見た。
凍えた少女が壊れそうな声で縋りついている。
それでも彼女は何も言わず、踵を返し、ヴァシリーと共に霧の向こうへと消えていった。
レイラはその場に崩れ落ち、宝瓶の壺を胸に抱きしめたまま嗚咽を漏らす。
凍える寒さと戦いの恐怖の中でも、彼女は最後まで希望を手放さなかった。
──それが、たとえ偽りの光であったとしても。
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