2-2-14 ライザとレイラ
病院内の魔法機器はすべて沈黙し、廊下には混乱だけが残されていた。
復旧の目処は立たず、スタッフたちは対応に追われ、患者たちは不安を隠せない表情で周囲を見回している。
レイラもまた、胸の奥に焦りを抱えながら、この異常事態の原因を突き止めねばならないという思いに駆られていた。
地下の魔力供給装置は完全に停止していた。
その周辺を調べたとき、彼女は足元に違和感を覚えた。
排水設備のどこかが機能不全を起こしたのか、床には水が薄く広がり、靴底がじっとりと濡れる。
「……あなたの力を、どうにか使えないの?」
レイラは無意識のうちに、胸元に下げた宝瓶の壺へと問いかけていた。
その問いに応じるように、脳裏に柔らかな声が響く。
宝瓶の壺──ヒュドラリウムの声だ。
『我は少々扱いにくい。だが、使い方次第で、多くのことができる』
「使い方って……何をどうすればいいの?」
問い返しても、ヒュドラリウムはそれ以上答えなかった。
だが次の瞬間、足元の水が微かに震え、さざ波のような揺らぎが広がる。
穏やかだった水面に、はっきりとした足跡が浮かび上がった。
「……水の、記憶?」
息を詰めて見つめると、それは誰かが病院内を移動した痕跡だった。
足跡は地下から出た後、迷いなく出口へと向かい、さらにその先──外へと続いている。
混乱に乗じて逃げ出した者がいる。
しかも、この状況を作り出した張本人である可能性が高い。
レイラは宝瓶の壺を握り直し、足跡を追って走り出した。
慌ただしい病院を抜けると、痕跡はやがて「立ち入り禁止区域」へと向かっていることに気づく。
「ここは……」
視線の先に、古びた石造りの階段が見えた。
地下牢へと続く通路だ。
胸騒ぎが止まらない。
それでも立ち止まる理由はなかった。
レイラは意を決して階段を駆け下りた。
湿気を帯びた冷たい空気が肌を撫で、心拍が否応なく早まる。
下へ進むにつれ、かすかな足音が反響し、確信へと変わっていった。
階段を下りきったところで、レイラは思わず足を止めた。
空気が、明らかに違う。湿り気を帯びた冷気の中に、張り詰めた緊張が混じっている。
胸元の《宝瓶の壺》が、かすかに振動した。
(警告しているの?戻るべきよ、レイラ……)
だが、ここで引き返せば、何か決定的なものを見逃す。
そう直感し、レイラは唇を引き結び、さらに奥へと歩を進めた。
通路の奥、薄暗い牢獄の一角で、二つの人影が動いている。
そこにいたのは──逃走を図るライザと、解放されたヴァシリーだった。
全身に冷たいものが走る。
金髪の女が何者なのか、レイラにはわからない。
だが、その佇まいだけで理解できた。
この場の異常、その中心にいる存在だと。
「……あなた、誰?」
震えを押し殺した声で問いかける。
ライザは一瞬だけこちらを見やり、余裕の笑みを浮かべた。
「気にすることはないわ。あなたは、たまたま運が悪かっただけ」
足がすくみ、喉がひくりと鳴る。
本能が「逃げろ」と叫んでいた。
それでも、レイラは一歩も引かなかった。
「……ヴァシリーさん?」
名を呼ぶと、ヴァシリーは一瞬だけ視線を向けた。
だが、何も答えない。かつて何度も見た、感情を切り離した表情のまま、再び視線を逸らす。
その姿を見た瞬間、理解が追いつくより先に、嫌な予感が確信へと変わった。
「私たちは、これから出国する」
ライザの一言が、胸に突き刺さった。
反射的に、レイラの思考が跳ね上がる。
──出国。
こんな混乱の最中に、迷いなくその言葉を選ぶ理由は一つしかない。
彼女はこの国の人間ではない。
ただの旅行者や傭兵にも見えない。
「帝国のスパイ……!」
背筋を冷たいものが走った。
ライザは淡々と言い放つ。
「黙って見逃してくれれば、それで終わりよ」
逃げるという選択肢が、一瞬だけ頭をよぎる。
だがすぐに、サーラたちと共に戦った日々、守るべき人々の顔が脳裏をよぎった。
ここで目を逸らせば、すべてが無意味になる。
震える手で宝瓶の壺を抱き直すと、壺がほのかに温かさを帯びた。
まるで背中を押すように。
「……逃がさない」
ライザが面白そうに微笑む。
「一人で、何ができるの?」
レイラは恐怖を胸の奥に押し込み、一歩踏み出した。
床に広がる水が、壺の力に応じて静かに動き出す。
(私がやるしかない。この場を守るのは──私だ)
その決意を受け取ったかのように、水は壁伝いに広がり、
二人の逃げ道を、音もなく塞ぎ始めていた。
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