2-2-11 マリアとレイラ
ライザは病院のロビーを静かに巡回していた。
十五歳の少女に化けた彼女は「マリア」という偽名で看護師見習いとして働き、患者やスタッフの流れに自然に溶け込んでいる。だが、その偽りの黒い瞳の奥には、常に冷徹な目的意識が宿っていた。
任務は、女王候補レイラへの接触と、王宮に連なる情報の収集。
そのためには、警戒されず、かつ印象に残る“きっかけ”が必要だった。善意でも偶然でもない、制御された事件──それが最短ルート。
「さて……頃合いね」
ライザは周囲の視線が途切れる瞬間を見計らい、ポケットの中の小瓶に指をかけた。中身は、魔力の流れをわずかに乱すための調合薬。廊下の柱の影で瓶を砕くと、乾いた小さな音とともに、目に見えない魔力の歪みが静かに広がっていく。
ほどなくして、ロビー中央の水晶灯が異変を起こした。
淡く灯っていた光が不規則に明滅し、空気が震えるような低い音を立て始める。床に伝わる揺れに、患者たちが不安げに声を上げ、スタッフの動きも一気に慌ただしくなった。
「何が起きてるの!?」
誰かの叫びが混乱に拍車をかける。
その中で、レイラもまた、負傷者のもとへと駆け寄っていた。
だが、魔力の乱れは収まる気配を見せない。天井の一部から細かな粉塵が落ち、場の緊張が一段高まる。
「危ない!」
鋭く声を張り上げ、ライザ──いや、マリアはレイラのもとへと踏み込んだ。負傷者ごと彼女の腕を引き、安全圏へと押し出す。その動きに一切の迷いはない。
続けて、懐から別の小瓶を取り出し、床へと投げつけた。
割れた瓶から広がる魔法の霧が暴走した魔力を包み込み、乱れた光は嘘のように沈静化していく。
「……助かったの?」
呆然としたレイラの声が、ようやく混乱の終わりを告げた。
「お怪我はありませんか?」
マリアは穏やかな微笑みを浮かべ、いつもの調子で声をかける。その表情に、先ほどの緊迫を思わせる影はない。
「マリア……どうして、そんなものを?」
「念のためです。病棟では、何が起きても不思議じゃありませんから」
簡潔な答え。
それ以上を語らない態度が、かえってレイラの視線を引きつけるはずだ。
レイラは一瞬、言葉を探すように口を閉ざし、視線をこちらに向けたまま動かなくなった。
数拍の沈黙のあと、彼女は小さく息を整える。
「……すごいのね、あなた」
「いえ、たまたまですよ」
マリアは控えめに肩をすくめ、視線を外した。その仕草が、偶然以上の印象を残すに違いない。
「今度、お礼をさせて。あなたと……お友達になりたいの」
「そう言ってもらえるなら、嬉しいです」
内心で、ライザは静かに状況を整理していた。
感情の波はない。ただ、計画通りに駒が進んだという事実だけがあった。
その夜、彼女は部屋に戻り、一人で天井を見上げる。
最初の接点は成功。だが、ここから先こそが本番だ。変装を維持し、距離を詰め、情報を引き出す。その手順に狂いは許されない。
「……次ね」
小さく呟き、調合済みの小瓶を手に取る。
昼は看護師見習い、夜は工作員。その二重の役割を、彼女は淡々と受け入れていた。
すべては任務のため。
そして、帝国の勝利のために。
窓の外に目を向け、静かに息を吐く。
明日もまた、偽りの一日が始まる。
—-
王宮内に用意された自室の灯りが落とされ、レイラは一人、ベッドに横になっていた。
天蓋越しに見える闇は静かで、昼間の騒ぎが遠い出来事のように思える。
それでも、目を閉じると、自然と同じ場面が浮かんできた。
異常な光を放つ水晶灯。
揺れる床、飛び交う悲鳴。
そして、迷いなく響いた声。
『危ない!』
思い出すたびに、胸の奥がきゅっと引き締まる。
振り向いた瞬間に見えたのは、見習いの少女──マリアだった。
同い年のはずなのに。
その立ち姿は、妙に落ち着いていて、場の空気を読んだ大人の余裕があった。
(どうして……あんなふうに動けたの)
恐怖より先に判断があり、判断より先に行動があった。
自分よりも一歩先を見ている、そんな感覚。
腕を掴まれたときの力強さ。
乱暴ではなく、ためらいもなく、必要なだけ。
守られたというより、
「こちらへ」と導かれた気がした。
霧が広がり、荒れていた魔力が静まった瞬間。
あの場を支配していたのは、騒ぎでも奇跡でもなく、
マリアの冷静さそのものだった。
『お怪我はありませんか?』
膝をついて問いかけてきた声は、穏やかで、落ち着いていて。
同い年の少女のものとは思えないほど、距離感が正確だった。
(……大人だ)
ふと、そう思った。
背伸びしているのではなく、最初からそこに立っている人の余裕。
『念のためです』
そう言って肩をすくめた微笑みも、どこか年上めいて見えた。
自分の力を誇らず、説明もしない。
それが余計に、レイラの胸に残った。
(すごい、というより……)
──こうなれたらいい。
——こんなふうに、動ける人になりたい。
そんな思いが、静かに芽生えていた。
友達になりたい、と口にしたのは、衝動だった。
けれど、後悔はしていない。
レイラは毛布を胸元まで引き上げ、天井を見つめる。
暗闇の中で、黒い瞳と落ち着いた声が、もう一度浮かんだ。
「……マリア」
名を呼ぶと、部屋の静けさに溶けて消える。
胸の奥に残ったのは、熱ではなく、静かな高揚だった。
憧れ。
そう呼ぶのが、今は一番近い。
レイラはゆっくりと目を閉じた。
明日また会える、その事実だけで、心が少し軽くなるのを感じながら。
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