2-2-10 潜入工作員
ライザ・クレーヴは、簡素な宿舎の一室で鏡の前に立ち、自ら調合した魔法薬を静かに飲み干した。
舌に残る強烈な苦味を噛み殺しながら、彼女はゆっくりと鏡の中の自分を見つめる。
変化は、いつも静かに始まる。
金色だった髪は光を失い、柔らかな茶色へと沈み、碧眼は感情を映さない無機質な黒へと染まっていく。張りのある二十八歳の身体は、魔法薬の作用によって急速に若返り、やがて十五歳ほどの少女の輪郭を形作った。
──完璧だ。
鏡の中には、帝国の工作員ライザ・クレーヴの面影はどこにもない。
そこにいるのは、王国教団の総合病院で働く見習い看護師、「マリア」という名の少女だった。
王国内部に潜入し、動向を探る。
それが彼女に与えられた最重要任務である。
「王国の新しい戦力を把握しろ。戦闘で見かけた少女たちに接触するのが第一だ」
帝国総司令ヴォルフガング・アイゼンバルトの低い声が、脳裏によみがえる。
感情を交えない、命令として完成された言葉。失敗した場合、救援はない。そのことも含めて、彼女は任務を引き受けた。
潜入先である教団病院は、戦争で傷ついた兵士や要人を受け入れる王国有数の医療施設だ。
王宮との繋がりも深く、女王候補が診察や定期検査のために訪れることもあるという。護衛や関係者が頻繁に出入りし、情報が自然と集まる場所──潜入先としては理想的だった。
ライザは、昼と夜で顔を使い分ける。
日中は見習い看護師、夜は帝国の工作員。
その二重生活が、すでに彼女の日常になりつつあった。
朝──看護師としての顔。
「おはよう、マリア。今日は第三病棟をお願いね」
年上の看護師が、穏やかな笑みを向けてくる。
ライザは一瞬の迷いもなく、年相応の無邪気な表情を作った。
「はい!今日も頑張ります」
病棟に広がるのは、戦争の爪痕だ。
包帯を巻かれた兵士、魔法の暴走で負傷した民間人、疲労と恐怖に沈む顔。医療の現場は常に混乱しているが、彼女の思考は驚くほど冷静だった。
どの処置を優先すべきか。
誰が重要人物か。
護衛の配置はどうなっているか。
視線と会話の断片だけで、必要な情報を拾い上げていく。
無邪気な振る舞いの裏で、彼女の目は鋭く、感情は一切混じらない。
そして──
病棟の一角で、その姿を捉えた。
女王候補の一人、レイラニス・シャロット。
「……資料で見た顔ね」
胸の奥で、冷静な計算が始まる。
接触の機会、護衛の人数、立ち位置。すべてが分析対象だった。
夜──工作員としての顔。
深夜零時を過ぎると、魔法薬の効果は徐々に薄れ始める。
少女の輪郭が揺らぎ、やがて本来の二十八歳の身体へと戻っていく。
病院が静まり返る頃、ライザの裏の任務が始まる。
彼女は影のように施設内を移動し、教団の地下区画へと足を運んだ。王宮と病院を結ぶ動線、封印された区画、地下牢の存在──確認できれば、ついでに「片付けておきたいこと」もある。
魔法薬の調合に、一切の妥協はない。
薬草をすり潰し、論理魔法で成分を精密に制御しながら混ぜ合わせる。
一滴の誤差が、正体露見に直結する。
「……一滴も無駄にはできない」
再び魔法薬を飲み、十五歳の「マリア」に戻った彼女は、鏡の前で念入りに確認する。
そして、柔らかな少女の笑顔を作った。
「女王候補に近づくのは……もうすぐね」
制服を整え、廊下へと踏み出す。
昼は無垢な看護師、夜は冷徹なスパイ。
二つの顔を完璧に使い分けながら、ライザは静かに任務を進めていく。
そのすべてが、自分の掌の上で転がっていると信じて。
やがて朝が来る。
病院の窓から差し込む朝日が、彼女の頬を照らした。
ライザは一瞬だけ、その光を見つめる。
新しい一日。新しい情報。新しい機会。
「……今日も、演じ切るわ」
そう呟き、彼女は再び少女の顔を装って歩き出した。
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