2-2-9 帝国の搦手
国境線を挟んで、帝国軍と王国軍は奇妙な均衡状態に陥っていた。
互いに前線を維持したまま、一歩も踏み込まない。
正面から仕掛ければ大きな損耗は避けられず、かといって退けば主導権を失う。
戦場は沈黙し、時間だけが静かに消耗されていく──膠着状態。
だが、その沈黙が等しく重くのしかかっているわけではなかった。
人員も補給も潤沢な帝国にとって、時間は味方だ。
王国が疲弊するのを待つだけでも、いずれ天秤は傾くだろう。
──本来ならば。
ヴォルフガング・アイゼンバルトは、帝国軍司令室の中央に立ち、広げられた地図を睨みつけていた。
地上戦は無人戦車と女王代理に阻まれ、空はフェンリスの墜落以降、容易に支配できない。
正面突破は愚策。
王国が先に息切れする可能性は高い。
だが、女王代理という存在が、その「常識的な勝ち筋」を信用させなかった。
彼女は、ただ守りに徹するだけの女ではない。
何かを仕掛けるなら、こちらが待つと踏んだその裏かもしれない。
「……待つだけ、というのも性に合わんな」
ヴォルフガングは低く呟き、地図の端を指でなぞった。
動かずに勝てる戦でも、相手が油断ならない以上、
“何もしていない時間”を作るわけにはいかなかった。
「情報が足りん」
敵が何を考え、どこまで準備を進めているのか。
それが分からぬままでは、次の一手を打つことはできない。
正面戦力が封じられた今、帝国に残された選択肢は一つしかなかった。
──搦手。
ヴォルフガングは背後の副官に短く命じた。
「ナディア・ヴァルシオンを呼べ」
ほどなくして、司令室の扉が開く。
帝国特殊部隊を統括する女将校、ナディア・ヴァルシオンが姿を現した。
鋭い眼差しと、隙のない立ち姿。
先の戦闘で敗退を喫しながらも、その気配に揺らぎはない。
「お呼びでしょうか、総司令」
「ナディア、特殊部隊から適任者を出せ」
ヴォルフガングの声は淡々としていたが、言葉の奥には逃げ場のない重圧が込められていた。
失敗は許されない──そう無言で告げている。
ナディアは一瞬の逡巡もなく、一歩前へ出て敬礼する。
「ライザ・クレーヴです。彼女以上の人材はおりません」
「……聞いたことがある名だな」
ヴォルフガングは眉をわずかに寄せた。
「どんな女だ?」
ナディアは司令室の魔法モニターを操作し、ひとりの女性の情報を映し出す。
簡潔で、無駄のない経歴だった。
「ライザ・クレーヴ、28歳。帝国魔法学院を主席で卒業したエリートです。専門は論理魔法。暗号解読、情報解析、魔法式の再構築まで対応可能。魔法を用いた情報分析分野では、彼女の右に出る者はいません」
「論理魔法の専門家、か」
ヴォルフガングは腕を組み、静かに言う。
「それだけで潜入が成功するとは思えんな」
「承知しています」
ナディアは即座に続けた。
「彼女は魔法薬の調合にも秀でています。睡眠薬、幻惑薬、感覚遮断、身体能力を一時的に引き上げる強化薬──任務内容に応じて自在に用意できます。変装、偽装も完璧で、服装や立ち居振る舞いで環境に自然に溶け込むことが可能です」
モニターに映るライザの冷淡な視線が、司令室の空気をわずかに冷やす。
「優秀なのは結構だ。だが“優秀そう”なのと、“使える”のは別だ」
ヴォルフガングは皮肉混じりに呟いたが、ナディアは動じない。
「冷静沈着。任務中に感情を表に出すことはありません。常に理性的な判断を下し、状況次第では独自判断で行動します」
「……命令を逸脱する可能性がある、ということだな」
「ですが、その判断が失敗したことは一度もありません」
断言だった。
ヴォルフガングはしばし黙考し、やがて小さく息を吐く。
そして、モニターを消すように手を振った。
「適任だ」
短い言葉だったが、決断の重みは十分だった。
「準備が整い次第、即座に出発させます」
「頼むぞ」
ヴォルフガングは地図から視線を外し、低く呟く。
「彼女が成功すれば……この膠着は、こちらの望む形で動き出す」
ナディアは敬礼し、足音も立てずに司令室を後にした。
一人残されたヴォルフガングは、南の王国を示す地図を見つめる。
動かぬ戦線、削られていく時間。
「……とはいえ、盤はこちらに傾いたままだ」
女王代理がどれほど慎重であろうと、
彼女が見据える“正面の戦線”の外側で、帝国は手を打っている。
「時間切れを待つ気はない。
さて……次はどう動く、女王代理」
その呟きは、誰に向けられたものでもなかった。
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