2-2-8 動かない戦線
王宮の作戦室には、昼間だというのに薄い緊張が張り付いていた。
宙に浮かぶ魔法ホワイトボードの横で、サーラは静かに息を整え、シェリーの手元を見つめている。
シェリーが抱える《双魚の鏡》は、淡い水面のような光を湛え、その奥に遠景の戦場を映し出していた。
帝国軍の部隊配置。進軍方向。撤退経路。
すべてが、静止した絵のようにそこにあった。
「……撤退、したようには見えるけど」
シェリーが小さく呟く。
指先で鏡の縁をなぞると、映像がわずかに引き、国境線がはっきりと映し出された。
「完全には引いてないわね」
サーラが応じる。
鏡の中、帝国軍は国境線のすぐ内側──いや、正確には“越えないぎりぎり”の地点で隊列を整え、野営を始めていた。
「追撃、する?」
シェリーが顔を上げて尋ねる。
サーラは即座に首を振った。
「いいえ。目的はあくまで防衛よ。追撃戦は想定していない」
少し間を置き、苦い現実を噛みしめるように続ける。
「それに……帝国は大きすぎる。こちらから攻め込んで、勝てる相手だとも思ってない」
シェリーは唇を噛み、再び鏡を見る。
「だからこそ、彼らはそこにいるんだと思う。いつでも攻め込める位置で、動かずに居座る。私たちが追ってこないって、分かってて」
その言葉に、サーラは小さく目を伏せた。
「……ええ。逆手に取られてる」
本来なら、帝国軍が正面突破を選んだ瞬間、伝説のデバイスを総動員して迎え撃つつもりだった。
それができれば、こちらの“強さ”を明確に示せる。
だが──敵が動かなければ、その力を振るう場面すら訪れない。
「待っているだけでも、心は削られるわ」
サーラの声は低く、静かだった。
防衛線を維持するということは、常に“次の一手”を想定し続けることだ。
いつ来るか分からない攻撃に備え、緊張を解かず、判断を保ち続ける。
「でも、帝国側は違う」
シェリーが続ける。
「人も、物資も、余裕がある。長期駐留なんて、朝飯前よ」
サーラは何も言い返さなかった。
その沈黙が、すべてを肯定していた。
巧妙に仕組まれた膠着状態。
動けば負ける。
だが、動かなくても、こちらが先に摩耗する。
サーラはホワイトボードから視線を外し、作戦室の天井を見上げた。
「……このまま続けさせるわけにはいかない」
ぽつりと漏れた言葉には、決意よりも先に、焦燥が滲んでいた。
「……ひょっとしたら」
彼女は視線を鏡へ戻す。
「帝国は、表で動かない代わりに……裏で、何かを進めているのかもしれない」
その可能性が頭をよぎった瞬間、胸の奥が冷たくなる。
正面戦線が止まっている時こそ、別の歯車が回っている。
サーラは腕を組み、深く考え込んだ。
《双魚の鏡》に映る、微動だにしない帝国軍の陣。
その静けさが、嵐の前触れであることを、彼女は強く予感していた。
—-
その頃──
国境から離れた山間部、フェンリスの墜落跡地では、冷たい風が岩肌を舐めるように吹き抜けていた。
帝国の工作員、ライザ・クレーヴは、外套のフードを深く被りながら、崩れた岩場を一つひとつ確かめていた。
足場は悪く、視界も限られている。それでも彼女の動きに迷いはない。
「……船体に残ってるとは限らないわよね」
独り言のように呟き、周囲を見回す。
「衝撃で弾き飛ばされた可能性もある。少し、範囲を広げるか」
フェンリスは巨大な飛空艇だった。
墜落の衝撃で内部構造がどうなったかなど、外からでは分からない。
目的の“それ”が、船体から切り離され、別の場所に散っていても不思議ではなかった。
ライザは慎重に岩場を移動し、苔むした割れ目の奥に目を凝らした。
その時だった。
「……あ」
岩陰に、わずかに光を反射する欠片がある。
拾い上げると、それは深緑色の、美しく澄んだ結晶だった。
「やっぱり、ここにあった」
ライザは即座に理解する。
「オクシオ魔晶……」
フェンリスの浮遊機構に不可欠な高純度魔晶。
だが、目の前にあるそれは、ひとつの塊ではなかった。
砕け、散り、大小さまざまな破片となって、岩場一帯に広がっている。
「……粉々ね」
全てを回収するのは、明らかに不可能だった。
だが、ライザの任務は“回収”ではない。
彼女は懐から小さな瓶を取り出す。
中には、粘度の高い魔法薬が満たされていた。
「カムフラージュで十分」
そう言って、彼女は瓶の栓を開ける。
「これで……百年は、誰にも見つからない」
呪文を低く唱え、魔法薬を岩場一帯に吹きかけていく。
透明な霧が広がり、オクシオ魔晶の欠片を覆った。
次の瞬間、深緑の輝きは失われ、
そこにあるのは、ただのくすんだ石ころの集まりにしか見えなくなる。
「よし」
ライザは周囲を一度見渡し、満足そうに頷いた。
「任務完了」
誰かがここを調べたとしても、
この石が特別な価値を持つものだと気付くことはない。
帝国にとって都合の悪い“遺産”は、こうして歴史の裏に葬られる。
ライザは踵を返し、岩場を後にした。
その背中が完全に見えなくなった頃──
「……へえ」
別の影が、静かに姿を現す。
長い間、フェンリスの残骸を調査していた、
レガシー魔法の探究者──アリスだった。
彼女は、先ほどまでライザが立っていた場所を見下ろし、
足元の石ころを一つ拾い上げる。
「良いこと、聞いちゃった」
指先で石を転がしながら、アリスは不敵に笑った。
表面はただの岩にしか見えない。
だが、彼女の目には、微かな“違和感”が残っている。
アリスは石をそっとポケットに納め、フェンリスの残骸へと視線を向けた。
「──面白くなってきたじゃない」
誰にも聞かれることのない呟きが、
冷たい風に溶けて消えていった。
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