2-1-12 ネフィリスとシオン
サーラは最近、ネフィリスの行動が気になっていた。
いつもは彼女のそばにいる黒猫が、ここしばらく、朝早くに姿を消し、日が暮れてからようやく戻ってくる日が増えていたのだ。
何か理由があるに違いない。
そう考えたサーラは、ついに自分で確かめることにした。
「今日こそ、ネフィリスがどこへ行っているのか確かめないと……」
集めた情報を頼りに、サーラは貧民街にほど近い市場を訪れた。
雑多な露店がひしめき合い、呼び声と笑い声が交錯する、庶民の活気に満ちた場所だ。ネフィリスが、ここで何度も目撃されていると聞いた。
人混みを縫うように歩きながら、サーラは目を凝らして黒猫の姿を探す。
「あの黒猫なら、よくこの辺で見かけるわよ」
店主の言葉を頼りに歩いていると、サーラはふと、前方にできた人だかりに気づいた。
ひときわ大きな歓声と拍手が上がり、場の空気が一気に熱を帯びている。
何が起きているのだろう。
興味を引かれ、サーラは人の輪に近づいた。
人々の視線の先に立っていたのは、伝統的な衣装を身にまとった一人の少女だった。背筋を伸ばし、鋭い眼差しで前を見据えている。
その姿を目にした瞬間、サーラは息をのんだ。
──シオン。
かつて、女王選定戦の候補者として名を連ねていた少女だった。
シオンは静かに腰を落とし、手にした刀を操る。
無駄のない動きで繰り出される居合は、流れるようでありながら、凛とした緊張感を帯びていた。観客たちは息を呑み、やがて堰を切ったように拍手を送る。
サーラは、しばらくその場から動けずにいた。
まさか、あの候補者が──市場で、露店のパフォーマーとして生きているとは思いもしなかった。
やがて演目が終わり、人々は満足そうに散っていく。
片付けを始めたシオンの足元を見て、サーラは思わず目を見開いた。
そこにいたのは、黒猫のネフィリスだった。
すべて承知していると言わんばかりに、涼しい顔で座っている。
「ネフィリス!」
サーラは駆け寄り、黒猫を抱き上げた。
ネフィリスは少し面倒くさそうに目を細めつつも、じっとサーラを見返してくる。
「こんなところで、何をしていたの?」
問いかけると、ネフィリスは小さくため息をついた。
「そんなに驚くことでもないさ。シオンがここで露店パフォーマンスをしてるって聞いてね。ちょっと様子を見ていただけだよ」
「パフォーマンスって……それで、シオン。どうしてこんなことを?」
サーラが向き直ると、シオンは少し困ったように笑い、視線を伏せた。
「実は……女王選定戦がなくなってしまって。私は一族の里に戻ることもできなくなりました」
そう前置きしてから、彼女は静かに続ける。
「生活のために、市場で居合の演武を始めたんです。最初は食い扶持を得るだけで精一杯で……でも殿──ネフィリス殿が助けてくださいました」
「ネフィリスが……?」
サーラは驚いて黒猫を見る。
「まぁ、少し手を貸しただけさ。彼女の話を聞いたら、放っておけなくてね」
ネフィリスは肩をすくめるように言い、苦笑した。
「それにしても、いつの間にか“殿”呼ばわりだ。ちょっと気恥ずかしいけど、悪くはない」
シオンは真剣な表情で首を横に振った。
「殿がいなければ、私はここで生きていけませんでした。生活の術を教え、食事の面倒まで見てくださって……その敬意を込めて、そう呼ばせていただいています」
その言葉に、サーラの胸はじんわりと温かくなった。
ネフィリスが、ここまで誰かを支えていたとは思ってもいなかった。
「でも……それだけじゃないんだろ?」
ネフィリスが、シオンを促す。
シオンは一度うつむき、覚悟を決めたようにサーラを見つめた。
「サーラ……あなたのことも、ずっと見ていました」
彼女の声は、まっすぐだった。
「戦争を止めようとして、仲間を守ろうとして……必死に行動するあなたの姿を。未来のために立ち続ける、その意志に……心を動かされたんです」
思いがけない言葉に、サーラは目を瞬かせた。
自分の行動が、誰かの人生に影響を与えていたなんて、考えたこともなかった。
「あなたのように、この国のために戦おうとする人のそばにいたい。私も……生き方を変えたいと思いました」
そう言って、シオンは深く頭を下げる。
「姫。姫と呼ばせてください。あなたこそ、私が仕えるべきお方です。どうか、あなたのもとで働かせてください!」
突然の申し出に、サーラは言葉を失った。
だが、その瞳に宿る覚悟を見て、冗談ではないと悟る。
「……私は、まだ女王じゃないし。そんな大層な称号なんて……」
「それでもです。あなたの強さと優しさは、私にとって揺るぎないものです」
シオンの意志は固かった。
サーラは小さく息をつき、そして微笑んだ。
「……分かったわ。姫なんて呼ばれるのは照れくさいけど、あなたがそう呼びたいなら止めない」
一拍置いて、続ける。
「でも、特別扱いはしないで。友達として、一緒に頑張りましょう」
シオンはほっとしたように笑い、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、姫……いえ、サーラ。どうか、これからもお力をお貸しください」
ネフィリスは、どこか得意げな表情で二人を見つめていた。
サーラは黒猫に感謝の視線を送り、新たな仲間を得た心強さを、静かに胸に刻んだ。
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