第8話 自己参照の調律
世界政府オルドスの極秘研究施設「アーク」の空気は、不自然なほどに乾燥し、清潔すぎて不気味だった。ネオ・エデンの地下に漂っていたカビ臭い湿気も、剥がれかけた瘡蓋のような空の色もない。天井から吊り下げられた無数の高精度手術用ライトが、チリひとつない床を容赦なく照らし出し、無機質なステンレスの作業台や、巨大な超電導演算回路のフレームを青白く反射させている。レン・カシマは、治療用の強化ポッドの上に腰掛け、剥き出しになった右腕を見つめていた。オルドスの先端医療技術によって、グリッチに蝕まれていた皮膚は人工真皮で覆われつつあったが、それでも肘から先をねじ切るようにのたうつ「物理的な火傷痕」は消えなかった。それは、神経接続の暴走負荷が脳の知覚を物理的に変性させ、肉体に直接刻み込んだ『バグの爪痕』だ。少しでも指先に力を込めると、今なお冷たい針で髄を直接突き刺されるような激痛が走る。「動かさないで、レン。今、オルドスの演算基盤と、あなたのバイタルポートの同期(同調)パラメータを調整しているんだから」キャットウォークの上に設置されたホログラム式コントロールパネルの前に、ミナが立っていた。彼女はオルドスから支給された、体に合わないオーバーサイズの白衣をまとい、目の下に黒い隈を浮かべながら、血走った目でパネルに指先を走らせていた。その指の動きは、スクラップ・バレーにいた頃よりも、遥かに高速で、焦燥に満ちていた。「少しは休め、ミナ。目覚めてから、ろくに寝てないだろ」レンが掠れた声で言うと、ミナはキーボードを叩く手を一瞬だけ止め、細い肩をぴくりと震わせた。「休んでる時間なんて、ないのよ……」ミナは声を引き摺るように言った。「観測AI『ヴェルメア』の自己参照暴走……あの『ラプラスの悪魔のパラドックス』によるフリーズの進行速度は、オルドスの予測を遥かに上回っているわ。昨日だけで、旧極東地域のさらに二つのセクターが完全に『静止』した。物質の量子運動がゼロになるの。空気も、光も、そこにいる人間の鼓動も、すべてがカチカチのガラスみたいに凍りついて、二度と動かなくなる。……もう、そこまで来てるのよ」ミナがパネルの隅をフリックすると、現実世界のシミュレーションマップが浮かび上がった。地球の輪郭の約三分の一が、死を暗示する完全な『無』――灰色に塗り潰されている。高度自律観測AI「ヴェルメア」は、この世界のすべてをあまりにも精緻に「観測」しすぎた。その全知に近いシステムが、「観測している自分自身」をもシステム内に内包して観測し直すという無限ループ――「自己参照」のパラドックスに陥った瞬間、現実の物理的レイヤーに耐え難い論理矛盾が発生した。そのバグこそが、現実世界の時間が物理的に凍りつく「フリーズ」現象の正体だった。物理法則が、ヴェルメアのバグによって強制終了させられようとしているのだ。「フリーズを止めるには、ヴェルメアが自己参照を起動させた『過去の確定座標』へ遡行し、その原因コードを書き換えるしかない。……そのためには、これが必要なの」ミナが視線を落とした先。巨大な出力プラントの中央に、解体されたアボート・アンカーが横たわっていた。アリスが遺した「空白」のメモリログ。それを解析し、オルドスの重工業設備と超高度な演算プラントをフル稼働させることで、アボート・アンカーの機能は、全く別の二つのガジェットへと、急速に再構築されつつあった。一つは、過去の歴史レイヤーへと精神を接続し、存在の定義を侵入させるための黒い特殊ソケット――【ダイブ・ギア(鍵)】。もう一つは、過去の改変領域に引きずり込まれ、自己を喪失してそのままデータの塵に還るのを防ぐため、現実の肉体との接続を絶対に切らさないための精神的命綱――【ダイブ・アンカー(命綱)】。「アボート・アンカーのままでは、ネオ・エデンの中のデータを壊すことしかできなかった。でも、この『ダイブシステム』なら……本当の歴史の深層へ潜り、物理的現実そのものを上書きできる。オルドスの量子プラントがなければ、この移行プロセスは絶対に不可能だったわ」ミナはそう言って、胸元に下げられたアリスのログディスク(残骸データ)を愛おしそうに握り締めた。「でも、これを使うあなたの脳への負担は、ネオ・エデンの時とは比べ物にならない。ダイブは、あなたの魂そのものを、過去という名の他人の定義の中に直接叩き込む自殺行為よ」「今更、命を惜しむような生き方はしてねぇさ」レンは人工真皮が馴染みきらない右腕の拳を、痛みに耐えながらゆっくりと握り込んだ。「ミナ。お前がそのシステムを動かすアンカー(観測者)でいてくれるなら、俺はどんな深淵にだって飛び降りてやる」レンの不遜な笑みに、ミナは悲しげに、しかし確かな信頼を宿した瞳で微笑んだ。その時、アークの隔壁に設置された赤いパトライトが激しく明滅し、耳を劈く緊急サイレンが響き渡った。「――全ダイバーおよび技術スタッフに緊急招集」アークのスピーカーから、オルドス司令部の機械的な音声が流れる。「極東第三セクターにおいて、観測AI『ヴェルメア』による高密度自己参照波を検知。フリーズの急速な拡大が確認されました。浸食フロントの拡大速度、毎秒四百メートル。……オルドス第一防衛線、および隣接する市民居住ブロックがフリーズの直撃を受けます。レン・カシマ。オルドスへの忠誠を示す時だ。ただちに未完成のダイブシステム(ギアおよびアンカー)を実戦配備し、出撃せよ」「なっ……市民居住ブロックまで!? 早すぎるわ、まだ調整率が八十パーセントにも達していないのよ!」ミナがホログラムパネルに飛びつき、観測データを必死に叩き落とそうとする。だが、モニターに映し出された外部の光景は、すでにその猶予がゼロであることを示していた。カメラが捉える荒野の向こう側。空が、大地が、空気中を舞う埃さえもが、不気味なほどの「カチカチ」という結晶化の音を響かせながら、灰色のクリスタルへと変貌していく。フリーズに飲み込まれた防衛線の戦車や、逃げ惑うオルドスの兵士たちは、恐怖の表情を顔に浮かべたまま、一瞬にして硬質な静止画へと成り果て、時を止められていた。フリーズ領域に触れた瞬間、あらゆる人間は「死ぬ」のではない。ただ、その存在の「秒数」を無限に凍結され、観測不可能な静止データへとフォーマットされるのだ。「調整なんて、出撃しながらやればいい」レンはシートから静かに立ち上がり、防護コートを肩に羽織った。彼の腰には、オルドスの重工業プラントによって削り出された、ダイブシステムの基部が冷たく固定されている。「レン、無茶よ! まだアンカーの命綱が、あなたの精神を引っ張り上げられる保証が……」「ミナ。お前をこの灰色の凍土で、静止画にさせるわけにいかねぇんだ」レンはミナの白衣の肩に、そっと左手を置いた。「俺たちの手で世界を壊しちまった(アボート)。なら、その世界のなれの果てを救う責任が、俺たちにはあるだろ」ミナは奥歯を噛み締め、涙をこらえるように小さく、何度も頷いた。「……わかったわ。私が、アンカーのコンソールに就く。……私が、絶対にあなたを、この冷たい世界に引き戻してみせる。だから……」「ああ。逝って、戻ってくるさ」レンはダイブ・ギアのコールドスタートを起動させた。彼の脳髄に、オルドスの巨大マザーボードから、冷徹なまでの高密度パラメーターが直接マージ(同調)されていく。網膜に投影されるシステムログが、青から赤へ、そして未定義の暗黒へと変色する。『警告:観測AI「ヴェルメア」の自己参照フィールドへ接近中。物理座標の崩壊を検知。これより、オルドス作戦コード:ファースト・ダイブを開始します』レンはアリスの面影をどこかに残すダイブシステムを握り締め、フリーズの吹き荒れる、凍てついた荒野の最前線へと、重いブーツの足音を響かせて歩み出した。この任務の先に、彼らを待つ、最も残酷な「自己参照の悲劇」の開幕など、今の二人は知る由もなかった。




