第9話 氷像の沈黙
極東第三セクターの「境界線」は、すでに世界の終わりを告げる色彩に染まっていた。オルドスの装甲車が、キャタピラから不気味な軋み音を立てながら、ひび割れたアスファルトの上で完全に沈黙していた。エンジンはかかっているはずだった。排気筒からは、吐き出されたままの黒煙が、まるで灰色の彫刻のように空間に固定され、風に流されることもなく奇妙な形で静止している。その横では、オルドスの防衛兵が、銃を構えた姿勢のまま、一歩も動けずに立ち尽くしていた。彼の目を見開いた表情も、肌の毛穴に浮かんだ汗の粒も、すべてがすりガラスのような半透明の膜に覆われ、完全に時を止められている。「フリーズ(時間凍結)」の直撃だった。超大国の遺物である高度自律観測AI「ヴェルメア」の、自己参照によるラプラスの悪魔のパラドックス。その論理暴走波がこの物理的現実に触れた瞬間、そこにあるすべての物質は「死ぬ」のではない。ただ、その存在定義の秒数が「強制停止」され、未来へ進む権利を剥奪された絶対的な静止画へと成り果てるのだ。「レン、応答して! そっちのフリーズ・フロント(凍結前線)の伝播速度、さらに加速してる! 秒速六百メートルを突破……もう防衛線の制御盤じゃ演算が追いつかないわ!」脳内に直接響くミナの声は、すでに限界を超えたパニックに陥っていた。アークの地下管制室で、彼女は今、未完成の「ダイブシステム」のコントロールコンソールにしがみつき、血の滲む指先でキーボードを叩き続けている。「ミナ、うるさい」レン・カシマは、激しく荒れ狂う極寒の「ノイズの風」の中に立ち、ダイブ・ギアのソケットを右腕のバイタルポートへ乱暴に叩き込んだ。「あいつらを……これ以上、静止画にさせるわけにいかねぇ。調整が追いつかねぇなら、俺の意識で直接ヴェルメアの観測波動へ潜り込んで、ハッキングで相殺する」「ダメよ、まだアンカーの精神同調が安定していない! 今ダイブ・ギアを無理に同調させたら、あなたの意識の『位置定義』が崩壊して、二度とこの肉体に戻ってこられなくなる!」「じゃあ、目の前のこいつらが、ただ凍りつくのを見てろってのか!」レンは吼えた。彼の「ダイバーの眼」が、不気味な幾何学模様を伴って青白く明滅する。フリーズの濁流が、まるでガラスの津波のように、居住区の防壁を呑み込みながらレンの足元へと迫っていた。触れたアスファルトが次々と灰色に結晶化し、光の反射さえもが固定され、ねじ曲がっていく。「マージ(同期)だ、ミナ! 命綱を引け!」レンがトリガーを引き絞ると同時に、彼の意識は物理的な肉体から強制的に射出され、目に見えない「情報層」の深淵へと沈み込んだ。ヴェルメアの巨大な観測波動をハッキングで食い止めるためだ。抜け殻となったレンの肉体が荒野に立ち尽くす中、彼の漂流する自我を現実世界の物理座標へと繋ぎ止めるため、【ダイブ・アンカー】の極太い光のデータラインが、アークのミナのコンソールへと直結した。情報層の内部で、レンが光の刃をフリーズの濁流へと振り下ろす。激しいエラーの火花とともに、現実世界で迫り来る凍結の波が一瞬、その動きを押し留められた。空間の強制終了と、自己参照の静止が、境界線の上で激しく火花を散らして衝突する。「ぐ、あああああああ!」レンの右腕の、ただれた「火傷痕」が、耐え難い高熱を帯びて激しく疼いた。情報層において、ヴェルメアの巨大な観測眼に見つめられ、その存在定義をハッキングによって上書きしようとする反動が、ダイブ・アンカー越しに脳と肉体を引き裂こうとしていた。それでもレンは、一歩も退かなかった。「ネオ・エデン」を壊して何千万人もの夢のバイタルを奪ってしまったあの事故。その暗いトラウマが、彼の自我を泥臭く縫い止めていた。もう、誰も目の前で奪わせない。その執念だけが、彼の意識を支えていた。「レン、持ちこたえて! 今、オルドスのバックアップ回線を使って、ヴェルメアの観測論理に干渉パッチを流し込む……!」ミナの、必死にキーボードを打つ爪が割れ、血が飛び散る駆動音がアンカー越しに伝わってきた。だが、次の瞬間。アークの、ミナのいる側の空間が、不気味な「カチリ」という金属音を立てて激しく震えた。「――え?」ミナの、掠れた声が聞こえた。「ミナ? おい、どうした! 応答しろ!」「嘘……そんな、アークの内部に直接、ヴェルメアの自己参照波が転送されてきてる……? ロックされているはずの、セクターゲートが……カチ、カチって……」レンは情報層の中で息を呑んだ。ヴェルメアは、フリーズを最前線で防ごうとするダイブシステムの「頭脳」であるミナを、真っ先にシステムエラーとして排除に指定したのだ。「ミナ! 逃げろ! コンソールを捨てて、アークから這い出せ!」「できない、できないわよ! 今私がコンソールを離れたら、アンカーが切れて、あなたの意識はフリーズの渦の中に置き去りになって消えちゃう……!」「構うな! 俺のことはいい、走れ!」レンは情報層の中から、現実世界のミナとのアンカー回線を自らハッキングして叩き切ろうとした。だが、オルドスの強固な暗号化回路で保護されたダイブシステムは、レンの内部からの切断を『異常行動』として虚しく弾き返した。そして、通信の向こうから。カチ、カチ、カチ、という、世界が凍りつくあの最悪の「論理の摩擦音」が、恐ろしい近さで響き渡った。「……あ」ミナの、小さく短い、震える息遣い。「レン……。私の、手が……」「ミナ! ミナ!!」「キーボードが……打てないの。指が、冷たくて、動かない……。ううん、冷たいんじゃない。……私の指の『位置』が、システムに固定されていくの。……光が、灰色に……」「アンカーを切れ! ミナ、切るんだ!」レンは情報層で泣き叫んだが、どんなに彼が抗おうとも、数キロ先のアークの最深部で静かに這い上がる「ヴェルメアの観測」の速度には、到底追いつかなかった。「レン……ごめんね」ミナの声が、徐々に低く、カクカクとした電子ノイズのように変調していく。彼女の思考の演算周波数が、フリーズによって強制的に低下させられているのだ。「私……あなたを……救えて……た、かな……」「ミナ! 喋るな! 思考を止めるな、抗え!」「ネオ・エデンの……酸性雨、もう一度……見た、かっ……た……な……」通信の奥で、カチリ、と。完全に、世界のすべての因果の接続が断ち切られた、決定的な「静止音」が響いた。それと同時に、レンの自我を現実に繋ぎ止めていたダイブ・アンカーの光のラインが、淡い灰色のノイズとなって、ぼろぼろと崩れ落ち、消え去った。「――あ」情報層の深淵で、レンの意識が急速に解像度を失っていく。帰るべき肉体の座標を見失い、彼の自我が、凍てつく時間の底へとドロドロに溶け出していく。このままデータの塵となって永遠に静止するのだと、彼自身が悟ったその時だった。絶対的な虚無の暗闇の中に、眩い純白の光の粒子が舞った。冷たく、しかし確かな感触を持つ小さな手が、消失しかけていたレンの自我を、強く握りしめたのだ。「……アリス、なのか?」情報層の闇の中に、銀色の髪を揺らす少女が浮かび上がっていた。彼女のオリジナル・ログを用いてダイブシステムが完成したことで、彼女自身もまた、システムと完全に同期した「独立ナビゲーター」として再構築されていたのだ。「ミナのアンカーロストを確認。……これより、私が、あなたの新しい『命綱』となります」アリスがレンの腕を力強く引いた瞬間、光の奔流がレンの意識を包み込んだ。「が、はっ……!」極寒の風が、頬を灼いた。レンは、荒野の泥の中に両膝をつき、激しく咳き込んでいた。肺に冷たい空気が流れ込む。彼は、情報層の深淵から、現実世界の「肉体」へと強制的に引き戻されたのだ。「はぁ……はぁ……ミナ、ミナ!」レンは顔を上げ、数キロ先のアークの施設へと視線を向けた。だが、そこにあったのは、すべての動きを止め、不気味に輝く巨大な灰色の氷像となって沈黙するドームの残骸だった。その最深部で、ミナは今、キーボードに手を置いた姿のまま、未来を永遠に剥奪された「オブジェクト」として凍りついている。ダイブシステムを完成させ、必死に抗い、足掻いた結果が、これだった。レンの傍らで、淡い光の粒子が収束し、一人の少女の姿を結んだ。ダイブ・ギアから現実世界へと直接投影された、しかし物理的な質量すら感じさせるほど精緻なアリスの姿だ。彼女は静かに、凍りついた世界を見つめていた。「……終わったのかよ」レンの口から、乾いた、低い笑い声が漏れた。それは、彼の中に残っていた最後の人間性が、音を立てて粉々に砕け散った音だった。彼は、震える左手でポケットを探り、湿りきった一本の煙草を取り出した。何度もライターを擦るが、指先が激しく震えて、火が点かない。四度目、ようやく点いた小さな赤い火種を見つめ、レンは肺の奥が裂けるほど深く、煙を吸い込んだ。煙はただ、冷たい空気の中に、灰色に虚しく溶けていく。「何がダイブシステムだ……誰も、救えねぇじゃねえか……」ネオ・エデンでも。そして、この残酷な現実世界でも。レン・カシマは、ただ一人として、自らの大切な人間を救い出すことができなかった。彼は、冷たい泥の中からダイブ・ギアを拾い上げた。そして、傍らに立つアリスを一瞥する。これから彼は、過去の歴史を書き換えるためだけに、この少女と共に、終わりのないダイブを繰り返すことになる。二度と、誰も救おうとなんてしない。二度と、世界の理なんかに期待はしない。生きていることの苦痛をかき消すためだけに、ただ自らの身を削り、死に場所を求めて荒野を彷徨う――。自暴自棄という名の絶対的な虚無へと墜ちた、ただの亡霊が、ここに誕生した。
(アボートレイヤー編 完)




