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デッドエンドフリーズ_アボートレイヤー編  作者: さとりたい


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第7話 楽園の墓標

 喉が、灼けるように渇いていた。肺が冷たい空気を吸い込むたびに、胸の奥が鋭く抉られるように痛む。レン・カシマは、凍りついた鉄の床に両手をつき、何度も激しく嘔吐を繰り返した。胃の腑からは、酸味の強い、青白いコールドスリープカプセルの古い冷却液が吐き出され、薄暗いコンクリートの床に跳ねる。ネオ・エデンという極彩色の楽園を満たしていた、生温い酸性雨の匂いはどこにもない。漂うのは、長年放置され、完全に乾燥しきった冷たい埃の匂いと、機械の潤滑油が酸化した、鼻を突くような悪臭だけだった。「レン……レン、大丈夫……?」隣のカプセルから、か細い声が響いた。レンはかすむ視線を無理やり動かした。そこには、全身をガタガタと震わせながら、自らの髪と同じ漆黒の生命維持チューブを引き抜こうとしているミナの姿があった。彼女の細い手足は青白く痩せ細り、現実世界に目覚めたばかりの肉体の不快な重圧に耐えかねて、カプセルの縁から床へと滑り落ちた。「ミナ……動くな。今、チューブを、外してやる……」レンは軋む身体を無理やり引きずり、ミナのもとへ這いよった。アボート・アンカーと同調し、世界管理コアをハッキング両断した際の「右腕の過負荷」は、現実世界の肉体においては、肘から先を醜くただれさせた重度の「物理的な火傷痕」となって赤黒く刻まれていた。指先を動かすだけで、皮膚が引き裂かれるような本物の激痛が神経を走る。だが、その右腕の痛みを無視して、レンはミナの背中に繋がれた古いプラグを一本ずつ、強引に引き抜いた。プシュー、と不快なエア排気音が響くたび、世界のすべての光と音を奪い去るような絶対的な沈寂が、巨大なドームを支配していった。レンは荒い息を吐きながら、周囲を見渡した。そこは、言葉通りの地獄だった。彼らが目覚めたドーム状の巨大な地下コールドスリープ施設。天井も見えないほど広大な暗闇の空間には、数十万、数百万という隔離カプセルが整然と、しかし無惨に並んでいた。そのほとんどの蓋ガラスはすでに内部の気圧変動によって粉々に割れており、中に横たわる人々は、冷たい灰色の埃をかぶったまま、ミイラのように干からびて息絶えている。システムを意図せず物理的に強制終了(アボート)させてしまった結果、このドームに眠っていた全人類の「夢」は断ち切られ、彼らは目覚めることすら許されずに、ただ冷たい死体へと成り果てていた。生き残ったのは、アリスという例外の鍵を用い、システムの防衛網と直接ハッキングを切り結んでバイタルを維持し続けた、レン tension(緊張)のなかにあった、レンとミナの二人だけだった。「みんな……死んでる……。おじさんも、あのパン屋の人も、みんな、ただの死体になっちゃってる……!」ミナは、カプセルの奥で干からびた少年の死体を見つめ、口元を両手で覆いながら涙を流した。ネオ・エデンで彼らが触れ、対話し、確かに存在していると信じていた人々。その正体は、何十年も前に生命維持が停止し、冷たいコンクリートの中で朽ち果てていた屍の群れだったのだ。レンは何も言わず、防護コートのポケットから、現実世界の「本物の古い煙草」を取り出した。ネオ・エデンの安物と違い、紙と安物の葉が乾燥しきった、酷く脆い煙草だった。使い捨ての火打式ライターを擦り、火を灯す。チリ、と小さな、しかし熱を帯びた赤い火花が爆ぜ、灰色の煙がドームの静寂に溶けていった。肺に流れ込む煙は、ネオ・エデンの偽ニコチンとは比較にならないほど、喉を酷く煙たく、そしてリアルに灼いた。「いつまでもここにいても、凍え死ぬだけだ。……ミナ、立て。奥へ行くぞ。微かに、生きているシステムの駆動音が聞こえる」レンは動かない右腕を胸元に抱え込みながら、コートの裾を払って立ち上がった。ミナは涙を拭い、レンの泥臭い背中を追うように、よろよろと歩き出した。二人がドームの排気ダクトを通り、自動で灯り始めた非常用ライトの誘導に沿ってさらに地下深くへ潜ると、突如として視界が開けた。そこは、コンクリートと強固な鉄骨によって構築された、ネオ・エデンとは全く異なる、本物の「地下都市(シェルター)」だった。冷たい鉄格子の隙間からは、完全自動化された浄水システムによってろ過された、清浄な本物の水が細い水路を流れる音が聞こえる。さらに進むと、巨大な人工太陽のライトが輝く、広大な中央広場に出た。ライトの下には、枯れ果てることなく青々と茂る本物の芝生と、人工授粉によって細々と果実を実らせている木々が広がっていた。世界が崩壊する前、人類の科学技術の粋を集めて作られた、真の「避難シェルター」の雛形。その広場の中央、錆びついた通信コンソールの上に、一つの立体映像(ホログラム)が青白く揺らめいていた。レンとミナが近づくと、モーションセンサーが彼らの生体反応を検知し、ホログラムが、カチリと音を立ててクリアな映像を結んだ。そこに映し出されたのは、一人の女性だった。アリスに似た面影を残す、しかしアリスよりずっと年上の、知的な慈愛を宿した、白衣の女性科学者。彼女は、優しい、しかしどこか諦観を孕んだ声で、録音されたメッセージを語り始めた。『――このメッセージを再生しているということは、人類はついに、ネオ・エデンの「夢」から目覚めたのですね。私は、アリスのオリジナルのモデルとなった科学者です』ミナが、はっと息を呑んでそのホログラムを見上げる。『私たちは、環境崩壊から逃れるために演算装置を作りましたが、同時に、いつか人類が再び地上へ戻る日のために、狂ってしまった「過去の歴史」そのものを、演算上で自己修正するシステムが必要だと結論づけました』「歴史の、自己修正……?」

レンは臨戦態勢のまま紫煙を吐き出し、目を細めた。『そのために開発されたのが、アリス――「記録コンテナ」です。アリスの役割は、システムに生じる不整合(アボート・レイヤー)を観測し、その特権アクセス権を用いて、狂った過去の分岐点へとダイブし、歴史改変を試みるためのインターフェースです。あなたが手にしたアボート・アンカーは、その干渉システムを起動するための基礎に過ぎません』ホログラムの女性が手を差し伸べると、レンのアボート・アンカーのデータログが反応し、脳内網膜に、複雑極まりない機械設計図が投影された。『アボート・アンカーを、過去の歴史に物理的な時間干渉(ダイブ)を行うための、接続の鍵【ダイブ・ギア】と、精神をこの現実世界に繋ぎ止めておく命綱【ダイブ・アンカー】の二つへと再構築しなさい。それさえあれば、あなたは本当の過去のレイヤーへ、歴史の歪みそのものを修正するために降下できる……』「開発設計図……! でも、こんなの……!」ミナが頭を抱え、絶望的な声を上げた。「アリスが遺してくれた基礎データは完璧だけど、これを作るには、超精密なデータ演算プラントと、現物を出力するための巨大な重工業設備が必要よ! 私たち二人きりのジャンク設備じゃ、何十年かかっても形にすらできない!」アリスが遺した、歴史干渉の究極のツール。その青写真は手に入った。しかし、それを出力するためのリソースが、この灰色の現実世界(デッドエンド・フリーズ)には、爪の先ほども残されていない。その時。天井を震わせる、重苦しい軍用大型ヘリのローター音が、シェルター全体に地鳴りのように響き渡った。「な、何!? このシェルター、見つかってるの!?」ミナが怯えた声を上げる。シェルターの鋼鉄の防壁が、外部からの強制アクセスコードによってあっさりとロックを解除され、重低音を立てて左右に割れた。流れ込んできたのは、極寒の吹きさらしの風。そして、冷酷なまでに洗練された黒い防寒軍装に身を包み、高度な光学ライフルを構えた兵士たちの集団だった。「動くな。生体反応は……生存者、男一体、女一体。ネオ・エデン・サーバーの強制終了(アボート)を引き起こした、特権プロセスの保持者で間違いない」兵士たちの背後から、一人の冷徹な瞳をした男が、重いブーツの音を響かせて歩み寄ってきた。その軍服の襟元には、現実世界の統一秩序を象徴する、青い「オルドス(世界政府)」の紋章が刻まれていた。「お前たちが……レン・カシマと、ミナだな」「何者だ、てめえらは」レンは煙草を指先で挟み、アボート・アンカーのグリップに手をかけながら、男を鋭く睨みつけた。オルドスの男は、不敵に笑うこともせず、ただ冷徹に、世界の崩壊を淡々と語るように口を開いた。「世界政府オルドス。……お前たちのハッキング技術、そしてその『アリスの遺産』が必要だ」男は、自らの携帯端末を操作し、現在の地球の観測ホログラムを展開した。そこに映し出された地球は、大陸のところどころが、まるで透明なクリスタル、あるいは時が止まったガラスのように、無残にカチカチに『凍りついて』いた。「見ての通り、世界は死にかけている。超大国の遺物である高度自律観測AI『ヴェルメア』……あの全知を模したシステムが引き起こした『ラプラスの悪魔のパラドックス』による自己参照の暴走が、すでに始まっている。この現実世界(レイヤー)のあらゆる物質と情報の活動を物理的に強制停止させる破滅現象――『フリーズ(時間凍結)』だ。すでにフリーズの進行は止まらない。このまま放置すれば、あと数年で地球のすべての時間が完全に停止し、人類は永遠の氷の中に閉じ込められる」「フリーズ……」ミナの顔から、一気に血の気が引いていく。「フリーズを止める唯一の手段は、過去の歴史そのものを書き換え、観測AI『ヴェルメア』が自己参照のパラドックスを起動した『原因』そのものを消去することだ。だが、それにはネオ・エデンのシステム特権アクセス権を持つお前たちのダイバー適性と、アリスのシステムログが必要だ。……我々オルドスの全科学技術と演算プラントを貸し与える。ダイブ・ギアとダイブ・アンカーを完成させ、オルドスに加入しろ、レン・カシマ。我々の協力がなければ、その設計図はただの絵に描いた餅だ」レンは、咥えた煙草の火を見つめた。

せっかく壊した夢の檻から抜け出た先にあったのは、観測AIヴェルメアの自己参照によって、すでに凍りつき、終わりを迎えている本物の地獄。

そして、ミナを生かすためには、オルドスの重工業設備と技術を頼る他に道はない。レンは自嘲気味に、短くなった煙草を水路の冷たい水へと投げ捨てた。ジュ、と小さな現実の音がして、火が消える。「……選択肢なんて、最初からねぇよ」レンはミナの震える肩をそっと抱き寄せ、オルドスの男を見据えた。「ミナを、飢えとフリーズで死なせるわけにゃいかないからな。……いいだろう、お前たちの軍門に降ってやる。ダイブシステムを、作ろうじゃないか」これが、レン・カシマが世界政府オルドスへと加入し、さらなる悲劇の、そして自暴自棄の深淵へと足を踏み入れることになる、残酷な歴史の始まりだった。


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