##第7話 スラム・ゼロ
爆煙が廃工場の冷え切った空気を切り裂き、瓦礫が乾いた音を立てて床に転がった。
立ち込める塵の向こう側に、赤く不気味なモノアイが点灯する。それは治安維持局が誇る対人・対ダイバー用自律兵器「執行官」の光学センサーだった。
人型をベースにしながらも、関節は逆向きに曲がり、四肢は刃物のような鋭利な装甲で覆われている。その姿は、ネオ・エデンの秩序を維持するために造られた「鋼鉄の死神」そのものだった。
「……ミナ、裏の搬入口へ。アリスを連れて行け」
レンは低く、押し殺したような声で告げた。右腕のアボート・ギアが過負荷で悲鳴を上げ、皮膚に食い込む接続端子が火を噴くような熱を放っている。
「バカ言わないで! あんな化け物、生身の人間が相手にできるわけないでしょ!」
ミナが叫ぶが、レンは動かない。彼の視界はすでに、現実の風景を透過していた。
アリスとの接触を経て変質したレンの脳は、執行官から発せられる制御信号、駆動系のノイズ、そして周囲の空間に漂う微細な電子の揺らぎを、視覚的な「糸」として捉えていた。
「ターゲット、敵対行動を確認。……排除レベル、最大」
執行官の音声合成器が、感情を削ぎ落とした音を吐き出す。
次の瞬間、執行官の巨体が視界から消えた。超高圧の油圧プレスが作動するような駆動音と共に、一足飛びでレンの懐へと踏み込んできたのだ。
鋼鉄の拳が、レンの頭部があった場所を粉砕する。コンクリートの柱が紙細工のように弾け飛んだ。
だが、レンはそこにいなかった。
彼は最小限の動きで攻撃を回避し、執行官の死角へと滑り込んでいた。
(見える……。こいつの動きの『先』が、データの奔流として流れてくる)
レンの右腕、青白く発光する血管が脈動するたびに、彼の思考速度は加速し、世界はスローモーションへと変わっていく。
彼はアボート・ギアの強制出力スイッチを叩き入れた。
「アリス、力を貸せ。……こいつの『殻』を剥ぐ」
背後にいたアリスが、静かに瞳を閉じる。
「承知しました。……同期、開始。プロトコル・オーバーライド」
アリスの指先が虚空をなぞると、執行官の装甲表面に幾何学的な光の紋様が浮かび上がった。
それは、ネオ・エデンのいかなるハッキング技術とも異なる、物理法則そのものを書き換えるような干渉だった。
執行官の動きが、一瞬だけ硬直する。
その隙を、レンは見逃さなかった。
彼は地面に転がっていた鉄筋を拾い上げると、侵食の力を乗せて全力で突き出した。
本来なら鋼鉄の装甲に弾かれるはずの細い鉄棒は、アリスによって脆弱化された装甲をバターのように貫き、執行官の動力源である核へと達した。
内部で電子火花が散り、執行官が狂ったように暴れ出す。
レンは追撃の手を緩めず、至近距離からダイブ・ギアの過負荷衝撃波を叩き込んだ。
「消えろ……!」
轟音と共に、執行官の頭部が内部から爆発した。
巨躯が膝をつき、沈黙する。廃工場に再び静寂が訪れたが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
「……やったの?」
ミナが震える声で尋ねる。
「いや、これは先遣隊に過ぎない。すぐに増援が来る」
レンは鉄筋を捨て、激しく震える右腕を左手で押さえた。
侵食の力を使った代償は小さくない。視界の端が黒く染まり、耳の奥では無数のノイズが「もっと深淵へ(ダイブ・ディーパー)」と囁き続けている。
だが、アリスが彼の手にそっと触れると、その不快な感覚は不思議なほど穏やかに鎮まっていった。
「レン、あなたの負荷は私が肩代わりします。……今は、ここを離れなければなりません」
アリスの言葉に従い、一行は工場の裏手へと急いだ。
外には、ミナが用意していた旧式の自律走行車が待機していた。
ネオ・エデンの管理ネットワークから切り離された、スクラップ寸前の代物だ。今の彼らにとって、これ以上に信頼できる足はなかった。
車に乗り込み、ミナがアクセルを踏み込む。
背後では、数条のサーチライトが夜空を切り裂き、治安維持局の大型飛行艇が工場へと迫るのが見えた。
「これからどうするの? レンのIDは焼かれたし、アリスは……その、歩く国家機密みたいなもんでしょ。どこへ逃げても、管理者からは逃げられないわよ」
ミナがハンドルを握りながら、悲痛な声を上げる。
レンは窓の外を流れる、ネオ・エデンの華やかな上層階の光を見つめた。
空に浮かぶ巨大なホログラム広告は、幸福と安全を謳い続けている。だがその足元では、侵食という名の「真実」が、確実に世界を喰い破っていた。
「行く場所は決まっている。……『スラム・ゼロ』だ」
レンの言葉に、ミナが絶句した。
「正気!? あそこは侵食が最も激しい、廃棄されたセクターよ。あそこに入って戻ってきた人間なんて……」
「あそこなら、管理者の目も届かない。それに……」
レンは隣に座るアリスを見た。
彼女は、自分の手のひらを見つめながら、何かに怯えるように指先を震わせていた。
「アリスが言ったんだ。この世界は死に向かっていると。……もしそうなら、その死がどこから始まっているのか、確かめる必要がある」
アリスがゆっくりと顔を上げ、レンを見つめ返した。
「スラム・ゼロ……。そこには、私の『最初の欠片』があるかもしれません。……レン、私を連れて行ってくれますか? この夢が終わる場所へ」
レンは力強く頷いた。
彼の中にあった、しがないダイバーとしての諦念は、すでに消えていた。
右腕の痛みは、今や彼が生きている証であり、この狂った世界に抗うための唯一の武器だった。
車は、ネオ・エデンの外縁部、光の届かない闇の深淵へと突き進んでいく。
背後の追っ手は、未だに止まる気配を見せない。
空には、本来存在するはずのない「二つの月」が、侵食のノイズによって歪みながら浮かんでいた。
それは、世界の境界が崩れ始めている何よりの証拠だった。
レン・カシマの物語は、ここから加速していく。
一人のダイバーと、実体を持たぬ少女。
彼らの逃避行は、やがてネオ・エデンの神話そのものを覆す、叛逆の旅路へと変わっていくことになる。
「……準備はいいか、アリス。ここから先は、もう戻れないぞ」
「はい。……あなたの魂の行く先が、私の居場所ですから」
闇の向こう側から、新たな侵食の咆哮が聞こえてきた。
レンは静かに目を閉じ、意識を「深淵」のさらに先へと研ぎ澄ませた。




