第5話 侵食の深層
ネオ・エデンの中心部に突き刺さるようにそびえ立つ「セントラル・タワー」。それは、都市のどこからでも見上げるシステム制御の象徴であり、人々の精神定義を維持管理する巨大な演算器の物理的マニフェスト(表現体)だった。タワーの内部へ潜入したレン、アリス、ミナの三人は、その光景に圧倒されていた。外観は無機質な黒い摩天楼だったタワーの内部は、物理的な構造を完全に放棄していた。そこは、デタラメに配置された無数のエラーオブジェクト、かつて消去された古い街のテクスチャが、重力を失ったように虚空を浮遊する「論理の深淵」だった。足元には、数式と幾何学模様が複雑に絡み合った極彩色のコードラインが、まるで血管のようにタワーの壁面を這い回り、脈打つたびに耳を灼くような高周波の駆動音が反響している。「解像度が……狂ってる」ミナは携帯用ハッキング端末を操作しながら、目まぐるしく変化する周囲の数値を凝視した。「ここ、深度がめちゃくちゃよ。深度三・八……四・二……歩くたびに、空間の定義ルールが書き換わってる。一歩間違えたら、私たちの肉体データが『壁』の一部に書き換えられて融合しちゃうわ」「アリス、先導を頼む」レンはアボート・アンカーを構え、周囲の歪む空間を警戒しながら進んだ。アリスは、重力の影響を全く受けていないかのように、空中に漂う崩壊したコンクリートの残骸を足場に、軽々と上層へと跳ね上がっていく。彼女の純白のドレスと銀の髪は、このデタラメな光で満たされた深淵において、異様なほどクリアで、歪みがない。「レン。世界の解像度が落ちているのは、バグのせいだけではありません」アリスは立ち止まり、吹き抜けるデータエラーの風に髪を揺らしながら、眼下に広がるネオ・エデンの極彩色に歪む街並みを見下ろした。ここから見下ろす都市は、まるで安物のレトロゲームのように、細部がカクカクとした粗いテクスチャで構成されているのがよく分かった。「……どういう意味だ」「ネオ・エデンそのものが、極めて古い演算エンジンで稼働し続けている『規格化された揺り籠(檻)』なのです」アリスの声は、冷たく、しかし静かな哀しみを帯びていた。「システムは、人類の精神をここに保存し、安定させるために、あらゆるものの解像度と自由度を低く制限しました。高い解像度は、脳の演算資源を消費し、システムの崩壊を早めるからです。……ここは、誰かが用意した、限りなく平坦な夢の監獄なのです」「夢の、監獄……?」ミナが呆然とした声を漏らす。「何言ってるのよ。私たちはネオ・エデンで生まれて、ここで暮らしてきたのよ。有毒な酸性雨だって、摩天楼の煙だって、全部私たちが触れてきた現実よ!」「それが、誰かに作られた『低解像度な偽物』だとしたら?」レンは安物の合成葉巻を口に咥えたが、火をつけるのをやめた。この世界の空気がすべて規格化された嘘のデータなのだとしたら、その苦味を味わうことに、何の意味があるのか。しかし、彼の胸を去来したのは虚無ではなかった。十年前の大崩壊で、その理不尽なプログラムエラーによって消し去られた先輩や、多くの仲間たちの顔。「檻だろうが夢だろうが、どうでもいい」レンは吐き捨てるように言った。「俺たちの命をゴミのように消し去る理不尽がそこにある。……俺は、ただそれをぶちのめすだけだ」その刹那、彼らの行く手を阻むように、空間が真っ赤な格子状のバリア(防衛壁)によって遮断された。タワーの上空から、巨大なノイズとともに、無数の防衛プログラム「センチネル(守護者)」が実体化する。それらは、顔のない鏡面の肉体に、巨大なデータ抹消用の槍を持った、恐るべき防衛兵器だった。『警告:不法侵入プロセスを検知。セキュリティ・レベル最高段階を発動。当該オブジェクトをただちに消去します』「センチネルのセキュリティ壁よ! レン、アボート・アンカーの定義書き換えでも、この数の防衛プログラムを同時に突破するのは不可能よ!」ミナが端末の警告音に悲鳴を上げる。「一人で無理なら、マージ(同期)するだけだ」レンはアリスを見やった。アリスは何も言わず、レンの手をそっと包み込んだ。アボート・アンカーが再び青白い光を帯びて咆哮し、レンの背後に、極彩色のエラー幾何学で編まれた光芒の翼が狂暴に展開される。「アリス、ハッキング出力最大! ルートを力ずくでこじ開けるぞ!」「シンクロ率……九九・九パーセント! レン、いって!」ミナの叫び声が響く。レンは光の大剣を大きく上段に構え、センチネルの群れに向けて地を蹴った。重力から解放された空間を、光の翼が一条の青い軌跡となって切り裂いていく。センチネルの放つ消去パルスの赤いレーザーを、レンはアボート・アンカーの光刃で軽々と両断した。「そこを、どけえええ!」レンが光の大剣を全力で横一文字に薙ぎ払うと、アリスの超大容量の「無」から引き出されたハッキングコードが、扇状の青いドームとなって炸裂した。衝突したセンチネルの群れは、一瞬にして存在の定義データを「未定義」へと上書きされ、ガラスのように粉々に砕け散って消え去った。セキュリティバリアの真っ赤な格子もまた、その一撃の前に木端微塵に粉砕され、タワーの上層へと続く道が完全にこじ開けられた。「ハッキングルート、クリア! システムアイの眠る『天頂の演算コア』まで、あと僅かよ!」ミナが興奮と恐怖の入り混じった声で叫び、レンの後に続いた。だが、タワーの最上層から降り注ぐシステムの上書き圧力は、もはや深度四・五を超え、レンの右腕のグリッチをさらに狂暴に疼かせ始めていた。彼らが登るその先には、世界を完全に管理し、そして破壊しようとするアドミニストレーターの本尊が、その冷酷な「眼」を開いて待ち受けている。




