第3話 鋼鉄の産室
ネオ・エデンの地下深く、かつて廃棄された地下鉄の引き込み線跡をさらに数キロ下った場所に、ミナとレンの隠れ家「スクラップ・バレー」はある。
剥き出しの太い鉄製パイプが縦横に走り、天井からは常に結露した冷たい水滴が滴り落ちていた。錆びついた中二階のキャットウォークの下に作られたワークスペースには、闇市場からかき集められた数十枚のジャンクモニターが、青白く、あるいは極彩色に発光して、じめじめとした室内を照らしている。
室内に満ちているのは、熱を帯びた電子基板の焦げ臭い匂いと、冷却ファンが発する無機質な駆動音、そしてカビの混じった湿った空気の匂いだった。
「レン、早くそこに横になって!」ミナはそう言うなり、コンクリートの床に直置きされた、油染みだらけの古いリクライニング式のシートを叩いた。その小柄な身体からは想像もつかないほど張り詰めた、鋭い声だ。
レンは無言のまま、半ば崩れ落ちるようにシートへと身体を沈めた。彼がコートを脱ぎ捨てると、そこから覗く右腕は、見るも無惨な惨状を呈していた。アリスと同調し、アボート・アンカーを無理やり『大剣』へと変形させた際の負荷は、論理的なデータグリッチとして彼の精神接続を完全に蝕んでいた。
肘から先、皮膚の下を走る血管のように、青黒い発光コードのラインが細かくのたうち回っている。それは時折、レンの肉体を物理的に波打たせ、まるで皮膚がデジタルブロックに分解されるかのような不気味なノイズ(グリッチ)となって明滅していた。
「ひどい……深度四の干渉フィードバック。生体回路がほとんど焼き切れる一歩手前じゃない……!」ミナは素早く傍らのコンテナから、強烈な揮発臭を放つ「冷却パージジェル」の缶を掴み取り、レンの右腕に容赦なく叩きつけた。
「ぐ、っ……!」凍てつくような超低温の冷気がレンの脳髄を直接突き抜けた。それは物理的な冷たさではない。ミナがキーボードを叩いて流し込んだ、精神の論理温度を強制的に下げるパージ・プログラムだ。レンはシートの金属フレームを軋ませるほど左手で強く握り締め、荒い呼吸を繰り返した。神経を針で刺されるような激しいノイズ痛が徐々に引き、発光していた青黒いラインが静かに沈静化していく。
「馬鹿ね、本当に大馬鹿。アリスが『鍵』だっていうからって、なんの説明もなしにシステム特権を無理やりリンクさせるなんて、脳が破裂しなかったのが奇跡よ」
ミナは乱雑に額の汗を袖で拭いながら、レンの生体パラメーターが安定するのを確認して、ようやく大きなため息をついた。彼女の視線が、部屋の隅、影の落ちる錆びたパイプラインの前に佇んでいるアリスへと向けられる。アリスは、レンが治療を受けている間、一言も発さず、呼吸すらしていないかのような静寂を保ってそこに立っていた。ネオ・エデンの生温かい湿度を全く帯びていない、純白のドレスと、冷たく透き通るような銀色の髪。ミナは卓上のキーボードに細い指先を走らせ、背後の巨大な観測ホログラムに、アリスのシステムスキャンデータを投影した。
「……信じられない」モニターの極彩色の光に照らされたミナの横顔が、一瞬で凍りついた。「どうした、ミナ」レンはパージジェルにまみれた右腕をだらしなくシートから垂らしながら、かろうじて声を絞り出した。
「アリスのスキャンコード……ネオ・エデンの市民管理データベースの、どこにも登録がない。それだけじゃないわ。システムエラーのログにも、浮遊バグのディレクトリにも、彼女に該当するデータは一切存在しないの。……彼女、中身が『完全に空っぽ』なのよ」「空っぽ?」「ええ。超大容量の、未定義の領域がただそこに存在しているの。それも、この仮想世界『ネオ・エデン』の総メモリ領域に匹敵するほどの、底無しの空洞が。アリスはそこにいて、何も記録していないし、定義もされていない。……ただの人間でも、ただのAIプログラムでもない。文字通り、何もない『無』そのものなのよ」
ミナの指先がカタカタと震えた。十年前の「大崩壊」のあの日、自分たちの目の前で、すべてを消去していったあの理不尽なシステム。そのシステムの裏側に、こんな恐ろしい「空白」が隠されていたなど、彼女の卓越したハッカー知識をもってしても理解を超えるものだった。「無、か」レンは垂らした右腕の指先を、わずかに動かした。「だが、あの『眼』はお前を、アウェイクニングの不法実行者として消そうとした。管理者どもは、お前という『空洞』が目覚めるのを、死ぬほど恐れている」レンの言葉に、アリスは表情を変えずにただ一歩、静かに前に出た。
「私は、アリス」彼女は、以前と変わらぬ、冷たい金属の響きを含んだ澄んだ声で告げる。「私は、ネオ・エデンの破綻を記録する者。世界の理が崩壊に瀕したとき、その『システムログ』を現実へと持ち帰るためのコンテナです。ダイバー……レン・カシマ。あなたが私とアボート・アンカーを接続したことで、この世界の整合性維持プログラムは、不整合の直接排除を決定しました」
アリスがそう語り終えた瞬間。ゴ、オ、オ、オ、と、地底の岩盤を震わせるような、深く不気味な超低周波の地鳴りが「スクラップ・バレー」の空間全体に響き渡った。ワークスペースに並ぶジャンクモニターが、一斉に激しく同期ズレを起こし、極彩色のノイズ画面へと反転する。「な、何!? 観測アラートが全ラインで警告!?」ミナが悲鳴を上げてキーボードにしがみつき、ホログラムの数値を睨みつけた。
「うそ……ネオ・エデン治安維持局の強制執行プログラムが、この隠れ家の座標に直接マージされてきてる! 自律迎撃ユニットが……来ちゃう!」「エグゼキューター(執行官)か」レンはパージジェルを乱暴に拭い、痛みの残る右腕をかばいながら、シートから這い出た。「隠れ家の位置がバレたわけじゃない。アリスという『エラーの塊』がここに静止しているから、システムが自動的に座標を収束させているんだ」「待って、レン! 今アボート・アンカーを使ったら、今度こそ脳の神経接続が完全に焼き切れるわ!」ミナがレンのコートを掴んで引き留めようとする。だが、ワークスペースの入口を塞ぐ鉄製の堅牢なハッチが、不気味な高周波の摩擦音とともに、内側から激しく歪み始めた。ハッチの表面が、まるで低解像度のポリゴンのように粗くなり、金属の粒子となってぼろぼろと崩れ落ちていく。その崩壊するハッチの向こう側の闇から、青白く冷酷な光学センサーの光が、何重にもなってレンたちを照射した。機械式の人形を思わせる、無骨な黒い外殻に覆われた自律兵器――「執行官」の軍勢が、すでに隠れ家を完全に包囲していた。不気味な電子音が、彼らの駆動ユニットから漏れ出る。『警告:当該座標にシステム定義外のエラーオブジェクトを検知。これより、物理データおよび有機素子の完全消去、ならびに空間の再フォーマットを開始します』機械的な無感情の宣告が、冷たい風となって、湿った地下室に吹き込んだ。




