第2話 特異点の鍵
暗いノイズにまみれた視界の真ん中に、血のように赤いシステムダイアログが直接投影される。『警告:不法プロセス「アウェイクニング(接続承認)」の実行を検知。直ちにシステム整合性維持のため、当該座標の強制初期化および対象データの完全消去を実行します』その非情なログが明滅した刹那、天頂の「眼」が赤黒く変色し、地上へ向けて空間の全定義を強制上書きする「抹消コード」の濁流を激しく放射した。十年前の「大崩壊」――。突如として視界を過ったのは、脳髄の奥底に焼き付いて離れない、あの地獄のフラッシュバックだった。吹き荒れる極彩色のノイズの嵐。悲鳴を上げることすら許されず、灰色の立方体へと融解していくかつてのダイバーの仲間たち。「レン、逃げろ……!」引き裂かれる空間の向こうで、必死に手を伸ばした先輩ダイバーの顔が、無慈悲なエラーコードの羅列に上書きされて消去されていく。何もできなかった。救おうと伸ばした右腕を、暴走した定義データの書き換えフィードバックが直撃し、脳の神経接続を通じて骨まで届くほどの焦燥を、生涯消えない「バグの痕(火傷)」として焼き付けた。あの日も世界は、ただ冷酷に『バグ領域の塗りつぶし(フォーマット)』を実行しただけだったのだ。システムにとってそれは、単なる「データ領域の塗りつぶし」に過ぎない。だが、その強制書き換えの赤黒い光が触れた周囲のビル群は、まるで消しゴムで削り取られるようにデジタルノイズの塵となって跡形もなく融解していく。眼下の路地では、逃げ惑い、データの崩壊を免れていた市民たちが、悲鳴をあげる暇すら与えられず光に呑まれ、一瞬にしてノイズの塊へとフォーマットされて消えていった。目の前で一方的に、ゴミのように命を、街を消し去る支配システム。その凄惨な光景は、先ほどフラッシュバックした、十年前の「大崩壊」であらゆる仲間を失ったレンの記憶と完全に重ね合わさった。足元まで迫る、すべてを「無」へと書き換える赤黒い光。アリスを庇うレンの前に展開したアボート・アンカーの光膜が、その破壊的なパージ・コードと衝突し、凄まじいエラー火花を散らして軋む。右腕が、脳が、システム定義の上書き圧力で引き裂かれそうだ。だが、彼の五感を灼くのは苦痛ではない。魂の深層から沸き上がる、狂おしいほどの怒りだった。二度と、俺の目の前で奪わせるか。警告表示の奥で、冷酷に世界を抹消しようとする「眼」を睨みつけ、レンは獰猛に口元を歪めた。「初期化だと? 笑わせるな」「勝手に世界を壊し、人々を消し去るこの理不尽を、俺はぶちのめすためにここにいる!」レンは地を蹴った。重力も空気抵抗も、彼を縛ることはできない。光の大剣を手に、一直線に空の巨大な「眼」へと突き進む。「初期化されるのは……貴様らの方だ!」衝突の瞬間、世界からあらゆる色彩が消え失せた。レンは光の大剣を両手で握り締め、虚空を蹴った。狙うは、巨大な「眼」の瞳孔。吸い込まれるような速度で肉薄し、まばゆい刃を全力で振り下ろす。激突。純白 of 光芒が放射状に炸裂し、膨大なノイズコードが夜空に飛び散る。大剣が描いた光の軌跡は、巨大な眼球を真っ二つに両断し、その存在ごと虚空へと消し去っていった。咆哮と共に、真っ二つに両断された巨大な眼が、ガラス細工のように細かく粉々に砕け散り、美しいクリスタルの破片となって酸性雨の中に溶けていった。深度四の重圧が霧散し、歪んでいた空間が本来の解像度へと引き戻されていく。レン=カシマは、半壊したビルの屋上に着地し、膝をついた。大剣は元の古びた銃の姿に戻り、熱暴走寸前の銃身から白い煙が上がっている。右腕の火傷は深く、脳は過負荷で燃え尽きようとしていたが、彼は確かにこちらの世界へと戻ってきた。気がつくと、隣には実体を取り戻した銀髪の少女, アリスが静かに立っていた。「……終わったのか」「いいえ。これは、始まりに過ぎない」アリスは静かに首を振った。「世界の『管理者』たちは、あなたの覚醒を明確に検知しました。あなたはシステムにとって無視できない致命的なエラーとなったのです。これから、彼らはあなたを排除するために、より苛烈な刺客を送り込んでくるでしょう」「……だよな」レンは呆れ、呆気にとられたような短い沈黙を置いてから、自嘲気味に笑った。動かない指を無理やり動かして、ポケットから新しい葉巻を取り出す。咥えて、火をつける。紫煙が酸性雨に溶けていく。「今更、平穏な生活なんて望んでないさ。俺たちは, ずっとこの腐りかけた現実の底を這いずってきたんだからな」「レン! 馬鹿, 大馬鹿! 生体反応がめちゃくちゃよ!」通信チップから、涙声に近いミナの声が返ってくる。「生きてるさ、ミナ。……それと、隠れ家の予備の部屋を一つ開けておけ。新しい『居候』が増える」レンはアリスを見やった。彼女は何を秘めているのか。この侵食の先に、一体何があるのか。まだ何も分からない。だが、彼の網膜に焼き付いた真実の断片は、もう消えることはない。不自然なネオンが再び灯り始めたネオ・エデンの街を見下ろし、レンは新たな一歩を踏み出した。失われた本当の現実を取り戻すための、孤独で無謀な反逆が、ここから加速していく。




