第1話 鉛色の境界線
空は、剥がれ落ちる前の硬い瘡蓋のような色をしていた。
二十二世紀後半、極東の巨大都市「ネオ・エデン」。摩天楼の頂から降り注ぐ有毒な酸性雨は、安物の防護コートに低い雨音を穿ち、アスファルトに毒々しい極彩色の水溜まりを作っている。
レン・カシマは、第十三区画にある半壊した廃ビルの縁に腰を下ろし、湿り気を帯びた指先で安物の合成葉巻に火をつけた。
チリ、と小さな電子火花が爆ぜ、紫色の煙がレンの口から吐き出される。合成ニコチンの安っぽい苦味が舌を刺したが、彼はそれを吐き出すこともせず、ただ気だるげに肺の奥へ溜め込んだ。
その不快な苦味だけが、この生温く湿った夜の中で、自分が確かに生きていることを証明する唯一の錨のように思えたからだ。
「……また、解像度が落ちてやがる」
レンは片目を細め、細い煙の向こう側を見つめた。
彼の視線の先、高層ビルの壁面に投影された飲料メーカーのホログラム広告が、一瞬、激しくブレた。
美しく微笑むはずのモデルの顔がカクカクとした文字化けのエラーコードへと反転し、現実のテクスチャが部分的に融解していく。
それは、都市に暮らす一般市民が「ただの電磁障害」と信じ込んでいる現象――「侵食」の予兆だった。
ジ、ジジ、と耳の奥に埋め込まれた通信チップから、不快な高周波ノイズが走る。レンは眉をひそめ、こめかみを指先で乱暴に叩いた。
「レン、聞こえる? そっちの観測値が跳ね上がったわ。周辺のグリッチノイズが深度二・五を突破、深度三まで一気に加速する!」
脳裏に直接響いたのは、相棒の少女、ミナの張り詰めた声だった。数キロ離れた地下の隠れ家で、彼女は今、何枚もの違法な観測モニターに囲まれ、必死にキーボードを叩いているはずだ。
「わかっている」
レンは葉巻の灰を雨の中へと落とした。
「だが、この区画の『匂い』が妙だ。ただのバグじゃない。……もっと深い場所から、何かが這い上がってきている」
「逃げなさい, レン! 今回の波形は、今までの野良バグとは明らかに違うの。当局の避難勧告が出るのを待ってたら、その区画ごと, あなたの存在データまで『なかったこと』にされるわよ!」
「逃げる場所なんて、・・・ねぇよ。」
レンは対してうまくもない葉巻の煙を肺深く落とし込んでから、葉巻をコンクリートに押し付け, ブーツの先で踏み消した。
その時、眼下の街路から耳を裂くような悲鳴が上がった。
空間が、物理的に「裂けた」のだ。夜の街路の真ん中に、突如として墨を流したような漆黒のエラーノイズの亀裂が出現し、逃げ遅れた通行人の足を容赦なく絡め取る。
取り込まれた人間は、絶叫を上げる間もなく、色彩を奪われ、立方体のデジタルノイズへと分解され、存在ごと虚空へと消去されていった。
「……行くしかないか」
レンは億劫そうに腰を上げると、防護コートの裾を払った。
腰のホルスターから引き抜いたのは、古びた, しかし入念に手入れされた大型のデバイス――【アボート・アンカー(特権干渉武装)】だ。銃の形をしてはいるが、鉛の弾丸を放つためのものではない。
この不確かな「現実」を固定し、ハッキングによってバグやシステムの防衛機構を消去・改ざんするための、無骨な黒い金属塊だ。レンはアボート・アンカーのトリガーを軽く引いた。
カチリ、と硬質な駆動音が響くと同時に、彼の周囲数メートルに淡い青色の光膜が展開され、融解しかけていた周囲の物質が、本来の固さを取り戻した。
「シンクロ率、三〇パーセント。……まだだ、もっと深く」
意識を、世界の「綻び」の奥底へと加速させる。脊髄を逆流する無数のパルス信号が、レンの神経束を焼き焦がすように疼いた。レンの瞳が、人間のそれから、複雑な幾何学模様を宿した青白い「ダイバーの眼」へと変質していった。彼はそのまま、崩壊しつつある現実の淵へと、身を投げ出した。
落下の瞬間、音と熱が消えた。視界に広がったのは、ネオ・エデンの無惨にねじ曲がった残骸が漂う「虚無の回廊」だ。アスファルトは重力を無視して空へと逆流し、ビル群は熱で溶けた飴細工のようにぐにゃりと歪んでいる。
「レン! 応答して! 生体信号が不安定よ、脳のハードウェアが持たないわ!」
通信チップからミナの怒鳴り声が響くが、今のレンにとって、それは水底から聞こえる微かな音のようだった。
「問題ない。少し、空気が重いだけだ」
レンは荒い呼吸を整えながら、アボート・アンカーを前方へ構えた。暗闇の奥から、カチカチと硬質な音が聞こえてくる。侵食された空間が生み出す異形の怪物――「バグ」だ。それは、複数の人間の腕と、機械の錆びついた歯車がデタラメに融合したような、見るに堪えない姿をしていた。顔に当たる部分には、絶え間なく赤色のエラーコードが明滅している。
「不愉快な造形だな」
バグが地を蹴り、空間の座標を飛び越えるように、一瞬でレンの目前へと肉薄した。
だが、レンは動かなかった。彼の「ダイバーの眼」には、バグが次に現れる「座標の綻び」が, 赤い光の線となって先読みされていたからだ。
「そこだ」
引き金を引く。放たれたのは、対象の存在定義を根底から破壊する鋭利な極超短波のプラズマ光――空間ごとバグの存在を上書きする, 閃光のレーザーだ。直撃を受けた怪物は、断末魔の叫びさえ上げられず、無数の白い粒子となって虚無へと霧散した。
「相変わらずの腕前ね。でも深追いは禁物よ、今のあなたの脳じゃ深度三が限界なんだから!」
「分かっている。……だが、見ろ。あそこに誰かいる」
レンの視線の先、ねじ曲がった電柱の影に、小さな人影がうずくまっていた。この高密度の侵食領域で、データの塵に分解されずに形を保っている人間がいるなど、論理的にあり得ないことだった。
レンが慎重に近づくと、それは一人の少女だった。純白のドレスは汚れ一つなく、銀色の髪が、色彩を失った世界で異様なほど鮮やかに輝いている。彼女は膝を抱え、虚空を見つめたまま、微動だにしない。
「おい、返事をしろ。ここは危険だ」
レンがその肩に手を触れようとした瞬間。少女が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、レンの眼など比較にならないほど緻密で深い、星々を凝縮したような「特異点」の輝きを放っていた。
「……見つけた、ダイバー」
少女の唇が微かに動いた瞬間、レンの脳内に、今まで経験したことのない超高密度のデータインパクトが突き抜けた。視界が真っ白に染まり、十年前の「大崩壊」の記憶が、濁流のように脳内を逆流する。
燃え盛る街、泣き叫ぶミナ、消えていった仲間たちの顔――。
「……レン! レン、しっかりして! 心停止一歩手前よ!」
ミナの逆襲のような絶叫で意識を繋ぎ止めたレンは, 片膝をつき, 激しく喘いだ。頭蓋の裏側に張り付く強烈な残痛に、歯を食いしばる。少女は依然として無表情のまま、彼を見つめていた。奇妙なことに、彼女の周囲だけは、空間の侵食進行が完全にピタリと停止していた。
「お前は……何者だ? バグか、それとも……」
「私は、アリス」
少女は、耳に心地よい鈴の音のような声で答えた。
「『観測者』であり、『記録者』。そして、あなたの『鍵』」
「鍵だと?」
レンが問い返そうとしたその時、足元のアスファルトが激しく波打ち、視界が歪むほどの振動が二人を襲った。
「――くっ!」
レンはアボート・アンカーを構え直し、反射的にアリスの前に身体を割り込ませる。直後、上空から物理的な自重を無視した、凄ましきシステム圧が叩きつけられた。
重力そのものが重くなったわけではない。空間を構成する座標データが文字通り飽和し、肉体を圧迫しているのだ。
レンは肺の空気を強制的に搾り出され、押し潰されそうになる膝を必死に支えた。だが、隣に立つアリスは違った。銀糸の髪をシステム圧の暴風に揺らしながら、彼女はただ静かに、微動だにせず上空の一点を見つめている。
その視線を追うように、レンはうめき声を漏らしながら、ひび割れる鉛色の空を見上げた。どんよりとした雲の切れ目、ネオ・エデンの天頂に、巨大な幾何学模様を持つ「眼」が開いた。
深度四――現実世界の物理法則が完全に無効化される, 死の深度の象徴。この領域に侵入したエラー(バグ)であるレンを排除するため、世界の「管理者」の免疫反応が作動したのだ。
「嘘、深度四!? このエリアでそんなの観測されたことないわ、逃げてレン!」
ミナの声に悲鳴が混じる。上空の巨大な眼から、空間の全データを消去せんばかりの、拒減コードの雨が漆黒の棘となって降り注ぐ。だが、レンの体は動かなかった。
あまりに巨大な「システムの深淵」を前に、魂が縫い付けられたような感覚に陥っていた。
アリスが, レンの手をそっと握った。その指先は凍てつくように冷たく、しかし彼の内部システムに直接アクセスしてくるような、絶対的な重力を帯びていた。
「恐れないで. あなたの『深淵』を見せて」
アリスが静かに、レンを見つめて唇を開いた。
「アボート・アンカー、登録。……認証コード、”アウェイクニング”」
その声に呼応するように、アリスの体が、輪郭から零れ落ちるように眩い青白い光の粒子となって融解し、レンのアボート・アンカーへと吸い込まれていく。
その瞬間、レンの右腕が火花とともに激痛が突き抜けた。
精神接続を通じて流し込まれた過剰なデータが肉体的なグリッチとなり、焦燥を伴って腕の神経を暴走させたのだ。宙に舞った彼の鮮血が、システム干渉によって青い蛍光色へと反転する。
無骨な銃器だったアボート・アンカーが, 内側から溢れ出す圧倒的な定義データの書き換えによって, 急速にその形状を変容させていく。
黒い金属は液体のように融解し、現実の理を両断する、光り輝く大剣へと姿を変えた。レンの背後には、エラーログと幾何学回路が複雑に絡み合った、極彩色の光芒の翼が猛り狂うように広がった。
レンの意識が、ネオ・エデンの全域へと拡張されていく。
雨の一滴、ネオンの一閃、それらすべてが、書き換え可能な「コード」として彼の網膜に映し出された。




