## 第 1 話:鉛色の境界線
空は、剥がれ落ちる前の硬い瘡蓋のような色をしていた。
二十二世紀後半、極東の巨大都市「ネオ・エデン」を覆うのは、摩天楼の放つ不自然なネオンと、絶え間なく降り注ぐ酸性雨、そして人々の精神を静かに蝕む「侵食」の予兆だった。
レン・カシマは、廃ビルの屋上で煙草を燻らせていた。安物の合成葉巻から昇る紫煙が、湿った空気に溶けていく。彼の視線の先、都市の区画の一部が、まるで古い映像データの破損のように、不自然に歪んでいた。
「……また始まったか」
レンが低く呟くと同時に、耳の奥で金属を擦り合わせるような不快なノイズが走った。
それは「侵食」の初期症状だ。現実世界に異界の理が漏れ出し、物質と情報の境界が曖昧になる現象。一度それが始まれば、その領域に取り込まれた人間は、肉体も記憶も、等しく「存在しないデータ」へと書き換えられる。
レンは、かつて「ダイバー」と呼ばれた者たちの末裔だった。
ダイバーとは、この侵食の深淵へと潜り込み、その核を破壊することで現実を繋ぎ止める特殊技能者のことだ。しかし、十年前の「大崩壊」以来、正規のダイバー組織は壊滅し、今やその存在は都市伝説に近い。
「レン、聞こえる? そっちの観測値が跳ね上がったわ。深度二まで一気に加速する」
耳に埋め込まれた通信チップから、相棒の少女、ミナの声が響く。彼女は数キロ離れた隠れ家で、違法な観測デバイスを叩いているはずだ。
「分かっている。避難勧告は?」
「出てるわけないでしょ。当局はまだ『局所的な電磁障害』で通すつもりよ。……逃げなさい、レン。今回の波は、今までのとは違う」
ミナの警告を無視し、レンは煙草を地面に捨て、ブーツの先で踏み消した。
逃げる場所など、この都市のどこにもない。侵食は癌のように、確実にこの世界の根幹を食い破りつつある。
その時、眼下の街路で悲鳴が上がった。
空間が物理的に「裂けた」のだ。亀裂からは、漆黒の泥のような物質が溢れ出し、逃げ遅れた通行人の足を絡め取る。
取り込まれた人間が、絶叫を上げる間もなく、立方体のノイズへと分解されていく。
「……行くしかないか」
レンは腰のホルスターから、古びた、しかし手入れの行き届いた大型のデバイス——「アボート・ギア」を引き抜いた。それは銃の形をしているが、弾丸を放つためのものではない。現実の解像度を固定し、異界の法則に抗うための錨だ。
レンがギアのトリガーを引くと、彼の周囲に淡い青色の光膜が展開された。
「シンクロ率、三〇パーセント。……まだだ、もっと深く」
意識を加速させる。脳細胞が焼き切れるような熱が、脊髄を駆け抜ける。
彼の瞳が、人間のそれから、複雑な幾何学模様を宿した「ダイバーの眼」へと変質していった。
これが、侵食の始まり。そして、一人の男が再び戦場へと降り立つ瞬間だった。
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