第三十五話:世界一幸運なサラリーマン
地響きを立てて迫る、巨大なミノタウロス。
その手には、人の胴体ほどもある巨大な戦斧が握られている。
後方には、救うべき負傷者たちが集まるメディカルテント。
そして、ヘルメットのカメラを通して、全てを監視する桐生の冷徹な視線。
健志郎は、究極の選択を迫られていた。
このまま凡人のふりを続け、目の前で繰り広げられるであろう惨劇を、ただ見過ごすのか。
それとも、桐生という最大の監視者の前で、自らの本当の力の一端を解放し、人々を救うのか。
(やるしかない……!)
健志郎は、腹を括った。人々を救う。しかし、それ、自らの正体を完全に明かすことと同義ではなかった。
彼が選んだ道は、第三の選択肢。
再び「世界一不器用で、世界一幸運な中年」を演じきることだった。
「うわあああああっ!」
健志郎は、これ以上ないほど情けない悲鳴を上げると、ミノタウロスに背を向け、なりふり構わず逃げ出した。その姿は、パニックに陥った、ただの哀れな中年男性そのものだ。
健志郎が逃げ込んだのは、補給物資の木箱や戦闘で破壊された瓦礫が散乱する、後方エリアの一角だった。
ミノタウロスは、その小さな獲物をいたぶるように、ゆっくりと確実に彼を追い詰めていく。
しかし、その絶望的な追跡劇の裏で、健志郎の『シャドウ・クラフト』が、密かに、そして巧妙に発動していた。
「ひぃっ!」
健志郎は、わざとらしく足をもつれさせて地面に手をついた。その瞬間、彼の指先から、ごく微量のスライムの『影』が地面に染み込む。
ミノタウロスが、その地点に力強く足を踏み出した。
ズルッ――
巨体がほんのわずかにバランスを崩す。ミノタウロスは、不思議そうな顔で自分の足元を見たが、そこには何も異常はない。
(よし、効いているぞ……!)
健志郎は、内心でほくそ笑みながら、さらに逃げ惑う。
今度は、足元にあった小石を、これまた偶然を装って、思い切り蹴飛ばした。その小石には、一瞬だけ、廃工場で吸収した金属の『重量』の影が乗せられていた。
小石は、健志郎のイメージとは全く違う方向へと飛んでいき、近くにあった金属製のドラム缶に、カァン!と甲高い音を立てて当たった。
ミノタウロスは、その大きな音に驚き、一瞬だけ、注意をそちらへと向ける。
その全てを装甲車の中の桐生が、モニター越しに見つめていた。
「心拍数、最大値に到達。アドレナリン分泌量、異常値。……しかし、この偶然はなんだ? 地面の摩擦係数が、瞬間的に低下。飛翔物の運動エネルギーが、質量に対して不自然に高い……」
桐生の指が、データパッドの上を高速で滑る。目の前の戦闘データと、そこに表示される天文学的に低い「偶然」の確率。そのありえない組み合わせが、彼の口元に、静かな笑みを浮かべさせていた。
健志郎の、必死の演技は続く。
彼は、積み上げられた木箱の山に、派手な音を立ててぶつかった。
「ぐえっ!」
その衝撃で、一番上にあった木箱が、まるで計算されたかのように落下し、ミノタウロスの死角となっていた、戦斧を持つ腕とは逆の肩を直撃した。
大したダメージではない。しかし、鬱陶しい小虫の抵抗に、ミノタウロスの目が、次第に怒りの色で染まっていくのが分かった。
そして、ついに、最後の瞬間が訪れる。
健志郎は追い詰められ、巨大な鉄骨の残骸が横たわる、瓦礫の山へと倒れ込んだ。もう、逃げ場はない。
「グルオオオオオオッ!」
勝利を確信したミノタウロスが、とどめの一撃として、巨大な戦斧を天高く振りかぶった。
その、絶望的な光景の中。
健志郎は、スーツの力を振り絞り、鉄骨を不安定に支えていた、一つの瓦礫を足で思い切り蹴飛ばした。
ギギギ……という、金属の軋む音。
巨大な鉄骨が、まるで計算され尽くしたかのように、ゆっくりとバランスを崩しミノタウロスの頭上へと、圧倒的な質量を伴って落下していった。
「……グェ?」
ミノタウロスは、何が起きたのか理解できないまま、空を見上げた。
そして、轟音と共にその強靭な巨体は、鉄の塊の下敷きとなった。
静寂が、戦場を支配した。
後方の脅威は、一人の「幸運なおっさん」によって排除された。
周囲で立ち尽くしていた低ランク探索者たちは、信じられないものを見る目で、瓦礫の山と、その前でへたり込んでいる健志郎を、ただ呆然と見つめていた。
戦いが終わり、健志郎の元へ桐生がゆっくりと歩み寄ってくる。彼は健志郎の肩をポンと叩き、その労をねぎらった。
「お疲れ様でした、二条さん。素晴らしい『幸運』でしたね」
その声には、何か含みがあるようだった。
そして、彼は、健志郎の耳元で静かに、こう告げた。
「あなたのその『特異性』は、雑魚掃除に使うには、あまりにもったいない。……テストは、もう十分でしょう。次は、あなたに相応しい『仕事』をご用意します」




