第十四話:影と獣とかくれんぼ
作戦決行は、金曜日の深夜。
健志郎は、いつものように「急な仕事」を口実に家を出ると、決戦の地、桜ヶ丘ダンジョンへと向かった。彼の出で立ちは、一見すればただの夜のジョギング姿。しかし、その内側には、二つの強力な切り札が隠されていた。
公園の暗がりに到着した健志郎は、まず左腕に意識を集中した。
(クラフト、『影の偽装皮膚』)
呪いのガントレットが、滑らかにその姿を消し、ごく自然な、彼自身の左腕へと変貌を遂げる。
次に、彼は深く息を吸い込み、全身に『影』を巡らせる。
(クラフト、『影の衣』)
体が、すぅっと周囲の闇に溶け込んでいく。気配も、音も、そして姿さえも、夜の闇が完全に飲み込んでしまった。
完璧だ。今の自分は、ただの「影」。誰にも見つけることはできない。
健志郎は、闇に紛れて、厳重に封鎖されたダンジョンの入り口へと近づいた。
金属製のシャッター、張り巡らされたKEEP OUTと書かれたテープ、そして、等間隔で設置された監視カメラ。数名のギルド職員が、鋭い目つきで周囲を警戒している。
しかし、健志郎は慌てなかった。彼は、サラリーマンとして、幾度となく競合他社のプレゼン資料を分析し、その弱点や矛盾点を突いてきた。目の前の警備体制も、彼にとっては分析対象の一つに過ぎない。
(警備員Aの巡回ルートは、五分周期。監視カメラBの首振りには、右端に三秒の死角ができる。そして、あのシャッターの脇にある、古い通気口……)
健志郎は、まるでプロジェクトの欠陥を見つけ出すかのように、冷静に警備網の穴を発見した。そして、職員たちの意識が逸れた、ほんの数秒の隙を突き、音もなく通気口のカバーを外し闇の中へと滑り込んだ。
誰にも気づかれることなく、ダンジョン内部への潜入に成功。
ダンジョンの中は、不気味なほど静まり返っていた。
以前の喧騒が嘘のように、モンスターの気配すらない。おそらく、ギルドによる徹底的な掃討作戦が行われたのだろう。健志郎は、ヘッドライトは使わず、ガントレットから供給されるわずかな生命力で強化された視力だけを頼りに、記憶の道を辿った。
目的の場所、リーダーゴブリンを倒した通路へと、一歩、また一歩と近づいていく。
その時だった。
健志郎の背筋に、ぞくり、とした悪寒が走った。
それは、明確な殺気ではない。だが、まるで猛獣の縄張りに迷い込んでしまったかのような、濃密で、息が詰まるようなプレッシャー。
間違いない。このダンジョンのどこかに、「誰か」がいる。
(リン……!)
健志郎は、咄嗟に近くの岩陰に身を隠した。
『影の衣』で姿は消えているはずだ。しかし、あの少女の、理屈を超えた『勘』は、この空間に侵入した「異物」の存在を、すでに感じ取っているのかもしれない。
息を殺し、気配を探る。
すると、通路の奥から、微かな足音が聞こえてきた。ゆっくりと、慎重に、周囲を警戒しながら進んでくる。
熟練者の足音だ。
健志郎は、岩陰で身じろぎもせず、ただ時が過ぎるのを待った。
やがて、リンが姿を現した。
彼女は、腰に下げた剣の柄に手をかけ、鋭い視線を四方八方に走らせている。そして、健志郎が隠れている岩陰の前で、ぴたりと足を止めた。
「…………」
リンは、何も言わない。ただ、眉をひそめ、この空間に漂うわずかな違和感を、全身で感じ取ろうとしているようだった。
健志郎の心臓が、大きく跳ねる。
(見つかる……!)
このままでは、いずれ感づかれる。何か、手を打たなければ。
健志郎は、以前リンの注意を逸らした時と同じように、音による陽動を考えた。しかし、この至近距離で『シャドウ・クラフト』を使えば、その瞬間に発生する微量なエネルギーの変化を、彼女なら必ず見抜くだろう。
(もっと、原始的な方法で……)
健志郎は、そっと足元の小石を一つ、指で拾い上げた。そして、岩陰の反対側、通路のさらに奥へと、指先のスナップだけで、音を立てずにそれを弾き飛ばした。
小石は、放物線を描いて飛び、十数メートル先の壁に、カツン、と小さな音を立てて当たった。
その瞬間、リンの視線が、音のした方へと鋭く向けられた。
「……ネズミか」
彼女は小さく呟くと、健志郎がいた岩陰から意識を外し、音のした方へと、慎重に歩き出した。
(行った……!)
健志郎は、胸を撫で下ろした。
彼は、リンが完全に遠ざかるのを待ち、目的の場所へと急いだ。
リーダーゴブリンを倒した、あの場所。
そこには、健志郎が戦った痕跡など、何も残っていなかった。しかし、彼は目を凝らし、岩の陰に見覚えのある小さな革袋が落ちているのを発見した。
これだ……よかった、まだ回収されてなかった!
健志郎は、素早くそれを拾い上げ、ジャージのポケットへとねじ込んだ。中身を確認している暇はない。楽しみには家に帰ってからだ。
目的は、果たした。
安堵と達成感が、全身を駆け巡る。勝利を確信し、出口へと向かった。
ダンジョン内部に、リンの気配はない。おそらく、まだ奥を調査しているのだろう。
健志郎は、潜入した時と同じルートを辿り、静かに通気口から外へ出た。そして、公園の闇に紛れたまま、ダンジョンの入り口ゲートへと向かう。
ゴールは直前。もう、危険はないはずだ。
彼は、ゲートを抜ける直前、『影の衣』を解除した。これで、彼はただのジョギング中の中年男性だ。
安堵の息をつき、何食わぬ顔で、ゲートから一歩、外へ踏み出した。
その、瞬間だった。
「やっと、出てきたわね」
彼の目の前に、一人の少女が、腕を組んで静かに立っていた。
月明かりに照らされた、美しいが、今は氷のように冷たい表情。
若き天才探索者、リン。
彼女は健志郎が出てくるのを、知っていたかのように、そこにいた。
「あなた、一体、何者?」




