第十三話:影の偽装皮膚(シャドウ・スキン)
あの夜以来、健志郎の心は晴れなかった。
若き天才探索者、リンの鋭い勘。それは、健志郎の未熟な隠密能力をいとも簡単に見破りかけた。陽動でなんとかその場を切り抜けたものの、次はないだろう。
そして何より、彼女のような高ランク探索者が関わっている以上、桜ヶ丘ダンジョンへの潜入は、以前よりも格段に難易度が上がってしまった。
問題は、それだけではなかった。
日常そのものが、薄氷を踏むような緊張感に包まれていたのだ。原因は、彼の左腕に常駐する呪いの武具、『影喰らい』。
その存在を隠すため、健志郎は四六時中、左手に黒い手袋をはめて過ごすことを余儀なくされていた。
「二条さん、その左手、まだ治らないのかい? もう一週間以上経つだろう」
会社の会議室で、隣に座った同僚が、健志郎の左手を見て心配そうに言った。
「あ、ああ……。思ったより、筋を違えたみたいでね。癖になるといけないから、念のため固定しているんだ」
健志郎は、完璧な作り笑顔で答える。嘘は、もはや呼吸の一部になっていた。
左利きなのに、書類を配る時も、お茶を飲む時も、不自然にならないように右手ばかりを使う。そのぎこちなさが鬱陶しい。
家庭でも、それは同じだった。
「パパ、その手袋、いつまでしてるの?」
夕食の席で、娘の凛が、不思議そうに尋ねた。
「夏なのに、暑くない?それに、なんか……ちょっとダサい」
その言葉が、健志郎の胸に突き刺さる。
妻の友里も、「そうよ、あなた。蒸れて、かえって体に悪いんじゃない?」と追い打ちをかける。
「だ、大丈夫だ。これは、その、冷感素材でできてるから……」
しどろもどろの言い訳は、我ながら情けなかった。
愛する家族に嘘をつき続けることの罪悪感と、バレるかもしれないという恐怖。手袋の下で、ガントレットが静かに脈打つたびに、健志郎の心は重く沈んだ。
(隠すだけでは、限界だ……)
その日の深夜。
家族が寝静まったのを確認し、健志郎は自室の書斎で、電気スタンドの灯りだけを頼りに、左手の手袋を外した。現れたのは、闇の中でも鈍い光を放つ、黒光りする金属の腕。
もはや、彼の体の一部となってしまった、呪いの武具。
このままでは、いつか必ずボロが出る。ダンジョンに潜入する以前の問題だ。
(隠すんじゃない。化けるんだ……!)
健志郎の脳裏に、新たな発想が閃いた。
これまで吸収してきた『影』のストックを思い返す。ゴブリンの『筋力』、ネズミの『俊敏性』、クモの『潜伏能力』……。そして、最も基本的な素材である、スライムの『影』。
あの、ぷるぷるとしたゲル状の体。その『流動性』と『弾力性』。あれを使えば、あるいは……。
これから行うのは、これまでで最も繊細で、高度な『シャドウ・クラフト』だ。
(イメージしろ……俺自身の、手だ)
健志郎は、自分の右手を見つめた。むっくりとした手と指、爪の形、皮膚の皺、そして、無数の毛穴。この、あまりにも平凡なおっさんの手を、寸分違わず、影で再現するのだ。
健志郎は左腕のガントレットに意識を向けた。
まず、ベースとなるのはスライムの『影』。その流動的な特性を使い、ガントレットの表面を覆う、薄い膜を形成する。
次に、ネズミや虫から得た『俊敏性』と『隠密性』の『影』を細かく練り込み、皮膚の質感や、微細な凹凸を再現していく。
最も難しいのは、「色」だった。
影は、黒い。どうすれば、この肌色を再現できる?
健志郎は試行錯誤の末、一つの仮説にたどり着いた。ガントレットが吸収するのは、生命の『影』だけではない。森羅万象、すべてのものの〝本質を喰らう〟のだ。ならば、自分自身の『影』を、少しだけ喰らわせて素材として使うことはできないだろうか?
健志郎は、スタンドの光に照らされた自分の右手の「影」に、左腕のガントレットをそっと重ねた。そして、強く念じる。
(喰らえ。そして、模倣しろ!)
ガントレットが、微かに応えるように脈打つ。
そして、健志郎の左腕で、驚くべき変化が起こり始めた。
ガントレットの黒い表面の上に、まるで薄い絵の具を塗り重ねるように、健志郎自身の肌の色が、じんわりと浮かび上がってきたのだ。
「おっおっ!」
思わず声を漏らした。
影は、肌色を再現し、皺を刻み、爪を形作り、最後には、産毛の一本一本までを、完璧に模倣していた。
数分後、彼の左腕は、そこに黒いガントレットが存在することが信じられないほど、ごく自然な「普通の左腕」へと変貌を遂げていた。
健志郎は、おそるおそる、その左手で机の上のペンを掴んでみた。
指は、滑らかに動く。ペンを握る感触も、いつもと変わらない。
彼は、その新しいクラフトに名をつけた。
『影の偽装皮膚』。
これを維持するには、常に微量の『影』を消費し続ける必要がある。だが、ネズミ数匹分のストックがあれば、丸一日は問題なく維持できそうだ。
健志郎は、自分の「普通の」左手を見つめ、静かに拳を握りしめた。
これで、最大の懸念材料は消えた。もう、不自然な手袋も、苦しい言い訳もいらない。まるで長い間つけていたギプスを外したかのような、圧倒的な解放感に満たされた。
これで、準備は整った。
『影の衣』による隠密行動と、『影の偽装皮膚』による完璧な擬態。
この二つを組み合わせれば、厳重に警備された桜ヶ丘ダンジョンへの再潜入も、決して不可能ではない。
(待ってろよ、リーダーゴブリンのドロップアイテム……)
脳裏には、あの革袋のイメージが、はっきりと浮かんでいた。
中身が何であれ、それを回収しない限り、この物語は先へ進まない。
そして、そのためには、あの獣の勘を持つ少女、リンの目を、今度こそ完璧に欺かなければならない。
健志郎は、スタンドの灯りを消した。
作戦決行は、近い。




