第十五話:おっさんの言い訳
「あなた、一体、何者?」
月明かりの下、リンの鋭い言葉が、ナイフのように健志郎にぐさりと突き刺さった。
彼女の目は獲物を追い詰めた獣のように、瞬き一つ見せない。
健志郎の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。
絶体絶命。
ギルドにガントレットの事がバレたら、取り調べやら、実験体担ってしまうかも知れない。
そんな事になったら、家族は……
これまで経験した、どのトラブルとも比較にならない、最大級の危機。
しかし、その極限状況で健志郎の脳内に、一つのスイッチが入った。
それは、二十年以上にわたるサラリーマン人生で、幾度となく彼を救ってきた「危機回避モード」のスイッチだった。
目の前にいるのは、理不尽な要求を突きつけてくる、最重要取引先の担当者だ。ここで下手に動揺を見せれば、すべてを失う。ポーカーフェイスを貫け。相手の土俵で戦うな。自分のペースに引きずり込め。
健志郎は、まず、これ以上ないほど情けなく、怯えた表情を作った。肩を丸め、わずかに体を震わせ、おどおどとした視線でリンを見つめる。完璧な「善良で臆病な一般市民」の演技。
「な、なな、何者って……言われましても……」
声は、意図的に上ずらせる。
「わ、私は、ただ、この辺りをジョギングしていただけの者でして……」
リンは、眉一つ動かさなかった。
「嘘。あなたは、ダンジョンの中から出てきた。私がこの目で、しっかりと見たわ」
「そ、それは! 道に迷ってしまいまして! 暗くて、どこがどこだか分からなくなって、パニックになって走り回っているうちに、いつの間にかあんな場所に……」
健志郎は、必死の形相で訴えが、リンの疑いは晴れないようだ。
「あなたの気配、ダンジョンの中で感じた、あの奇妙な気配と、よく似ている。偶然とは思えない」
「け、気配……? そんなこと言われても、私にはさっぱり……。ああ、もしかして、汗の匂いとかでしょうか?メタボなもので、人一倍汗っかきでして……」
健志郎は、ジャージの袖で、額の脂汗を拭う。そのあまりにも情けない姿に、リンの鋭い眼光が、ほんのわずかに揺らぐ。
「……その左手」
リンの視線が、健志郎の左腕に注がれた。
「さっき、あなたはダンジョンの中で、何かをしていた。その左手で。見せなさい」
来た。やっぱりダンジョンの中でも見つかっていたのか。
健志郎は、内心で身構えながらも、顔には最大限の困惑を浮かべた。
「ひ、左手……ですか? 私の左手が、何か?」
彼は、おそるおそる、自分の左手をリンの前に差し出した。
『影の偽装皮膚』によって、完璧に擬態された、ごく普通の、中年男性の手。皺も、シミも、少し乾燥した肌の質感も、すべてが本物と見分けがつかない。
リンはその手を、食い入るように見つめた。魔力を探るように、目を細める。しかし、そこからは、何のエネルギーも感じられない。あるのは、くたびれたおっさんの、生活感のある左手。
「…………」
リンは、黙り込んだ。
彼女の『勘』は、目の前の男が「クロ」だと、強く訴えかけているだろう。しかし、すべての状況証拠が、「シロ」だと告げていた。この矛盾に、彼女の思考は混乱しているようだ。
決定的な証拠がない。この男からは、魔力のかけらも、武具を隠し持っている気配も感じられない。あるのは、中年特有の加齢臭と、恐怖に支配された、哀れな瞳だけだ。
「……わかった」
長い沈黙の後、リンは、吐き捨てるように言った。
「今回は、信じてあげる。でも、もし、あなたが嘘をついているのなら……」
彼女は一歩前に出ると、健志郎の耳元で氷のように冷たい声で囁いた。
「次に会う時は、あなたを捕まえる時よ。覚えておきなさい」
そして、彼女は健志郎に背を向けると、「二度と、この場所に近づかないことね」という厳しい警告を残し、闇の中へと消えていった。
「ふぅ〜。心臓にわるいなぁ」
その場にへたり込みそうになるのを、必死でこらえた。全身の力が抜けていく。ジャージの背中は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
勝った、というよりは、生き延びた、という表現が正しかった。
命からがら自宅にたどり着いた健志郎は、何事もなかったかのように家族と挨拶を交わし、自室へと直行した。ドアに鍵をかけると、ベッドの上に倒れ込む。
しばらく、天井を眺めて、荒い呼吸を整えた。
彼はゆっくりと体を起こすと、ジャージのポケットから、あの革袋を取り出した。
ごわごわとした、古い革の感触。リーダーゴブリンが、命に代えても守ろうとしたかのような、謎のアイテム。
(リンという探索者……ポケットの中は調べなかったな)
もし調べられたとしても、シャドウ・スキンで隠せおおせただろうが。
健志郎は、震える指で、袋の口を縛っていた紐を解いた。
中から出てきたのは、彼が想像していたような、強力な魔道具や、輝く宝石ではなかった。
それは、羊皮紙か何かで作られた、一枚の古びた地図だった。
地図は、手書きで、非常に精密に描かれている。
「何の地図だろう……あ! これは」
健志郎は、すぐに、それが自分たちの住む街の、地下に広がる広大な下水道網の地図であることに気づいた。そして、その一部が、桜ヶ丘ダンジョンの深層部と、確かに繋がっていることが示されている。
問題は、そこではなかった。
地図の上には、いくつかの地点に、インクで汚れたような不気味な×印が、いくつもつけられていたのだ。
一つは、街の中心部にある、巨大な商業施設。
一つは、人々が憩う、大きな公園の地下。
そして、もう一つは、健志郎の娘、凛が通う高校のすぐ近くだった。
健志郎の背筋を、冷たいものが走った。
桜ヶ丘ダンジョンにいたゴブリンたちは、ただそこに巣食っていたわけではない。大きな目的のための「前線基地」であり、斥候に過ぎなかったのかもしれない。
彼らは、ダンジョンからつながる街の地下から、何かを企んでいるのだろうか。
健志郎は、軽いダイエット感覚で始めたダンジョン潜りが、家族の平穏な日常を脅かす、モンスター達の陰謀の、ど真ん中に足を踏み入れてしまったことを、はっきりと自覚した。
謎の地図を、強く握りしめた。
平凡なおっさんの、誰にも知られてはならない戦いが、今、静かに始まろうとしていた。




