第十二話:獣の勘と、サラリーマンの危機回避
ドクン、ドクン――
自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
健志郎は、植え込みの影で、息を殺していた。目の前には、テレビで見た若き天才、高ランク探索者のリンが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。その距離、わずか数メートル。
(なぜだ……なぜバレる!?)
『影の衣』は、ネズミやクモから吸収した『隠密性』と『潜伏能力』。物理的な姿も、魔力的な気配も、完全に消している自信があった。
しかし、リンの目は、明らかにこの場所を捉えている。それは、理論や理屈ではない。長年のダンジョン探索で培われた、第六感とでも言うべき「獣の勘」が、この闇に潜む異物を感じ取っているのだ。
「リン、どうした?」
背後から、年上のギルド職員が声をかけた。
「いえ、先輩。なんだか……あそこの茂みから、妙な気配が……」
リンは、健志郎がいる場所を指差しながら、訝しげに答える。
「妙な気配? 魔力探知機には、何の反応もないぞ」
「でも……何かがいる気がするんです。まるで、影が不自然に淀んでいるような……」
まずい。このままでは、茂みの中を調べられてしまう。
健志郎の脳が、猛烈な速度で回転を始めた。絶体絶命のピンチ。それは、会社の重要なプレゼンで、予期せぬ質問をされた時の感覚に似ていた。
どうする?
今すぐここから逃げるか? いや、動けば、その瞬間、気配を察知されて追われるだろう。
戦う? 論外だ。相手は、テレビで特集されるほどの高ランク探索者。ゴブリンのパーティとは、次元が違う。
(誘導するんだ……注意を、逸らすんだ……!)
健志郎は、サラリーマンとして叩き込まれた、トラブル対応の鉄則を思い出した。問題が起きた時、真正面からぶつかるな。相手の意識を、別の場所へ向けさせろ。
健志郎は、左腕のガントレットに、ごくわずかな意識を集中させた。
そして、『影の吸収』で得た、ある生物の能力を思い出す。
ハチの『飛行能力』と、その羽音。
彼は、自分のいる場所から、十メートルほど離れた、公園のさらに奥の暗がりをイメージした。そして、そこに、ごく微量の『影』を送り込み、『シャドウ・クラフト』を発動する。
創り出すのは、ただの「音」。
ブン――という、大きなハチが一匹、飛んでいるかのような、微かな羽音だけを。
その瞬間、リンの耳が、ぴくりと動いた。
彼女の鋭い視線が、健志郎が隠れている茂みから、音がした公園の奥へと、すっと移動する。
「……今、何か聞こえませんでしたか?」
「音? いや、何も聞こえんが……」
先輩職員は、怪訝な顔をしている。
健志郎は、さらに続けた。
今度は、ネズミの『俊敏性』をイメージし、その羽音を、カサカサ、という物音に変化させ、さらに奥のゴミ箱の裏手へと移動させる。
「いえ、確かに! あっちです!」
リンは、完全に健志郎の陽動に引っかかった。彼女の意識は、もはや健志郎がいる茂みにはなく、音がしたゴミ箱の裏へと集中している。
「すみません、先輩! ちょっと、見てきます!」
言うが早いか、リンは風のように駆け出し、ゴミ箱の裏手へと消えていった。
「お、おい、リン! 単独行動はよせ!」
先輩職員が、慌てて後を追っていく。
他の職員たちも、その騒ぎに気を取られ、ダンジョン入り口への警戒が、一瞬だけ緩んだ。
(今しかない……!)
健志郎は、この好機を逃さなかった。
彼は、『影の衣』をまとったまま猫のように身をかがめ、音もなく静かに、その場から後退した。
職員たちの視界の死角を縫うように移動し、公園の闇へと完全に紛れる。
数分後、健志郎は、自宅近くの路上で、ようやく『影の衣』を解除した。
どっと、全身から汗が噴き出す。心臓は、まだバクバクと音を立てていた。
「ダハーッ! 危なかった……」
生きた心地がしなかった。あのリンという少女、ただ者ではない。自分の『影の衣』が、完璧ではないことを、思い知らされた。あれは、気配を「消す」のではなく、あくまで「希薄にする」だけなのだ。超一流の探索者の前では、そのわずかな歪みを、いずれ見破られてしまうだろう。
(もっと、完璧な隠密能力が必要だ……)
そして、そのためには、もっと多様で、強力な『影』が必要になる。
健志郎は、改めて桜ヶ丘ダンジョンへの潜入の必要性を強く認識していた。
しかし、同時に、新たな問題も浮上した。
あのリンという少女が、ギルド側の人間として、ダンジョンの調査に関わっている。
次に会う時は、今日のような、小手先の陽動が通用するとは限らない。
健志郎は、夜空を見上げた。
月が、煌々と輝いている。
(どうやって、あの獣の目を欺く……?)
おっさんの身体にサラリーマンの頭脳と、手に入れたばかりの異能の力。
(そうか、もしかしたら出来るかもしれないな……)




