第十一話:影の衣(シャドウ・クローク)
ネズミの駆除からから、数日が過ぎた。
健志郎の日常は、表面的には何も変わらない。昼は平凡なサラリーマンを演じ、夜は優しい家庭人として食卓を囲む。しかし、その裏では、彼のもう一つの生活が、着実に根を張り始めていた。
健志郎は、二日に一度のペースで、会社の資料倉庫へと通い詰めていた。彼の狩りは、もはやネズミだけにとどまらない。倉庫に住み着いたゴキブリ、壁を這うクモ、果ては換気扇に巣食うハチに至るまで、動くものすべてが、彼の『影喰らい』のエサとなった。
一つ一つの『影』は小さい。しかし、塵も積もれば山となる。健志郎のガントレットには、多種多様な生命の本質が、じわじわと蓄積されていった。
『俊敏性』『隠密性』『警戒心』『飛行能力』『外骨格の硬度』『毒針』……。
ガントレットは満たされ、健志郎の体から生命力が抜けていく不快な感覚は、完全に消え去っていた。それどころか、吸収した生命力のおかげで、彼の体は日に日に活力を増していく。朝の目覚めは爽快で、会議中に襲ってきた睡魔も、今では嘘のようだ。
「あなた、最近なんだか顔色がいいわね。残業続きなのに、元気そう」
夕食の席で、妻の友里が不思議そうに言った。
「そうか?まあ、仕事が順調だからかな」
健志郎は、味噌汁をすすりながら、しれっと答える。
「ふーん。メタボ親父が、ちょっとだけマシになったんじゃない」
向かいに座る娘の凛が、スマホから目を離さずに、ぶっきらぼうに呟いた。その言葉には、以前のような刺々しさはなかった。
家族からの些細な変化が、健志郎の心を温めた。たしかに、すこし腹の肉が減った気がする。
そして、金曜日の夜。
健志郎は、再び資料倉庫の暗闇の中にいた。今夜は、ただ狩りをするためではない。
新たな『シャドウ・クラフト』を試すためだ。
目的は、厳重に警備されている桜ヶ丘ダンジョンへの潜入。そのために必要なのは、絶対的な『隠密能力』。
健志郎は、これまで蓄積してきた『影』の概念を、頭の中で組み合わせ始めた。
ネズミの『隠密性』と『警戒心』。ゴキブリの、暗闇に紛れる『保護色』。クモの、気配を殺して獲物を待つ『潜伏能力』。そして、それら全てを包み込む、スライムの『流動性』。
(イメージは、一枚の布。闇に溶け込み、気配を消す、影でできた衣……)
健志郎は、左腕のガントレットに意識を集中し、強く念じた。
(クラフト! 『影の衣』!)
ガントレットから、蓄えられた影が、黒い霧のように噴き出した。
霧は、健志郎の体を覆うように広がり、やがて、彼の着ているジャージの上に、もう一枚、薄い黒色の膜のようなものを形成した。
夜の闇そのものを編み込んだかのような、光を一切反射しない、漆黒の衣だった。体を動かしても、衣擦れの音一つしない。そして何より、自分の存在感が、希薄になっていくのを感じた。まるで、自分が周囲の影の一部になったかのような、不思議な感覚だった。
「これなら、いける……! 材料が害獣や害虫だらけってのがちょっと気になるけど……はは」
健志郎は、確かな手応えを感じ、その足で、桜ヶ丘ダンジョンへと向かった。
もちろん、中に立ち入るためではない。まずは、現状の視察と、クラフトしたばかりの『影の衣』の性能を試すためだ。
ダンジョンの入り口は、健志郎の予想通り、物々しい雰囲気に包まれていた。
ゲートは、分厚い金属製のシャッターで完全に封鎖され、その前には『立入禁止』のテープが何重にも張り巡らされている。そして、数名のギルド職員が、鋭い目つきで周囲を警戒していた。
健志郎は、ダンジョンから少し離れた、公園の植え込みの影に身を潜めた。
そして、ゆっくりと『影の衣』を発動する。
体が、すぅっと周囲の闇に溶けていく。
自分の手を見ると月明かりの下でも、その輪郭はぼやけ、ほとんど見えない。
大成功だ。
そのまま息を殺し、ギルド職員たちの会話に耳を澄ませた。
「……結局、原因は不明か」
「ああ。高エネルギー反応は、あの日以来、完全に沈黙している。内部調査隊を送っても、モンスターの異常発生は見られないらしい」
「一体、何だったんだ……? まるで、嵐のように現れて、嵐のように去っていった、って感じだな」
「上層部は、高ランクの冒険者が、未登録のユニークアイテムを試した可能性が高いとみている。しばらくは、警戒を解けないそうだ」
(好都合だ……)
健志郎は、胸を撫で下ろした。原因が不明であればあるほど、彼に捜査の手が及ぶ可能性は低くなる。
健志郎は、職員たちの死角を突きながら、さらにダンジョンの入り口へと近づいた。警備の配置、監視カメラの位置、そして、シャッターの構造。サラリーマンとして培った観察眼で、潜入経路を探る。
その時だった。
警戒中の職員たちの中から、一人の若い女性が、ふと、健志郎が隠れている植え込みの方へと視線を向けた。
その顔を見て、健志郎は息を呑んだ。
見覚えのある顔だった。以前、テレビで特集されていた、ドキュメンタリー番組に出演した、ダンジョン攻略の高ランク探索者の一人だ。
娘と同じ名前だったから覚えている。リンという探索者だ。
彼女は、何かを感じ取ったかのように、眉をひそめている。そして、ゆっくりと、健志郎がいる方向へと、一歩、足を踏み出した。
(まずい……! 気づかれたのか!?)
健志郎は、植え込みの影で、身じろぎもせずに固まった。
『影の衣』は完璧なはずだ。気配も、音も、完全に消している。見つかるはずがない。
しかし、彼女の目は、確かに、この闇の潜む健志郎を捉えようとしていた。
夜行性の獣が、獲物の気配を嗅ぎつけたかのようだ。
彼女がさらに一歩、近づいてくる。




