第6話 お嬢様
二年生――橘涼音は『お嬢様』である。
都内に本社を構える大企業の令嬢で、中等部からこの学校に通っている。
成績は常に学年上位、立ち居振る舞いは非の打ち所がない。廊下を歩けば自然と道が開き、話しかければ誰もが丁寧に返事をする。
橘涼音という人間を一言で表すならば――やはり完璧なお嬢様だろう。
それが、潮騒高校の人間が彼女に抱く共通の印象だった。
ただし、スマートフォンやタブレット端末の中身だけは誰にも見せない。誰も知らない。
複数の裏アカウント、複数のSNSプラットフォーム、複数のコミュニティへのアクセス。
表の橘涼音からは想像もできないような情報網が、あの端末の中に広がっているのだ。ネットの海の中ではどこへでも潜り込める。
誰にも気付かれることなく、情報だけを拾い上げることができる。
人と直接関わらなくても、情報は集められる。
佐々崎洸太が『表』で情報を集める者なら、橘涼音は『裏』で情報を集める者。情報こそが、涼音の武器だった。
× × ×
朝のホームルームが始まる前、涼音は自分の席で端末を開いていた。
傍から見れば、授業の予習をしているように見えるだろう。
しかし実際には、昨日から追いかけていた情報の続きを確認していた。
――田中里奈のアカウント。
一年三組、永瀬凛と同じクラスのグループリーダーの情報を改めて整理する。
表のアカウントは実に模範的だ。
正義感溢れる言葉が、それなりの数の人間に向けて発信されている。真っ直ぐで、誠実で、気持ちのいい言葉の数々。
しかし裏のアカウントは、まるで別人だった。
表では声高に叫んでいる『弱い者を守る』という言葉とは、まるで正反対のことをやっている。
涼音はそれを静かに整理しながら、チャイムが鳴るのを待った。
直接動くのは、まだ早い。
まずは全体像を把握しなければ。
× × ×
昼休み。
涼音は一人で端末に向かいながら、情報をさらに深掘りしていた。
直接誰かに話を聞きに行くのは、リスクがある。
涼音は洸太と異なり、校内で積極的に生徒たちと交流をしているわけではない。
軽い話程度ならするが、家柄も相まって、正直なところ友達と言える人間はほとんどいないと言ってもいいだろう。
そんな涼音が一年生の特定の誰かに接触すれば、否応なしに目立ってしまう。
目立ってしまったら、永瀬凛に伝わる可能性もある。
そうなると、凛を取り巻く状況がさらに悪化するかもしれない。
それに、涼音自身は清那や洸太のようにコミュニケーションが得意ではない。
だから涼音は、自分が得意とする方法で今回の件を探っていた。
複数の裏アカウントを使って、関係する生徒たちが参加しているコミュニティを巡回する。
洸太と違って『表』ではなく『裏』のコミュニティだ。
名前も顔も出さず、書き込みもせず、ただ流れてくる情報を読む。それだけでいい。
一時間もすれば、新しい情報が見えてくる。
田中里奈の裏アカウントをはじめとした、関係者のアカウントのなかから目ぼしい情報を見つけ、それを抜き出し、まとめ、時系列ごとに並べ替える。
ひとつひとつのアカウントから得られる情報はあくまでも断片に過ぎないが、洸太や波留たちから聞いた話などと合わせることで――
(……なるほど)
田中里奈と永瀬凛の間になにがあったのか、その輪郭が掴めてきた。
約二ヶ月前に、一年三組のグループ内で小さなトラブルがあったことは間違いないらしい。
グループの中の一人が別の生徒に対して『行き過ぎた正義』を振りかざしているところを、その場で止めた人間がいたようだ。
それこそが、永瀬凛。
しかし、それがすべての始まりだった。
恐らくそのグループの生徒――田中里奈からすれば面子を潰されたように感じたのかもしれない。
動機なんて、ほんの些細なもので十分なのだ。大層な理由なんてそこにはいらない。
(考えの相違から発生するよくある諍い。ですが、よくあるからこそ拗れやすい……といったところですわね)
涼音は静かに端末を閉じて、天井を見上げる。
結果的に見れば、永瀬凛は間違っていない。
ダメなことをダメだと言えることは、本来であれば素晴らしいことだ。
しかし、集団の中では『空気を乱した』と切り捨てられることもある。その集団を仕切りたい人間にとっては、なおさら脅威だ。
田中里奈は、自分に異を唱えた人間――永瀬凛を排除しようとした。
公にではなく、静かに、じわじわと。
それが、この件の本質だ。
証拠を集めて、並べて、突き出して、強引に解決させるのは当然可能だ。やろうと思えばいくらでもできる。
しかしそれは、依頼人が描く理想とは異なる。
甘いのかもしれない。
楽観的なのかもしれない。
しかし、個人の私情で誰かを陥れようとするのは……それこそ田中里奈となにも変わらない。
(わたくしが……ラシンである意味)
里奈の表と、裏。
彼女の抱える矛盾こそが、涼音たちの手の中にある最大の武器だった。
その武器を、有効活用できれば。
× × ×
放課後。
旧校舎へ向かう前に、涼音は一カ所だけ寄り道をした。
音楽準備室だ。
音楽の先生は合唱部の顧問も担当して、先日の吉川美香の一件で接点ができていた。
先生は涼音のことを『しっかりした生徒』だと思っているため、訪ねて行っても怪しまれることはない。
ただし、直接的になにかを聞くわけではない。
自然な流れで、必要な情報だけを確認する。
そしてそれ以上は、踏み込まない。
「先生、お忙しい中申し訳ありません。音楽の授業について少し質問したいことが……」
「あ、橘さん。どうぞ入って」
涼音は準備室に入り、先生と向かい合う。
授業について話を数分してから、自然な流れで続けた。
「……そういえば先生、最近一年生の雰囲気はいかがです? 委員会の仕事で、学校全体の様子を把握するようにと言われていますの」
「一年生の? 急にどうしたの?」
「先生は一年生の授業も受け持っているので、よくご存じかと思いまして……。特に気になるクラスがあれば、参考までに教えてほしいですわ」
先生は少し考えてから、言った。
「うーん……それなら三組が少し元気ない気がするかも。ハッキリとは言えないんだけど、なんとなく気になってて」
「三組……そうですか。もし気になることがあれば、またお話を聞かせてください」
「分かった。もう少しちゃんと見てみることにするよ」
「ありがとうございます。では失礼しますわ」
涼音は丁寧に礼をして、準備室を後にした。
名前は出さない。
詳しく話すこともない。
しかし、先生の目を少しだけ一年三組に誘導することができた。
大人の目が向いているというのは、それだけで多少の抑止力にはなる。
涼音はそれを計算した上で動いていた。
派手なものなんて必要ない。
少しずつ、それでいて確実に進んでいる。
それは間違いない。
× × ×
――放課後、旧校舎三階。
部室に岳たちと波留が揃ったのを確認して、涼音は端末を起動した。
「今日はわたくしから報告しますわ」
涼音が口を開くと、全員が静かになる。
一通りの情報を、涼音は話した。
田中里奈まわりのトラブルがなんとなく掴めてきたことや、永瀬凛の身に起きたこと。
そして先生にそれとなく、一年生に目を向けるように誘導したこと。
涼音が話し終わるまで、岳たちはただ静かに話に耳を傾けていた。
「なるほどな」
話が終わると、岳が口を開いた。
「きっかけとしては、よくあるようなことだ。だが、だからこそ余計に拗れた……ってところか」
「……ええ、まったく同感ですわ」
「洸太、そのあたりの話をそれとなく周りの人間から掘り下げられるか?」
「もちろんすよ。いい感じにやっておくんで任せてくださいっす。涼音っち、ナイス情報っす!」
「ふふ、せいぜい有効活用してくれることを期待しますわ」
挑発的な物言いに、洸太は得意げに笑う。
二人らしいやり取りだった。
「あの、橘先輩。それってつまり、凛は正しいことをしたのに孤立させられた……ってことですか?」
「正しいことをしたから孤立させられたからこそ、孤立させられた……が正しいですわね」
「え?」
「田中里奈さんにとって、永瀬凛さんの正義感は脅威だったのだと思いますの。自分に異を唱えられる人間が近くにいる。それが怖かったのでは?」
「私も涼音に同意します。仕切りたがりな人間ほど、そういった人間を排除する傾向がありますからね」
湊の言葉に、涼音はこくりと頷く。
幼馴染の事情をさらに理解してしまった波留のなかに、より強い悔しさがこみ上げるのが見えた。
波留の表情の変化に気が付きつつも、涼音は続けた。
「わたくしたちの手の中にある里奈さんの矛盾……それを上手く利用するしかありませんわね」
「ああ。その矛盾を田中自身に気付かせる状況を作る。まだあいつの中に人の心があるのなら……そこで自分の愚かさを理解するはずだ」
「その人の心、がなかったらどうしますの?」
「……まぁ、そのときはそのときだ。少し強引な手段をとる」
岳はそう言うと、ちらりと波留を見た。
「……了解ですわ。それで岳さん」
「なんだ?」
「湊さんに任せようとしている作戦……そろそろお聞かせいただいけますか?」
「あっ、それそれ!! あたしも聞きたい!」
「あ、じゃあオレも聞きてーっす」
洸太と清那が身を乗り出す。
岳は全員を見渡してから、湊に目を向けた。
「岳、私から話すわ」
「了解。それじゃあ任せた」
「ええ」
湊はそれぞれにぐるっと視線を向けたあと、静かに話し始めた。
「近々、生徒会主催の啓発スピーチをあることは知っていますね。潮騒高校で年に一度行われている学校行事で、各学年から数人ずつ選出され、それぞれが人権やモラル、SNSとの向き合い方といった……人間の意識に関わるテーマについて発表するものです」
「うわー、意識高そうなイベントだなー」
堅苦しそうな響きに、清那が眉を引きつらせた。
「そのイベントに、田中里奈を絡めようと思っています。普段からSNSで啓発的な内容を積極的に発信している彼女が、公の場で自分の言葉を語る機会を作ります。そして同時に、凛さんの状況が少しずつ変化しているタイミングと重なれば……」
「里奈さんが自分の行動との矛盾に、自然に気付くかもしれない……というわけですわね」
「上手くいく保証はありません。ですが、そこですらなにも思わないような人間でしたら……それこそ岳が言う『強引な手段』に移行することも視野に入れます」
部室に、静かな緊張感が漂った。
「まさに、生徒会の湊先輩だからできることっすね。でも岳先輩、そんなことで田中里奈が心を入れ替えますかねー?」
「さぁな。そればかりは本人次第だ。ただ……」
「ただ?」
「俺のほうでも、あいつの二つのアカウントを見ていて気になったことがある」
「ガクさん、なにを思ったの?」
清那が首をかしげる。
「あいつが裏のアカウントで攻撃的な言葉を投稿したあと、その『欠落』を埋めるように……表のアカウントでもすぐに前向きなメッセージを投稿しているんだ」
「……たしかにそうですわね」
「それが俺には自分を正当化しているように見えた。自分は間違ってない、自分はこれでいいんだ……って感情が透けて見えたんだよな」
「はーん、そんなところまで見てるんすね」
「希望的観測だけどな。とはいえ、その部分を突く価値は十分にある。人間は自分を正当化したがるときほど、心のどこかで後ろめたさを感じてるもんだからな」
部室にしばらく沈黙が流れた。
岳の話に、それぞれが田中里奈のことを頭に浮かべる。
彼女の中に罪悪感はあるのか。立ち止まる気はあるのか。
それとも既に、立ち止まれなくなっているのか――
「ともかく……涼音、よく裏の細かい部分まで探ってくれたな。助かった」
「……なんてことありませんわ」
視線を端末に戻しながら言った涼音の口元が、ほんのわずかに緩んでいた。
「ミナト、生徒会のことは引き続き頼んだぞ」
「任せておいて」
「そんで……セナ!」
「はいセナですっ!」
「そろそろお前の出番だ。永瀬に接触してくれ。田中が動く前に、永瀬が少しでも前を向けるようにしておきたい」
「りょーかいっ! ふっふっふ、あたしの腕の見せ所だねー!」
岳は全員を見渡した。
一人ずつ、確かめるように視線を向けてから、最後に波留へと目を向ける。
「水篠、お前からはなにかあるか? 依頼にそぐわないことがあればすぐに言ってくれ」
「い、いえ……! 私からはなにも……でも」
「でも?」
「凛が、正しいことをしたから孤立させられたって……やっぱり、悔しいです」
「当然だと思いますわ」
波留の言葉に、涼音が静かに言った。
「あなたが悔しいのは正しい感情ですわ。ただ、今はその悔しさを忘れず……力に変えて待っていてください」
「橘先輩……」
「あなたが抱えている感情は、いつか自分にとって大きな糧になります。それはわたくしが保証しますわ」
波留はしばらく黙り……その後、力強く頷いた。
涼音はそれを見て、安心したように小さく息をついた。
待つことが、今の波留にできる最も大事なことだ。
動けないもどかしさは痛いほどわかる。
でも、動きすぎれば凛を傷つける。
それも、涼音にはわかっていた。
× × ×
その夜、涼音は自分の部屋で端末を眺めていた。
表向きは正しいことを語り、裏では正しいことをした人間を排除しようとしている。調べれば調べるほど、腹立たしい気持ちになる。
涼音がこういったことに敏感なのには、理由があった。
中等部のころ、似たようなことがあったのだ。
クラスの中で、特定の生徒が少しずつ孤立していくのを、涼音はただ黙って見ていた。
誰かが積極的に攻撃しているわけじゃない。
ただ、誰も話しかけなくなって、グループに入れなくなって、存在を透明にされていく。
当時の涼音は今よりももっと臆病で、周囲からの視線に敏感で、輪に入れずにいつもネットの世界に自分の居場所を求めていた。
涼音は彼女が孤立していく様子を黙って見ながら、助けることも止めることもできなかった。
文字通り、なにもできなかったのだ。
声を上げたら、自分が次のターゲットになるかもしれない。
頭の片隅で――そんなことを考えてしまったのだ
その子は結局、転校してしまった。
涼音は今でも、そのことを後悔している。
あのとき助けられていたら、声をかけていたら、立ち上がっていたら……。
何度思ったかわからない。
でも後悔しても、過去は変えられない。
それがさらに、涼音の中の悔しさを搔き立てた。悔しさや自分の無力さに押し潰されそうになった。
そんなある日、中等部に足を運んでいた舩森宇美と出会ったのだ。
偶然顔を合わせて、涼音の表情が気になった宇美に話を聞かれて……気付いたらすべて話していた。
そして、メモを一枚渡された。
旧校舎三階、東端。
初めて放課後羅針部の扉を開いたあの日のことは、涼音は今でも覚えている。
岳が涼音を見て、こう言ったのだ。
――『君が彼女を助けられなかったのは、怖かったからだ。でもそれは人間の心理として当然で……責められるものじゃない。だからこそ……橘涼音、次はどうする? どうしたい?』
涼音は少しの間黙ってから、答えた。
――『次は、動いてみせますわ』
岳は頷いて、言った。
――『ああ、いい答えだ。せっかく君にはネットに強いという明確な武器があるんだ。その武器を上手く使うことができれば、誰かの助けになれるかもしれない』
――『持っているだけでは、情報なんてなんの意味もありませんわ。わたくしはもう……絶対に間違いません』
――『そうか。それなら君が道に迷わないように、少しだけ俺たちがその背中を押そう』
そうやって橘涼音はラシンと出会い、憧れ、同じ道を歩みたいと強く願った。
涼音は端末を置いて、窓の外を見た。
夜の街の灯りが、遠くまで広がっている。
「……頼みましたわよ、湊さん」
頼れる副部長に向かって、そうこぼした。




