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第4話 水篠波留

 一年生──水篠波留は悩んでいた。


 正確には、ずっと悩んでいる。


 けれど答えが出なくて……それでもどうにかしなければという焦りだけが、日ごとに大きくなっていた。


 まるで胸の中に一滴の滴が落ちて、日を追うごとにそれの波紋が少しずつ大きくなっていくような感覚だ。


 幼馴染である永瀬凛の様子が、やっぱりおかしい。


 最初は、少し距離ができただけだと思っていた。


 高校に入って、環境が変わった。

 クラスも違う。

 新しい友達だってできる。


 一緒に帰ることが減っても、話す時間が短くなっても――寂しいけど、仕方のないことなのだと。


 そう思おうとしていた。


 でも……とてもそれだけだとは思えない。


 廊下で見かけた凛の顔色が悪かった。

 鞄がいつもより重そうで、歩き方にも覇気がない。


 ほかの同級生と話している姿を見かけたこともある。


 笑ってはいた。


 けれど、その笑顔だけが――いつもより、一拍遅かった。


 幼い頃からずっと一緒にいた波留だからこそ分かる、小さな違和感。


 そして波留には、その理由にも薄々心当たりがあった。


 だからこそ、怖かった。


 踏み込めば、凛が必死に隠しているものを暴いてしまうかもしれない。


 それが凛を逆に傷つけるかもしれない。


 でも、踏み込まなければ凛はどんどん遠ざかっていく。


 どちらに動いても、正解なのかもしれない。

 どちらに動かなくても、間違いなのかもしれない。


 それでも、波留にとって大切なことはひとつだけある。


 幼馴染が良くない方向に変わっていく姿を──放っておくことなんてできなかった。


 × × ×


「あのね、莉緒」


 ある日の昼休み。


 波留はクラスメイトの早川莉緒と向かい合い、購買で買ったパンを手にしたまま、ぽつりぽつりと話していた。


「幼馴染の……凛のこと、やっぱりどうにかしてあげたいんだ。でも、うまく考えはまとまらなくって……」

「うん。……まぁ、お互いを良く知ってるからこそ踏み込みづらいことってあるよね」


 早川莉緒は、いつものように穏やかな顔で話を聞いていた。


 急かさない、否定しない、割り込まない。


 話すことがあまり得意ではない莉緒だからこそ、聞き手としては優秀だった。


「ハルちゃんは、その幼馴染さん……永瀬さんになにをしてあげたいの?」

「手を差し伸べたい。でも……どう差し伸べればいいのか分からないの。凛が抱えてることに踏み込もうとすると、凛が隠したいことを暴くことになる気がして……それが怖い」


 情けないと言われるかもしれない。

 

 うじうじしてないでさっさと動けって思われるかもしれない。


 それでも、波留にとっては大きな悩みで……。


 莉緒が言った通り、親しい相手だからこそ尚更距離感に悩んでしまう。


 相手は自分の助けなんて望んでいないんじゃないか。

 勝手なことをしたら相手の環境を壊してしまうんじゃないか。


 ぐるぐるぐるぐる……答えの出ない問いだけが頭の中を回っていた。


「永瀬さんが抱えていること、ハルは知ってるの?」

「……なんとなく、だけど。でも、それが合ってるのかは分からないし……確かめてもない」

「なるほど。……結構、沼っていると見た」

「うん……だいぶ」


 「そっかぁ……」と、莉緒はしばらく黙っていた。


 莉緒はコミュニケーションが苦手で、それこそ波留以外に親しい人間はほとんどいない。


 それを苦痛だと思ったことはなく、それゆえに人間関係の悩みを抱いたことはない。


 たった一人の友達が悩んでいる。

 その友達を、助けない。


 そんな気持ちはもちろんある。


 ある……のだが、適切な言葉を返せる自信がまったくなかった。


(うーん……どうしよう)


 悩んでいるこのまま友達を見捨てる、という選択肢はない。


 でも、自分の力ではただ話を聞くことしかできない。


 もしも。


 もしもこの問題を、解決してくれるような人間がいれば──?


 その瞬間、莉緒の頭の中にひとつの出来事が過ぎった。


「あ」

「どうしたの莉緒?」

「ねぇ、ハル。一回、わたし以外にも誰かにちゃんと相談してみたら? 自分一人で抱えてると、間違いなくどこかで限界が来るよ」

「えっ、誰かって……誰に?」

「先生とか? それか……うん、あのね、これは噂で聞いたんだけど」


 莉緒が周りをキョロキョロと見回したあと、少し声のトーンを落とした。


 これはこの間、図書室で本を読んでいたら耳に入ってきた話だ。


「うちの学校にね、なんか相談に乗ってくれる『部活』があるんだって」

「相談に乗ってくれる……え、部活?」

「そう。詳しくはわたしも全然分からないんだけど、困ったことがあればなんでも聞いてくれて、解決の糸口を与えてくれる……らしい。ほんとにただの噂話らしいから、確証はないけど」

「そんな部活聞いたことないんだけど……説明会にもなかったよね? それこそ部室はどこにあるの?」

「それも全然分からないらしいよ。どこにあるのかも、誰が所属しているのかも。ただ……なんかね、本当に困ったときにだけその部活に辿り着ける……って」

「なにそれ……」


 莉緒の話に波留は首をかしげた。


 あまりにも漠然としすぎていて、半信半疑だった。


 でも、自分を励ますためだけの嘘とは思えないし、莉緒はそんな嘘をつく人間ではない。


 相談に乗ってくれる部活……。


 そんな部活、本当にこの学校に存在するのだろうか。


「……ごめん、ちょっと信じがたいんだけど」

「だよね、わたしも同じ気持ち。……でも、その噂がどうであれ、ハル一人で抱え込んでほしくないよ。わたしも見てて辛いから」


 莉緒がそう言って、静かに微笑んだ。

 波留はその顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。


「莉緒……ありがとね。こうして話を聞いてくれるだけで心強いよ」

「うん。それならよかった。いつでも話を聞くから、わたしのことも頼ってね」

「もちろん!」


 × × ×


 その夜、波留はベッドの中で莉緒から聞いた話が頭から離れなかった。


 相談に乗ってくれる部活。

 解決の糸口を与えてくれる。

 どこにあるのかも、誰がいるのかも分からない。


 そもそも、本当に存在するかどうかも分からない。


 普通に考えれば、ただの都市伝説だ。


 噂好きの生徒が勝手に流している話かもしれない。


 それでも。


 波留は気付いたら翌朝、『進路相談室』のドアの前に立っていた。


 進路相談担当の教師、舩森宇美は、進路以外の相談も受け持ってくれると話を聞いた。


 ――『自分一人で抱えてると、間違いなくどこかで限界が来るよ』


 莉緒の言う通りだ。


 ちゃんとほかの人を頼って、改めて自分の考えを整理しよう。


「ここで合ってる……よね?」


 波留はドアを見つめた。


 『学生相談室』という小さなプレートが付けられている。


 一年生なのにここに来ていいのだろうか。

 いや、悩みに学年なんて関係ない。


 波留は深呼吸を一つして、ドアをノックした。


『はい』


 中から、落ち着いた女性の声が返ってきた。

 波留は意を決してドアを開く。


「し、失礼します……」

「お、初めてのお客さんだねぇ」


 親しみのある明るい声で波留を迎えてくれたのは、美しく長い黒髪が特徴的な女性だった。


 舩森宇美は、まず入ってきた生徒――水篠波留の顔を見る。


 なにを言うか、ではなく『どんな顔』をしているか。


 人間というのは言葉より先に、表情がすべて語っていることの方が多いからだ。


 十年以上こんなことをしていると、顔を見ただけで大体のことが分かるようになる。


(ずいぶん迷っているようだね、この子は)


 困っているのは見て明らかだった。


 そしてそれ以上に――


 自分がここへ来たことが正しいのかどうか、まだ判断できていないような……そういう顔だった。


 三年生ではないということは、進路以外の悩みである可能性が高い。


「ほら、立ってないでとりあえず座ってよ」

「あ、は、はい……!」


 宇美は椅子に座るように促す。


 波留がゆっくり腰を下ろすのを待ってから、棚からコップを取り出して、お茶を淹れた。


 そしてコップを波留の前に置き、改めて彼女と向かい合う。


「話せることだけでいい。まずは落ち着いて、君の話を聞かせてくれるかい?」


 優しい声音に、波留の気持ちは少し和らぐ。


 少し迷ってから……ゆっくりと話し始めた。


 幼馴染の永瀬凛のこと。

 最近の様子がおかしいこと。

 助けたいけど踏み込めないこと。


 踏み込もうとすると、凛の秘密に触れてしまう気がすること。


 正解が――分からないこと。


 宇美は最後まで、ただ静かに話を聞いていた。


 相槌を打ちすぎない。だからといって、聞いていないわけじゃない。


 その上手いバランスが、話す側には不思議と心地よかった。


 話し終えた波留が、少し恥ずかしそうに俯いた。


「……う、うまく話せなくてごめんなさい。ちゃんとした相談じゃないかもしれないんですけど……」

「相談にちゃんともなにもない。君は心の底から悩み、必死に考えている。それだけでもう立派な悩みで……立派な相談だ」

「……ありがとうございます」

「ひとつだけ、聞いていいかな?」

「な、なんでしょう?」

「例え、誰かに相談して答えを与えられたとしても……最後に考えるのは君自身だ。君自身の足で立って、君自身の力で走らないといけない。道を決めて走るのも、その結果傷ついたとしても……それは君の意思だ」


 宇美の言葉に、波留は息をのむ。


「その覚悟が、歩む意思が――君にはあるかい?」


 最後に考え、立ち、走るのは自分自身。


 例え傷つくとしても。

 上手くいかなかったとしても。


 すべて……自分が決めたこと。


 自分の、意思。


 波留は膝に置いた手をグッと握る。


 幼馴染のためになにができるのか。


 いや、違う。


 自分が、どうしたいのか。


 永瀬凛に対して、水篠波留が求めることはなんなのか。


 目的を見誤ってはいけない。

 責任をなにかに押し付けてはいけない。


 この悩みは……自分だけのものなんだから。


 波留は深く息を吐いたあと、改めて顔を見上げた。


 その顔を見ただけで、宇美はただ笑った。



「あります!」

「いい返事だ」


 宇美はそう言うと、机の引き出しを開ける。

 そして一枚のメモを取り出すと、波留に渡した。


「放課後、ここに行ってみるといい」


 メモには、旧校舎三階への道順だけが書いてあった。

 それ以外に、なにも書いていない。


「旧校舎、三階……? あの、ここに行ってなにがあるんですか?」

「行けばわかる」

「は、はぁ……」

「別に怖くないさ。ただ、そこには君の悩みを親身に聞いてくれる者たちがいる。君の悩みを本気で受け止めてくれる者たちがいる。それだけだよ」


 悩みを聞いてくれる者たち……?


 その言葉を聞いた瞬間、波留は表情をハッとさせる。


 ――『うちの学校にね、なんか相談に乗ってくれる部活があるんだって』


 まさか。


 本当に存在するのだろうか。


 もし本当にその部活のことを指しているのだとしたら、舩森先生は何者なのだろうか。


 考えることは尽きないが、とにかく波留はその話を受け入れるしかなかった。


「わ、分かりました」

「その場所に行ったら、ちゃんと本音を話すんだ。取り繕わなくていい。かっこつけなくていい。あなたが本当に困っていることを……そのまま、彼らに話してみて」


 波留は頷いた。


 少しずつ、少しずつ。


 波留の中の歯車が、動きだしていた。


「ありがとうございます、先生!」

「別にお礼なんていらないよ。私はただ、君の話をちょこっと聞いただけだ」

「それでもです!」

「ははっ、若い子は素直でいいねぇ」


 真っ直ぐな顔を見て、宇美はただ楽しそうに笑った。


 あとは彼らに託すとしよう。


 きっと、なんとかしてくれる。


(それじゃ、頼んだよ……岳)


 × × ×


 進路相談室を出た波留は、メモを手に旧校舎への渡り廊下を歩いていた。


 普通の生徒が使わない廊下で、波留自身も初めてやって来たほどだ。


 静かで、少し埃っぽくて……一歩歩くたびに、床が微かに軋む。


 同じ学校のはずなのに、まるで別の場所に来てしまったような感覚がある。


 まるで日常から、一枚だけ扉をくぐった先みたいな……。


「三階、三階……」


 三階まで上がって、廊下を東へ歩く。


 ネームプレートのない扉が並んでいる。


 どれもこれも似たような扉で、どこにも案内がない。


 物置らしいダンボールが廊下の端に積んであって、蛍光灯が一本だけ微かに明滅していた。


 そして突き当たりの扉まで来たとき、波留は足を止めた。


 扉の右上の隅に、小さなシールが貼ってある。


 恐らく……羅針盤の絵柄だ。


 古びていて、少し色が褪せている。


 でも、それが『都市伝説への入り口』だということは一目でわかった。


 波留はそれをじっと見た。


「ここが……」


 なにが待っているのか分からない。

 誰が待っているのか分からない。


 けれど、ここまで来たからには突き進むしかない。


 波留は深呼吸をして……それから、ドアをノックした。


『はーい、どうぞー』


 男子生徒の声が返ってきた。


 波留はドアを開けた。


「し、失礼します!」


 部屋に一歩、足を踏み入れた瞬間――


 『五人』の視線が、一斉に波留を射抜いた。


 思わず気圧されそうになるも、なんとか耐える。


 中央に座っている者。

 その隣に座っている者。

 隅に座っている者。

 窓枠に座っている者。

 壁に背中を預けて立っている者。


 彼らはなにも言わず、波留を見ている。


 それぞれの目には、品定めするような鋭さがあった。


 怖いわけではない。


 ただ、普通では『なにか』がそこにある……という感覚だけが皮膚をひやりと撫でた。


 部室は薄暗く、窓から差し込む夕方の光がテーブルを照らしている。


 そのテーブルの中央には、羅針盤がひとつ置いてあった。


 ひどく古びた、でも丁寧に磨かれた羅針盤。


 針がひとりでに静かに揺れて……止まる。


 波留は思わず、その針を目で追った。


「そんな怖がってないで、とりあえず座ってくれ。俺たちは別に怪しい連中じゃねぇよ」


 中央に座っている男子生徒が、口を開いた。


(あれ……?)


 今の声。

 そして、あの顔。


 波留はその男子生徒を見て、思わず目を丸くした。


 眼鏡をかけていない。

 猫背でもない。


 声のトーンも、話し方も、雰囲気も全然違う。


 『図書室』で会ったときあのあの人とまるで別人のようで……。


 でも、間違いない。


 あの青い瞳と、ダークブラウンの髪。


 波留の直感が告げていた。


 この人は――あの日出会った、図書委員の地味な先輩だと。


「も、もしかして……渡海先輩、ですか……?」

「お、正解。分かったら一旦座ってくれよ。そこにいちゃあ、落ち着いて話もできないからな」


 どうしてここに渡海先輩が?

 それより、どうして表情や声音が全然違うのだろうか?


 付いていけない状況に戸惑いながらも、波留はゆっくりと席に座る。


 五人の人間が、こちらを見ている。


(え、うそ……!)


 改めて彼らを見てみると、全員がどこかで見たことがあるような有名人だった。


 よく女子生徒に囲まれている、茶髪のチャラそうな先輩。

 大企業の令嬢で、お嬢様オーラ全開の先輩。

 いろいろな部活に顔を出している、元気いっぱいの同級生。


 そして――生徒会副会長。


 表向きならなんの繋がりもなさそうな面々が、なぜか同じ部屋に集まっていた。


「たしか君は、水篠……で合ってるよな?」

「は、はい。水篠波留……一年生です」


 緊張した面持ちで、波留は頷く。

 すると、窓枠に座っていた同級生の生徒が笑顔で口を開いた。


「あー! ガクさんがいつの間にか女の子と知り合ってるー! ミナトさん怒っちゃうよ~!」

「おい、人聞きの悪いことを言んじゃねぇ。ミナトもあいつも言うことは無視して――」

「二人とも、依頼人の前です。……岳、あとで聞かせてちょうだい」

「……え、なんで?」

「話を聞かせてちょうだい?」

「……はい」

「くくっ、湊先輩の前じゃ岳先輩も形無しっすねー」


 波留はぽかんとそのやり取りを見る。


 思っていたより、ずっと普通だ。


 いや、メンバー的に普通ではないのだが……。


 少なくとも、怖い人たちではなさそうだった。


「さて、水篠波留」


 名前を呼ばれたことで波留は背筋を伸ばす。


「ここに来たということは……なにか悩みを抱えている、ということでいいか?」

「そ、そうです」

「分かった。俺たちはその悩みに対して、全力で考え、全力で尽くす。決して君を一人で悩ませることはしない」

「え……」

「ただ、そのためには二つの条件がある」


 岳の口調は静かだが、目は真剣だった。


「その条件って……?」

「一つ目。俺たちの存在を……この部の存在を誰にも話さないこと」


 岳は淡々と言う。


「この部活を見た、聞いた、関わった。そのすべてを、君の中だけに留めてくれ。俺たちが何者なのか、どこにいるのか、なにをしているのか。一切、外には出さないこと」


 波留は、岳の目を見た。


 冗談で言っているわけじゃない。


 この人は本気だ。


 本気で、私の話を聞こうとしている。


 波留はそれを、一瞬で理解した。


「……守ります」

「本当に守れるか?」

「守ります」


 岳はしばらく波留を見ていた。

 それから、小さく頷いた。


「次に二つ目。報酬は学食一回だ。部員全員に、一回ずつ奢ってくれ。それ以上も、それ以下も要求しない」

「……え、学食ですか?」

「そうだ。金も物も要らない。期限は……俺たちが卒業するまで、だな」

「わ……分かりました。二つの条件をちゃんと守ります」

「ならよし!」


 岳はニッと笑い、他の部員を見回した。


 それぞれが頷き、波留へと視線を戻す。


 岳は一度羅針盤へと目を向けたあと、再び波留を見る。


「まず、俺たちがどんな部活なのかを簡単に説明しておく」

「はい」

「俺たち放課後羅針部――ラシンは、悩みを抱えた生徒の相談を受ける部活だ。ただし、問題を解決することが目的じゃない」

「え?」

「俺たちがやることは、あくまでも依頼人自身がより良い道を選べるように、道を指し示すことだけだ。そのために各自が情報を集め、全力で動く」

「道を指し示す……」

「最後に答えを出すのは、君だ。君の足で立って、君の足で走ることになる。俺たちはその背中を少しだけ押す……それだけだ」


(あ……)


 ここでようやく、波留は宇美の質問の意図を理解した。


 ――『例え、誰かに相談して答えを与えられたとしても……最後に考えるのは君自身だ。君自身の足で立って、君自身の力で走らないといけない。道を決めて走るのも、その結果傷ついたとしても……それは君の意思だ』


 だから宇美は、自分に問いかけてきたのだ。


 もしも、あの場面で自信をもって頷くことができなかったら――


 きっと自分は、今この場所に座れなかっただろう。


「羅針盤ってのは、船に答えを教えてくれるわけじゃない。ただ、方向を示すだけだ。最後に舵を取るのは、自分自身だろ?」

「……方向を、示すだけ」

「そうだ。最後にどこを目指すか決めるのは……水篠、君だ」


 波留はしばらく黙って、テーブルの中央の羅針盤を見つめた。


 針がひとりでに静かに揺れている。


 あくまで羅針盤は、方向を指し示しているだけに過ぎない。


 最後に舵を取り、船を動かすのは自分の意思。


「あ、ただし! 俺たちはあくまでも学生だからな。金銭が絡むものだったり、非合法なものは受け付けないぞ? それ以外なら、大抵のことは引き受ける」


 波留は考える。


 また、この状況のすべてを理解したわけではない。


 渡海の言っていることをすべて信じ、受け入れたわけじゃない。


 それでも……波留はどこか期待に胸が膨らんでいた。


 一歩進めば、なにか変わるかもしれない。


 止まっていたなにかが、動き出すかもしれない。


 それならば――


「分かりました」


 答えはもう、決まった。


「改めて……君の話を聞かせてくれ。なにを抱え、なにに苦しみ……なにに戸惑っているんだ?」


 波留は深呼吸をして、凛のことを話し始めた。


 取り繕わずに……すべてを。


 渡海たち五人は、静かに聞いていた。


 話し終えた波留が、小さく息をつく。


「――こんな感じです。その、うまく伝えられたかは分かりませんけど……」

「いや、十分だ。君がその幼馴染のことを、大切に思ってることはちゃんと伝わってきたよ」

「あ、ありがとうございます……」

「ちょっと聞いていいか? その幼馴染が抱えていることを、君はなんとなく分かってるって言ってたよな。それは、どんなことだ?」


 本音を話す。

 取り繕わない。


 波留は宇美から言われたことを、改めて振り返る。


 これを話したらもう、戻れない。


 でも、大丈夫。


 波留はもう、進むと決めたから。


「……凛が、その、クラスからハブられてるんじゃないかって……思ってます」


 部室に、静かな沈黙が落ちた。


 凛は明るくて、面白くて、優しくて、友達が多い。


 それは波留が誰よりも知っている。


 だからこそ、最近の凛が一人でいることが多いから薄々感じていた。


 もしかしたら、クラスでなにかあったのではないか……と。


 優しいからこそ、明るいからこそ。


 余計に傷を負ってしまっているんじゃないか……と。


「なるほどな。最後に……君は永瀬凛とどうなりたいんだ?」

「昔みたいにくだらないことで笑い合って……そして、同じトラックの上を、一緒に走りたいです……!」


 それは波留の、心からの願い。


 特別なことなんてなにもない。


 波留はただ、取り戻したかった。


 大好きだった、あの日常を。


 大好きだった、あの笑顔を。


「もし本当にクラスの連中にハブられているとして……やり返したいとか、そういう気持ちはあるか?」

「それは……凛が決めることです。私はただ……あの手を取りたい。それだけです」

「分かった。――俺はこの依頼を受けたい。お前らはどう思う? 」


 岳はそれぞれ一人ずつ視線を向けていく。


 放課後羅針部(ラシン)は決して、岳一人の部活ではない。


 岳だけの考えで動くこともない。


 全員が同じ意思で、同じ場所へ向かう意思がなければ依頼を進めることはできない。


 ゆえに、依頼を受ける最後の条件。


 それこそが――全(・)会(・)一(・)致(・)。


「異議なし! 清那ちゃんがんばりますよー!」

「オレも異議なしっすね」

「わたくしもありませんわ」

「私もないわ、岳」


 考える間もなく、それぞれが頷いた。


「みなさん……」


 突然やってきた、名前の知らない一年生。


 そんな自分のために……。


 波留は思わず「ありがとうございます……!」と頭を下げていた。


「よっしゃ。それじゃ……『全会一致』、でいいな?」

「ええ、そうね」


 やるべきことは決まった。

 あとはただ、全力で動くだけだ。


「ミナト」

「ええ。水篠波留さん」

「はいっ……!」


 岳が声をかけると、湊は立ち上がる。


 真っ直ぐに波留を見つめて――


 静かに、そして良く通る声で言った。


「あなたのお悩み、我々――放課後羅針部(ラシン)がお預かりしました」


 波留は思わず、その言葉に息を呑んだ。


 湊の一連の動作が、一枚の絵画のように美しくて。

 淡々とした声音なのに、その奥にはちゃんとあたたかさがあった。


 続けて、その隣に座っている岳が立ち上がり……不敵な笑みを浮かべる。



「それじゃ、始めようか――俺たちの部活動を」


 × × ×


 薄暗い部屋の中で、五人の生徒がこちらを見ていた。


 誰一人として余計な言葉を発しない。


 ただそこにいるだけで、空気の質量が違う。


 波留はそのとき、自分がなにか大きなものの入り口に立っていることを、理屈ではなく全身で感じた。


 部室のテーブルの中央には、羅針盤が置かれている。


 ひどく古びた……でも、丁寧に磨かれたひとつの羅針盤。


 針がひとりでに静かに揺れて、やがてある方向で止まった。


 まるで、答えはここにあると言いたげに。


 彼らの言葉が、波留の胸に刺さった。

 彼らの表情が、忘れられなかった。


 その一瞬に、心を奪われてしまった。


 これが、水篠波留と放課後羅針部の出会い。


 それこそ彼女にとって――


 自分の人生を変える、運命の出会いだった。

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