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第3.5話 羅針盤の原点

 ――その夜。


「フフ、今回も無事に依頼達成か。岳たちも、なかなかやるようになってきたじゃないか」


 潮騒高校に勤める国語教師兼、放課後羅針部の顧問――舩森(ふなもり)宇美(うみ)は、職員室でコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。


 夜の校舎は静かだ。


 昼間はあれだけ賑やかだったのが嘘みたいに、廊下にも教室にも誰もいない。


 窓の外には街の灯りが広がっていて、遠くでサイレンの音が聞こえた。


 宇美はこの静けさが嫌いじゃなかった。


 昼間の喧騒の中では見えないものが、この静けさの中では見えてくることがある。


 宇美が引き出しをあけると、そこには封筒が一枚入っていた。


 まだ開けていない、受け取ったばかりの封筒だ。


 宇美は封筒に手を伸ばす前に、ふと窓の外を見た。


 夜の川が、遠くに光っている。


「川……か」


 川を見ると、どうしても過去の出来事が頭をよぎる。


 宇美にとっても忘れられない、あのひととき。


 × × ×


 ――これは、舩森宇美がまだ高校生だった頃の話だ。


 当時の宇美は、放課後羅針部と同じようなことを一人でやっていた。


 ただし、学校に認められた正式な部活動でもなんでもない。


 ただ、困っている人間を見ると放っておけなくて……勝手な判断で、自分にできる範囲で動いていた。


 誰かに相談に乗ったり、情報を集めたり、誰かと誰かの間を取り持ったり……。


 報酬はたったひとつ。


 コンビニでなにかおいしいものを奢ってもらうことだ。


 対等な見返りなんて求めない。

 謝礼なんて求めない。


 ただ、自分がやりたいからやっているだけだ。


「だいぶ風が冷たくなってきた……。もうすぐ秋ってことかな」


 ある日の夜、宇美は一人で川沿いを歩いていた。

 一歩歩く度に、腰に下げている『羅針盤』が揺れる。


「ん? あれは……」


 橋のたもとに、人影が見える。


 それも小学生か、中学生くらいか……。


 どちらにしても、子供だということには違いない。


 しかし、それ以上に気になってしまったのはその子供の格好だった。


 とてもじゃないが、良い環境で育っているとは思えないくらい格好がボロボロだったのだ。


 その子供……おそらく男の子は、川を見つめながら立っている。


 泣いているわけじゃない。

 叫んでいるわけでもない。


 ただ、一人でそこに立っていた。


「ふむ」


 宇美には、その『立ち方』の意味がなんとなく分かってしまった。


 どこにも行けない人間の、立ち方をしていた。


 これまで自分が出会ってきた悩める者たちと、同じように……。


 放っておくという選択はなく、宇美は迷わず男の子に声をかけた。


「そこの少年、ちょっといいかな?」


 男の子が振り返り、目が合う。

 綺麗な青色の瞳だった。


「夜の川で一人黄昏るなんて……相当なおませさんだな?」


 冗談めかした宇美の言葉に、男の子はなにも言わない。


 でも、その場から逃げなかった。


 つまり、宇美のことを警戒しているわけではないのだろう。


「ほれ、そんな少年にお姉さんからプレゼントだ」


 そう言うと、宇美は手に持っていたホットレモンを男の子に差し出した。


 本当は自分で飲むために買ったものだが、目の前の男の子を差し置いて飲むわけにもいかない。


 男の子はホットレモンと宇美を交互に見つめたあと、受け取った。


 男の子の冷えた手のひらに、じんわりと温かさが帯びていく。


「川沿いだからちょっと寒いねぇ」


 宇美はそう言いながら、男の子の隣に腰を下ろした。


 その後、男の子も少し間をおいてから同じように座る。


 十秒ほど、無言の時間が流れる。

 ただ、川の音だけが響いていた。


 宇美はなにも聞こうとしなかった。


 なにがあったのか、どこから来たのか、名前はなんていうのか。


 なにも聞かず……ただ、隣に座って同じ川を見ていた。


 そんな宇美に、わずかに心を動かされたのか――


 しばらくして、男の子がぽつりと言った。


「……おばさんは、怖くないの」

「失礼だな少年。お姉さん、と言いたまえ」


 高校の制服を着ているのだから、学生だということは子供でも分かるはずなのに。

 宇美はむっと眉をひそませ、男の子のおでこを指先で軽く叩いた。


「それで、怖いってなにがだい?」

「おれみたいなやつのこと」

「え? 別に怖くないよ」

「なんで」

「それはもう、お姉さんが大人だからかなぁ?」

「答えになってない」

「はっはっは」


 たった短いやり取りで、宇美は男の子のことをなんとく理解した。


 わざわざ怖いかどうか聞いてくるということは、普段から周囲からそう思われている可能性があるということ。


 そしてそれを、男の子自身が理解していること。


 子供とは思えないくらい落ち着いた佇まい。

 ボロボロの服に、汚れた肌、手入れのされていない髪。


 それだけでも、男の子が身を置いている環境が分かる。


 けれど。


 宇美がそれ以上に興味を惹かれたのは、男の子の『瞳』だった。


 決してくすんでいない、真っすぐな青い瞳。


 この目は現実を諦めていない。挫けていない。


 ちゃんと未来を見ている、強い瞳だ。


「少年、周りからどんな風に思われたとしても……自分だけは自分を『怖い』と思っちゃダメだよ」

「……なんで」

「少年は世界でただ一人、今この場所で生きている。それだけで立派で、それだけで十分だ。それなのに、なにを怖いと思うことがあるんだい?」

「意味わかんない」

「そのうち分かるさ、きっとね」


 男の子は黙った。

 風が吹いて、水面が揺れる。


「ねぇ少年、ちゃんとうまいものを食べてるかい?」

「え?」


 唐突な質問に、男の子は思わず首をかしげた。


「うまいものを食べるとさ、大抵のことは笑って流せるんだよ。不思議とね。なんでもいいから、自分がうまいと思うものを食べてみるといい」


 男の子は少し間をあけたあと、宇美からもらったホットレモンを一口飲んだ。


「……これ、うまい」

「でしょー? 心がちょっとだけあたたかくなった気がしない?」

「これ、ホットレモンだから当たり前じゃん」

「おっと、これは一本取られた!」


 宇美の愉快な笑い声が響き渡る。


「さーてと、お姉さんは帰ろうかな。少年、一人で帰れるかい? お姉さんがついていってあげようか?」

「いい。すぐそこだし」

「そうか。それなら安心だ」


 そうは言っても、男の子が嘘をついている理由がある。


 念のために、こっそり後をつけておこう。


 宇美は心の中でそう決めると、何事もなさそうに立ち上がった。


「あ、あの、おば……お姉さん」

「お、偉い。なにかね少年」

「おれ……渡海、です。渡海岳……」


 僅かに顔を俯かせて、男の子はたどたどしく自己紹介をする。

 その様子を見て、宇美は優しく微笑んだ。


「へぇ、いい名前だねぇ。私は舩森宇美だ。よろしく、少年」

「う、うん……」


 ――それが、渡海岳と舩森宇美の始まりだった。


 × × ×


 数年後、舩森宇美は潮騒高校の教師になっていた。


 そして、学生時代に出会った少年――渡海岳が、制服を着て宇美の前に現れた。


「宇美さん」

「……おや、君は」


 宇美のもとにやって来た、入学したばかりの一年生。


 眼鏡をかけて、少し猫背で、存在感の薄い男子生徒。


 でも宇美には、すぐにわかった。


 眼鏡の奥には見えたのは――


 あの夜に興味を惹かれた、綺麗で真っすぐな青い瞳だったから。


「俺のこと……覚えてますか」

「もちろん覚えているよ。大きくなったね、少年」


 宇美はただ優しく微笑み、そう返した。


「俺、あなたみたいなことをやりたいんです」


 ギュッと拳を握り、岳は続けた。

 その声は少しだけ震えていた。


「あのとき、宇美さんに救ってもらったように……俺も誰かの力になりたいんです。直接助けるんじゃなくて、背中をそっと押すような……そんな生き方をしたいんです」

「別に私は、君を救ったなんて思ってないけど?」

「それでいいんです。大事なのは、受け取った本人の気持ち……そうでしょう?」


 宇美は、しばらく岳を見ていた。


 あの夜、川辺に立っていたボロボロの男の子が……今立派な姿になってここに立っている。


 あのとき宇美が声をかけなければ、この子はどうなっていたか。

 あの少年は、自分の力でちゃんと生きているのか。

 もっと自分にできることがあったのではないか。


 何年も何年も、そう思っていた。


 ずっと、あの少年のことが気がかりだった。


 でも、そんな心配が必要ないくらい真っすぐに育っていて……。


 こみ上げてくる気持ちを、宇美はグッとこらえた。


「……本気なのかい?」

「はい、本気です。そのために俺は、先生がいるこの学校に来たんです」

「おっと、私も人気者になったものだねぇ」


 あの頃と変わらない、愉快な笑い方で。


 宇美は胸ポケットからとあるものを取り出して、岳に差し出した。


 それは、子供の頃からずっと大事にしていた『羅針盤』であり――


 舩森宇美の、起源だった。


「それなら、少年に、これをあげよう」

「これって……羅針盤ですか?」

「ああ。羅針盤の針は、ただ道を指し示すだけ。答えを出すのも、足を動かすのも、最後は自分自身なんだ。少年、君はただ道を示すだけでいい。そのために全力を尽くすんだ」

「ただ……道を指し示すだけ」


 岳は強く頷いて、その羅針盤を両手で受け取った。


「ありがとうございます、先生。あのとき……俺に声をかけてくれて」

「ははっ、お礼はいらないよ。そうだなぁ……学食を一回奢ってくれればそれで十分かな。ここの学食、結構おいしいんだよ?」

「それ、報酬にするんですか? ていうか先生が生徒に奢られていいんですか?」

「いい値段設定でしょ? 実にシンプルで、ね。そういえば少年、もしもそういう部活を作るのなら名前は――」

「決まってますよ。……ううん、今決めました」

「へぇ? なんて名前にするんだい?」


 岳は羅針盤を握りしめて、宇美を真っすぐ見た。


 彼が描く未来。

 彼が歩む道。


 その、第一歩は――



「放課後羅針部、です」


 

 いい名前だ。


 宇美はただ、満足そうに笑った。


 それが、放課後羅針部の始まりだった。


 × × ×


 ――時間は現在に戻って。


「懐かしい記憶だ」


 宇美は窓の外から視線を戻して、コーヒーを一口飲んだ。


 ……時間が経ったせいか、冷めていた。


 思わず顔をしかめながら、机の引き出しから封筒を取り出した。


 その封筒には、生徒たちのさまざまな悩みが書かれている。


 進路相談担当として、宇美はさまざまな相談を日ごろから受けていた。


 ――ただ、この相談は進路とは別件だ。


 もうひとつの顔、放課後羅針部の顧問としての活動の一環だった。


 あの部活は公にされていない。


 では、どうすれば依頼人はあそこにたどり着けるのか――?


 答えは単純だ。


 舩森宇美が、依頼人として相応しい生徒をあの場所に導いているのだ。


 悩みのある生徒を全員送っているわけではない。


 その生徒が、本気で悩んでいるかどうか。

 自分で答えを出す気があるかどうか。


 大事なのは、そういった部分だ。


 自分の意思を強く持っている生徒のみが、あの『羅針盤の前』に立てる。



「さて、次の依頼は……」



 独り言が、誰もいない職員室に静かに消えた。


 コーヒーを飲み干して、宇美は席を立つ。


 窓の外の街の灯りを、もう一度だけ眺めた。


 どこかに、今夜も悩んでいる子がいる。


 そして彼が……彼らが、また動いてくれる。


「頑張れよ、少年」


 その成長が、なによりも嬉しかった。

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