↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/8

第3話 針が指し示す道

 ――吉川美香の一件から、翌日。

 

 合唱部の歌声が、近くの図書室まで僅かながら届いてきた。


 今日も図書委員として活動していた渡海岳は、手を止めずに耳だけを傾ける。


「へぇ……いい歌声じゃねぇの」


 思わず笑みがこぼれて、ぽつりと呟く。


 素人でも分かるくらい、声が揃っていた。


 まだ完璧とは言えないのだろうが、先日までとは明らかに違う。


 どこかぎこちなかったハーモニーに、少しだけ温度が戻ってきたような……そういう音だった。


 複雑に絡まっていたものが、少しずつほどけていっている証拠だろう。


 岳はふと顔を上げ、図書室内を見回した。


「今日は俺だけ……か」


 今日の図書室はいつにも増して静かで、利用者は誰もいない。


 窓から斜めに差し込む光が、棚の間に細長い影を作っている。


 光の中を漂う埃も相まって、まるで時間がゆっくり流れているみたいだ。


 岳はその光景を横目に見ながら、淡々と作業を続けた。


 眼鏡をかけて、少し猫背で、誰も話しかけてこない。


 ただ一人、図書室で過ごす。


 それでいい。

 それがいい。


 『表』の渡海岳は、あくまで冴えない図書委員だ。


 合唱の声に耳を傾けていることも、その声の意味を理解していることも、誰にも気付かれない。


 気付かれてはいけない。


 それこそが、岳の生活のルールだった。


「……お」


 聞こえてくる歌声が、また綺麗に重なった。


 今のは今日一番と言ってもいいほど揃っていただろう。


 ピアノの伴奏に、複数の声が自然に乗っている。


 岳は小さく息を吐いて、貸し出し記録帳のページを捲った。


「……よし」


 その呟きには、たしかな満足感が込められていた。


 × × ×


 一時間後、旧校舎三階『放課後羅針部』の部室には五人が揃っていた。


 岳はドアを閉めると、いつも通り眼鏡を外して、前髪を搔き上げ……背筋を伸ばす。


 そのまま椅子に腰を下ろし、全員を見渡した。


「それじゃ、最終報告を聞こうか。俺が見ている感じでは……結構上手くいったっぽいしな」


 今日の合唱部の歌声を聞けば、ことの顛末は大体想像がつく。


「んじゃ、オレからいいっすか?」

「ああ。頼む、コータ」


 洸太がスマートフォンをしまい、ニッと笑う。


「昨日の休み時間に、合唱部の先輩たちに軽く話を振っておいたんすけど……思ったより早く空気が動いたっすね。大半がその空気に流されてた分、主犯格さえ折れたら、あとは割とすんなりでしたよ」

「さすがはコータだ。人の心を操るのが上手いな」

「ちょ、岳先輩! 人聞き悪いこと言わないでくださいっす!」


 和やかな空気が部室を包んだ。


 きっと洸太だからこそ、彼女たちの心に変化を与えられたに違いない。


 大きな変化ではなく、小さな変化。


 たったそれだけで、十分なのだ。


「悪い悪い。次、スズネ」

「データは昨朝、美香さんの机に届けましたわ。生徒会からの参考資料という形で……なにかあれば湊さんが話を合わせてくれる手筈でしたわ」

「ええ、そうですね。現状これといった問題は発生していません」

「美香さん自身、そのデータをちゃんと見てくれたようですわね。入手したかいがありましたわ」

「完璧じゃねぇの。さすがだ、スズネ」

「……これくらい、なんてことありませんわ」


 ふいっと、涼音は岳から視線を逸らした。


 その様子を黙って見ていた洸太がニヤニヤと笑みを浮かべる。


 普段はまず見ることのない同級生の姿に、楽しい気持ちでいっぱいだった。


 最も、口に出したら怖い目に遭うだろうからなにも言わないが。


「次は……ミナト」


 湊はこくりと頷き、岳へ目を向ける。


「ここに来る前、合唱部の生徒と少し話をしてきたわ。昨日、顧問の先生と吉川さん自身が話し合いの場を設けたことで、空気が変わったらしいわね」

「あれっ、でもミナト先輩! 顧問の先生は……えっと、静観? してるとかなんとか言ってなかったー?」

「はい。なので、生徒会副会長として……少し先生と『お話』をしました。その結果、いろいろ動く気になってくれたみたいで」

「お話って……湊先輩、いったいなにを話したんすか?」

「聞きたいですか、洸太?」

「……怖そうなのでやめておくっす」


 湊は表情の変化が少ないから分かりづらいが、意外と大胆な行動をとる一面がある。


 肝が据わっているからこそ、水面下でのみ動き続ける岳の手助けができるのだろう。


 いつだって冷静に……必要であれば非常な手だって辞さない。


 それを知っているからこそ、洸太は深く追求するのをやめた。


「顧問が少し動いたとはいえ、吉川自身が向き合おうと決めたのが一番大きいな。じゃなければ、結果は変わっていたかもしれない」

「そうね。私からはこれ以上話すことはないわ」

「了解。そんじゃ最後は……セナ。吉川の状態はどうだった? お前、気になって合唱部の覗き見でもしてたんだろ?」

「あちゃー……バレてた?」

「バレバレだ。んで、どうだったんだ?」

「吉川先輩、ちゃんと練習に参加してたよ! しかも、みんなの前に立ってちゃんと自分の気持ちを話してた! なんかこう……すっきりした顔してたなぁ」


 まだ、全体で見れば問題が解決したわけではないのかもしれない。


 それでも、着実に前進していることには違いない。


 吉川美香も、合唱部も。


 これからきっと、より良くなっていくだろう。


 大切なことは自分の気持ちを伝え合う『会話』。


 それさえ、忘れなければ。


「吉川のやつ、笑えてたか?」

「笑えてた!」

「そっか。笑えてるなら大丈夫そうだな」


 それぞれの報告は終わった。


 岳はテーブルの上の羅針盤を一瞥した。


 針は静かに、ひとつの方向を指したまま動かない。


 いつ見ても、この針は迷わない。

 決まったら、そこを指し続ける。


 だからこそ、岳は羅針盤が好きだった。


「よしっ! じゃあ……依頼はひとまず無事達成だな! みんな、お疲れさん!」


 岳が明るくそう言うと、湊たちは小さく息を吐いた。


 岳たちの役目は問題を解決することではない。


 解決に至るための道を作り、指し示すこと。


 それはまるで――羅針盤の針ように。


 それ以上は、岳たちの役目ではない。


「俺たちがなにかを解決したわけじゃない。吉川自身が、自分の足で立った。俺たちはただ、そのための道を少し整えただけ。進んだのは、あいつ自身の意思だ」


 岳たちが動いていたことは、依頼人以外誰も知らない。


 このままきっと、『ただの噂』として消えていくことだろう。


 それでも、誰もなにも言わなかった。


 全員、分かっているから。


 分かっていて、彼らは岳がいるこの部活に入ることを決めたから。


「今回は、比較的早く動きましたわね。もう少し複雑化する可能性も考えてはいましたが……」


 ふと、涼音が端末をしまってぽつりと言った。


「きっと吉川先輩が諦めてなかったからだよ。あたしはそれだけだと思う」

「……えぇ、そうですわね」


 その言葉が、部室にしばらく残った。


「さて、と」


 岳は立ち上がって、軽く伸びをした。


「報酬の『学食』の件、忘れるなよ? 今回の依頼人である吉(・)川(・)の(・)友(・)達(・)が一人ずつ奢ってくれるからな」

「おっしゃ! オレ、なに食おうっかなー!」

「あ、ただしバラバラに行けよ。同じ席にも座るな」

「はーいガク先輩!」

「おう。うまいもんを食えば、大抵のことは笑って流せる。だから飯を食って自分を労え!」

「出ましたわね。岳さんの座右の銘」

「ふふ。岳はいつも言っていますからね」


 湊が柔らかく微笑む。


 それにつられて、部室の空気がふわりと軽くなった。


 依頼の報酬は、とても単純だ。


 お金でも、物でもない。


 部活メンバーそれぞれに学食で昼飯を奢る――ただそれだけだ。


 その一食のために、彼らは全力を尽くす。


 良い気持ちで、おいしいもの食べる。


 それが最高だから。


「オレはカツカレーにしよっかなー! やっぱ肉っしょ!」

「あら、学食にそんな庶民的なものがありましたかしら?」

「おーおー。橘お嬢様は食べたことないんすかー? そんなこと言うってことは、当然ないんすよね?」

「……さぁ、どうでしょう」

「その反応、あるじゃないっすか! なんで突っかかってきたんすか!?」

「うるさいですわね」


 二人のやり取りを見て、岳が小さくため息をついた。


「お前ら、仲良しなのは結構だが学食でも喧嘩するなよー」

「しないっすよ!? あと仲良くないっすから!」

「しませんわ。それと仲良くなんてありません」


 同じような答えに、岳と湊、清那は思わず顔を見合わせて笑いあう。


 いつも通りの、なんてことのない光景。


 岳はそれを見ながら、心の中で思った。


 どいつもこいつも、本当に頼りになる連中だな――と。


 × × ×


 ――二日後の昼休み。


 潮騒高校の学食は、いつも通り賑やかだった。


 食器が触れ合う音、友人同士が笑い合う声、厨房から漂ってくる料理の匂い。


 そんな賑わいの中、吉川美香はトレーを持ってカウンターの列に並んでいた。


 なんだか今日は久しぶりに、ちゃんとお腹が空いている気がする。


 この一週間、全然食欲がなかった。


 なにを食べても味がしなくて……でも、今日は違う。


「あれ……?」


 前方を見ると、見知った顔の女子生徒がいた。


 ショートカットの茜色の髪に、健康的な日焼け肌。


 彼女は気持ちのいい笑顔を浮かべて、厨房のおばちゃんと話している。


 注文した料理を受け取り、歩き出したところで一年生が振り返った。


「おっ、吉川先輩じゃないですかー!」

「……やっぱり、新垣さんだったんだ」

「新垣です!」


 相変わらず元気いっぱいの後輩だ。


 でも、ちょうどいいタイミングかもしれない……と美香は思った。


 この後輩に話したいことがあったから。


「あのね、新垣さん」

「なんですかー?」

「この前のことなんだけど……その、ありがとね」

「え、あたしなにもしてませんよ?」


 清那はけろりとした顔で言った。


「なにもって……。新垣さんが言葉があったおかげで、私は前を向けたんだよ?」

「でも、最後に頑張ったのは先輩じゃないですか! みんなの前に立ったのも、精一杯自分の気持ちを伝えたのも……ぜーんぶ、先輩の力ですよ」

「……そうかな。ってあれ、なんで新垣さん……私が前に立って話したことを知ってるの?」

「あ、やばっ。心配だからコッソリ覗いてたのバレちゃった!」

「まったくもう……なにしてるの?」


 そう言いながらも、美香は笑った。


 久しぶりに、力の抜けた笑い方だった。


 胸の奥にずっと引っかかっていたなにかが、すとんと落ちたような……。


 不思議とそう感じるそういう笑い方だった。


「でも本当に……ありがとね、新垣さん」

「いえいえ! あ、ちなみに最近ここのラーメンがリニューアルされたの知ってます? 超おいしいんですよ!」

「そうなの? それにすればよかったかな」

「じゃー次来たとき、ついでに奢ってくれますか! なーんて!」

「こら、調子に乗らない」

「へへ」

「じゃあ私は、友達のところに行くね」

「はーい!」


 美香の後ろ姿を見送って、清那は安心したように笑みをこぼした。


 その足取りが、先日よりずっと軽そうだった。


(んー! よかった! 頑張ったかいがあるっ!)


「……あれれ?」


 なんとなく窓際の席に向けると、そこには一人で昼食を摂っている渡海岳がいた。


 そばを食べながら、文庫本を読んでいる。


 隅に座る岳はあまりにも存在が薄く、ほとんどの生徒は気付いていないのではないだろうか。


 それでも清那は、あの静かな横顔が全部把握していることを知っていた。


(さっきのあたしと吉川先輩のやり取りも、見てたんだろうなぁ)


 一見すれば、ただの地味な先輩。


 でも清那からすれば、誰よりも頼れる最高の先輩だった。


 いつも通り完璧な擬態を面白く思いながら、清那は歩き出す。


 もちろん、岳がいる席ではなく――クラスメイトが待っている席に向かって。


 × × ×


 二週間後、合唱部のコンクール結果が校内で発表された。


 無事に本選に進んだらしい。


 岳はそれを、図書室で密かに確認した。


 校内の掲示板を見に行ったわけではない。


 図書室に来た三年生二人が、弾んだ声で話しているのを偶然聞いただけだ。



「ねぇねぇ、合唱部めっちゃいい感じらしいよ」

「マジで? なんかあそこ揉めてなかった?」

「そうそう。でもね、なんか結局まとまったらしいよ。すごくない?」

「へぇ、なんかあったのかもねー」



 そんな会話を聞きながら、岳は本棚の整理を続けた。


 ――一瞬、棚に本を戻す手が止まった。


 それから、誰にも見えない角度で少しだけ口角が上がる。


(これからもせいぜい悩みながら進むことだ、合唱部の諸君)


 吉川美香たちの活躍を願いながら、岳は作業へと戻った。


「依頼も片付いたし、あとで宇美(うみ)さんに報告するか……」


 ぽつりと、呟きだけを残して。


 依頼案件:三年二組、吉川美香。


 無事、完了。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。