第2話 羅針盤
――潮騒高校には、とある『部活』の噂が存在する。
悩みを抱えた生徒が相談を持ち込むと、どんな問題でも親身になって聞いてくれる。
解決の糸口を示してくれる。
困ったことがあれば、力になってくれる。
ただし、その部室がどこにあるのかは誰も知らない。
所属している生徒が誰なのかも分からない。
そもそも本当にその部活が存在するのかすら、定かではない。
幽霊部活、なんて呼ぶ生徒もいる。
都市伝説だと笑う生徒もいる。
しかし、不思議と本当に困ったとき……誰かの口からその話が出てくる。
――『相談してみたら、なんとかなったって聞いたよ?』
――『え、ほんとに? どこに行けばいいの?』
――『それがさ、よく分からないんだよね。噂だけが一人歩きしてるっていうか……』
――『えー、なにそれ』
噂は噂のまま、校内をゆっくりと漂い続けている。
× × ×
放課後が来るたびに、三年生――渡海岳は別の人間になる。
といっても、劇的な変化があるわけではない。
ある場所のドアを閉めた瞬間に、それは起きる。
たったそれだけで『冴えない図書委員』の渡海岳は消えて、放課後羅針部の部長になる。
こんなこと、校内の生徒に教えたところで誰も信じないだろう。
「……終わり終わり、と」
午後最後のチャイムが鳴り終わると同時に、岳は教科書をまとめて鞄に突っ込んだ。
そのままいつも通り――図書室へと向かう。
図書委員の仕事を淡々とをこなしながら、岳はさりげなく耳を立てていた。
図書室というのは静かなようで、意外と情報が集まる場所だ。
参考書を広げながらコソコソ話す生徒、棚の影で小声で話し込む生徒。
聞こうとしなくても、声は勝手に耳へ入ってくる。
もちろん、今日も収穫があった。
一時間ほどで仕事を切り上げ、岳は図書室を後にする。
廊下に出ても、眼鏡をかけたままだ。
少し猫背のままで、誰とも目を合わせずに歩く。
周囲から存在を認知されているのかすら怪しい、地味な三年生。
これが渡海岳の『表』の顔である。
この顔のまま、岳は校舎を出て旧校舎へ向かっていく――
× × ×
旧校舎への渡り廊下は、普段の生徒はほとんど使わない。
旧校舎自体がもう授業では使われていないからだ。
三階に上がれば特にそうで、物置代わりの教室がいくつか並んでいるだけの、静かな空間になっている。
一歩歩くたびに床が微かに軋み、蛍光灯が一本だけ微かに明滅していた。
普段の校舎とは、空気の質が違う。
岳はその廊下を、特に急ぐでもなく歩いた。
「……」
渡り廊下を抜けたところで、前方から人影が近づいてくるのが見えた。
旧校舎との渡り廊下の近くには、生徒会室がある。
恐らく、生徒会室から出てきたのだろう。
その女子生徒の艶やかなダークネイビーの髪が、廊下の灯りに照らされていた。
前髪は長く、片目が隠れている。
整った容姿と、メリハリのついたスタイル。
生徒会の書類を小脇に抱えて、まっすぐ前を向いて歩く姿には、凛とした知性が漂っていた。
潮騒高校に通う生徒であれば、彼女を知らない……なんてことはありえない。
生徒会副会長――一斗瀬湊。
生徒会役員としての仕事を終えて、これから『部室』へ向かうところだろう。まさしく、岳と同じ場所へ。
二人の距離が徐々に縮まる。
そしてすれ違う一瞬のタイミングで──
「──生徒会室で得た情報よ。三年二組の件」
ほとんど口を動かさず、湊は告げた。
それと同時に、岳の手のひらに小さく折り畳まれた紙が押し付けられる。
受け取ったかどうかも確認せず、湊はそのまま前を向いて歩き続けた。
すれ違っただけの二人が同じ場所へ向かっていることなど、誰も気付いていないだろう。
「詳しくは部室で」
「……ああ、了解」
岳は受け取った紙をポケットに突っ込みながら、階段を上った。
× × ×
旧校舎三階の東端。
廊下の突き当たりにあるドアには、ネームプレートがない。
代わりに、ドアの隅に小さな羅針盤のシールが貼られていた。
色が少し褪せていて、知らなければただの物置部屋にしか思えないだろう。
岳が躊躇なくドアを開けると――中には、すでに人の気配があった。
「あっ、ガク先輩! おつかれさま! 今日も冴えない先輩って感じですねっ!」
真っ先に声をかけてきたのは、窓枠に腰掛けて足をぶらぶらさせている女子生徒だ。
ショートカットの茜色の髪に、日焼けした健康的な肌。
小柄な体格からは想像できないほど、その存在感は明るく大きい。
一年生――新垣清那。
高い身体能力を持っていて、人懐っこい笑顔で誰とでもすぐ打ち解ける元気いっぱいの少女だ。
放課後羅針部では、その機動力と広い交友関係を存分に活かしている。
「上手く擬態できてるだろ? というかセナ、危ないから窓枠に座る癖やめとけっつの」
「はーい」
清那は素直に降りたが、三秒後にはまたすぐに腰掛けていた。
「ったく……」
岳はそれ以上言わなかった。
このやり取りが何度目なのか、もう数えていない。
次に岳は部屋の隅に目を向ける。
椅子に腰を下ろし、背筋をまっすぐ伸ばしたままタブレット端末を操作している女子生徒がいた。
「お疲れさん、スズネ。首尾は上々か?」
岳が声をかけると、その少女は端末から顔を上げた。
「お疲れ様です、岳さん。わたくしはいつも通りですわ」
「そりゃなによりだ。引き続き頼む」
「お任せください」
二年生――橘涼音。
金色の髪を靡かせ、優雅な口調や振る舞いが特徴的な『お嬢様』だ。
大企業の令嬢らしい品のある所作で『ですわ』口調を崩さない。
彼女が手にしている端末の中では、複数のSNSアカウントが静かに動いている。
ネットの世界においては、部活メンバーで涼音の右に立てる者はいないだろう。
「だーくそっ! あとちょっとだったのに負けた〜!! 敵強すぎんだろ!」
悔しそうな声が上がった。
岳はそちらへ目を向ける。
「いきなり叫んでどうしたんだ、コータ。ソシャゲか?」
「お、岳先輩じゃないっすか! そうなんすよ〜! イベントの敵がまーじで強くて!」
そう言いながらスマートフォンをいじっているのは、派手な茶髪が特徴的な男子生徒だ。
涼音と同じ二年生――佐々崎洸太。
整った爽やかな容姿と、男女問わず広い交友関係を持つ……いわゆる『陽キャ』だ。
気崩した制服やピアス穴など、一見チャラけた外見をしていて、女子からの人気も高いが、根は熱い男だ。
『部活』ではその人脈とSNSを最大限に活かして動く。
「先輩も一緒にどうっすか!? 協力してボスを倒しましょーよ!」
「俺はお前ほどやり込んでないから無理だな。というか、俺じゃなくてもお前は友達多いからいけるだろ?」
「たしかにそうっすけど……それはそれっす!」
「──遅れてごめんなさい」
凛と響く声が、二人の会話を遮った。
岳が振り向くと、少し遅れて副部長――一斗瀬湊が入ってきた。
湊は部屋の中央まで歩き、生徒会の書類をテーブルに置くと椅子を引いて静かに座る。
「ミナト先輩だー! おつかれさまっ!」
「お疲れ様です、清那」
「湊さん、あとで質問があるのでお時間を頂戴しても?」
「分かりました。問題ありませんよ、涼音」
「よっーす湊先輩! 今日も麗しいっすね〜!」
「ありがとうございます、洸太」
新垣清那。
橘涼音。
佐々崎洸太
一斗瀬湊。
そして、渡海岳。
五人、全員揃った。
「全員揃ったな」
いつも通りの光景を確認して、岳はドアを閉めた。
そして──
眼鏡を外し、胸ポケットにしまう。
前髪を軽く掻き上げ、邪魔な前髪を分けた。
最後に、背筋を伸ばす。
たったそれだけで『図書室の地味な三年生』はどこかへ消え去った。
今、ここに立っているのは『放課後羅針部の部長』だ。
「やっぱガク先輩はその姿が一番だよねー!」
「わたくしもそう思いますわ」
部活メンバーたちが、それぞれ笑みを浮かべる。
自分たちが知っている渡海岳はやっぱりこっちだ、と。
岳とともに部室の空気もがらりと変わった。
先ほどまでの廊下とも、普段過ごしている教室とも違う。
ここだけの空気。
岳は、この空気が好きだった。
ここに来るたびに、なにかが整う感じがする。
散らばっていたものが、一つの形になっていくような……。
岳はテーブルへ向かい、ポケットからとあるものを取り出して中央へ置いた。
それは──岳の宝物である古びた羅針盤だった。
年月を感じさせるが、丁寧に磨かれている。
針がひとりでに静かに揺れて……やがて、ある方向で止まった。
「よしっ。んじゃ……まずはみんな、今日も一日お疲れさんだ」
岳が話し始めたことで、全員の視線が彼に集まった。
「先週から進めている依頼について話そう。三年二組の吉川美香が所属する合唱部のコンクールの件だ」
岳はテーブルの上で指を組む。
「元々部の中心人物だった吉川が、現在孤立しかけている。大まかな理由としては、吉川とそれ以外の部員との熱意の差。このままだと本人だけではなく、部そのものが崩壊しかねない」
潮騒高校の合唱部は、関東大会で上位入賞を安定して収めている強豪だ。
近々コンクールを控えているが、現在は人間関係の問題を抱えている。
それにまつわる問題についての『依頼』を受けた岳たちは、水面下で動いていた。
「各々、いろいろ動いてたよな。とりあえず現状を共有してくれ。まずは……コータ」
「っす」
洸太がスマートフォンをしまい、背筋を伸ばす。
「合唱部について、外側からいろいろ確認したっす。表向きは普通だけど……まぁ特定の人間だけ浮いてる感じがするっすねぇ」
「その浮いている人間ってのは……」
「吉川先輩で間違いないと思いますね。あの人に悪意を向けている中心人物は二人くらいで、残りの部員は流されてる感じっす」
「つまり部全体じゃなくて、吉川を良く思っていない一部の悪意が対立を煽っている……と」
「そういうことっすね。ただ……引っ張られてる側の子たちも、別に吉川先輩のことを嫌いなわけじゃなさそうで。なーんか、空気に流されてる感じが強いっすねぇ」
岳は顎に手を添え、考える。
恐らく合唱部で起きていることは、思春期特有の集団圧力のようなものだろう。
大人からすれば、たかがその程度……と思うかもしれない。
しかし今を生きる部員たちにとって、部活動はひとつの『社会』だ。
秩序の乱れは、人間の心を乱す。
心が乱れれば、社会そのものが乱れる。
不安定な思春期学生にとっては、まさに死活問題なのだ。
「とりあえず、オレから以上っすね」
「分かった。次、スズネはどうだ?」
岳に話を促されたことで、涼音が端末から目を上げた。
小さく頷いたあと、涼音は話し始める。
「日常会話を装いながら、合唱部顧問の先生に確認しましたわ。吉川さんが部に提案している練習方針自体は、コンクールの評価基準から見ても理にかなっているそうですの」
「ほー、そうなのか」
「先生ご自身も支持していらっしゃるようでしたが、生徒間の問題に介入するのは難しいと仰っていましたわ。それと、数年前に似たような状況から立て直して最優秀賞を受賞した他校の合唱部の記録をいくつか見つけたので……データを拝借しておきましたの」
「おいおい涼音っち。それ、盗んだんじゃねーの? ホントに拝借なのか?」
「失礼ですわね洸太さん。非合法な手は使っていませんわ」
「どーだか」と言いながら洸太は頭の後ろで手を組んだが、涼音にキッと睨まれるとわざとらしく口笛を吹きながら顔を背けた。
同じ部活の仲間といえど、そりが合わないことだってある。
特に涼音と洸太の場合、それが顕著だった。
性格の違い、というのが大きな理由だろう。
「なかなか使えそうなデータじゃねぇか。ナイスだ、スズネ。さすがは我が部の情報マスターだ」
「……お世辞は結構ですわ。わたくしは自分の役目に徹しただけですので」
端末に視線を戻しながら言う涼音の口元は、ほんのわずかに緩んでいた。
「次は……ミナト。いけるか?」
「ええ」
湊が静かに口を開く。
「さっき廊下であなたに渡したメモにも書いておいたのだけど、生徒会の記録から合唱部に関係する教師の動向を確認したわ」
「なにか分かったか?」
「涼音が言っていたように、顧問は状況を把握しているみたいね。けれど、教頭や吉川さんの担任から手を出さないように静観するよう言われている可能性があるの。コンクール前に波風を立てたくない……ということかしら」
「まぁ、うちの合唱部は結構強いからな。下手に問題を表沙汰にして学校全体に飛び火すると困る……ってか」
「えーなにそれ! 嫌な感じするんですけどっ!」
「セナの気持ちはごもっともだが……良くも悪くも大人の世界ってやつだな。とにかく、上が動けないなら下から動かすしかないか」
「そうなるわね」
岳と湊が話している一方で――
「……相変わらず湊先輩って、岳先輩話すときだけ口調がちげーよなー」
「……そうですわね」
「お、涼音っち嫉妬?」
「黙ってくださる?」
「こわっ」
洸太と涼音のコソコソ話は、ほかの三人の耳には入らなかった。
唯一、一斗瀬湊の口調が変わる相手は――岳だけだ。
それは洸太が今更口に出さなくても、部員であれば当たり前のように把握している事実である。
「少なくとも、今回は生徒側に変化を促すほうが確実ね。私からは以上よ、岳」
「サンキュー、ミナト。そんじゃラストは……セナ!」
「はーい! セナです!」
「お前はどうだ? 吉川には接触できたか?」
「できたよっ!」
元気よく手を挙げて、清那は話し始める。
「えーっとね。昨日の放課後、教室の外で一人でいたから話しかけてみたんだー」
「さっそく得意技炸裂ってわけか。感触はどうだった?」
「あたしは一年だから警戒されなかったっぽくて、結構いろいろ話してくれたよ。でも多分……それだけ弱ってるってことなんだと思う……」
「初対面の後輩相手に話すほどに……か」
「すごく疲れてた様子だったけど、諦めてはなかったよ。部活はやめたくないけど、どうすればいいのか分かんなくなってる感じかなぁ」
吉川美香自身がストレスで心を弱らせていることは確かだ。
とはいえ、いろいろ話を聞くことができたのは清那自身の人柄が大きいのだろう。
他者を不快にさせることのない、笑顔。
他者に元気を分け与える、言動。
それらは新垣清那が生まれ持った武器なのだ。
「そうか。吉川にその気持ちがあれば、改善できる確率はかなり高いな。よくやったな、セナ」
「えへへ。それほどでもありますよ~!」
岳はテーブルの上の羅針盤をジッと見つめ、四人から聞いた情報を頭の中で纏めた。
合唱部全体で起きている問題。
吉川美香個人が抱えている問題。
静観する顧問、流される部員。
上が動かなければ、まずは下から――
羅針盤の針がわずかに揺れて……止まった。
「情報を整理する。この問題の核心は、吉川が提案した練習方針が間違っていることじゃない。その伝え方と、それを受け取る側の事情だ。悪意を仕掛けてる側は最初から対立ありきで動いてる。『内容』じゃなく、『感情』の問題が先にあるわけだ」
「感情の問題……ねぇ。なにか解決策は思いついてるっすか?」
洸太の質問に、岳は頷いた。
「どう足掻いても問題の中心は吉川だ。あいつから始まった問題ならば、あいつ自身に解決させるしかない」
「ふむふむ。酷っすけど……それが現実的っすねぇ」
「吉川には空気を変える方法に気付いてもらう。俺たちがやることはあくまで、あいつ自身が動けるように道を指し示すだけだ」
「そうなると……涼音が入手したデータが使えるわね」
「ああ、まさにそうだな。スズネのデータを吉川の手に渡す。ただし、俺たち直接ではなく……自然な形でな」
本人の問題は、本人自身が向き合い解決するしかない。
たとえ他者が手助けしたとしても、答えを出せるのはいつだって本人だけだ。
仮に他者が無理やり答えを出させても、それは本人の答えとは言えない。
いずれきっと、同じような問題が起きてしまう。
吉川美香の背中を押す、あとちょっときっかけがあれば――
「つーことは……オレは吉川先輩に悪意を向けてる主犯格の周辺を探ればいいっすよね?」
「そうだな。とはいえ、深く踏み込み過ぎる必要はないが……お前なら上手くやれそうだな」
「へへっ、オレにお任せっす!」
「セナ、もう一度吉川に接触できるか? 今度は話を聞くだけじゃなくて、少しだけ背中を押してやってくれ。少しだけ、な」
「分かった! 任せて!」
「ミナト、顧問に直接動いてもらうのは難しい。ただ、もしも顧問が自然に介入できる状況を作り出せるとしたら――」
「任せて。こっちで考えて上手く動いてみるわ」
岳が言い終える前に、湊は淡々と答えた。
湊にはもう分かっていた。
岳がどう考え、自分になにを望んでいるのかが。
それならば、自分は自分にできることをやるだけだ。
湊の答えに、岳は「頼りになる副部長様だ」と満足そうに笑った。
「タイムリミットはコンクール開始日までだ。それまで吉川が自分の足で動けなかったら、なにも意味がない。急ぐぞ。――誰か異議はあるか?」
「異議なーしっ!」
「オレもなしっす!」
「ありませんわ」
「意義なしよ」
「よし。じゃあ……全会一致だな」
全会一致。
岳の言葉に全員が頷いた。
「――それじゃ、始めようか。俺たちの部活動を」
× × ×
翌日の昼休み。
洸太は、いつも通り女子グループの輪の中に入ってヘラヘラと笑っていた。
洸太を取り囲むのは合唱部の女子。
そしてその中の一人は――吉川美香に悪意を向けている元凶の一人だった。
「えーそれマジで? なんかうざくなーい?」
「うざいんだよねー。なんかさ、勝手に熱血になって勝手に落ち込んで……勝手にうちらを巻き込むなって感じー」
「分かる~! ていうかさ、洸太くんは吉川の話をどう思う? 」
「うーん。オレっすかぁ……」
洸太は少し考える振りをした。
本人の苦悩も知らないで、陰で好き勝手言いやがって――
そんな感情が芽生えているが、当然表情には出さない。
洸太はあくまでも、事情を深く知らないただの部外者だ。
その彼が出せる答えは……。
「オレさ、正直そのコンクールの話を最初に聞いたとき、吉川先輩の言ってること普通に筋通ってね? いい練習じゃね? って思ったんだけど……それってオレだけっすか?」
「え……」
「だって、吉川先輩なりに部のことを考えて練習方法を提案したんすよね? それも、提案でだって押し付けたわけじゃないんすよね?」
洸太の質問に、女子グループの空気がわずかに揺れた。
「……まぁ、それはそうなんだけど」
「っすよねぇ。伝え方の問題もあったかもしれないっすけど、内容自体は別に変じゃないっていうか……話し合いとかで……あっ、部外者が勝手なこと言って悪いっす! ただ疑問に思っただけで……」
それ以上は言わなかった。
押しすぎると逆効果になる。
種を蒔いたら、あとは向こうが考えるだけだ。
「それじゃ、そろそろ休み時間が終わるんでオレはいくっすね! 先輩たち、話せて楽しかったっすよ~!」
洸太は爽やかな笑顔で手を振り、廊下を歩く。
すると前方から、背筋を伸ばして優雅に歩く一人の女子生徒が見えた。
――橘涼音だ。
周囲の生徒たちは涼音に見惚れるように、ただぼーっと彼女を見ている。
「おっ、橘ちゃんじゃないっすか~! 今日もかわいいっすね~! どうっすか、今度オレとお昼でも――」
「お断りしますわ」
「うわバッサリ!」
チャラ男の洸太が軽薄な様子で話しかけ、涼音が冷たくあしらう。
周囲の生徒にとっては、もはやいつも通りの光景だ。
洸太がチャラ男として知られている以上、ここで無言ですれ違うのはおかしい。
女子相手なら誰にでも声をかけることこそ、佐々崎洸太という男なのだから。
そして――すれ違いざまに。
「――例のデータは美香さんの机に届けましたわ。生徒会からの参考資料、という形で」
「グッジョブっす」
誰にも聞こえない声でやり取りを終えると、二人はそのまますれ違っていく。
廊下の生徒たちは、二人の会話に気付く余地すらなかった。
× × ×
――同じ頃、中庭にて。
「ふんふーん。ラララ――うわっ!!」
新垣清那が上機嫌にスキップしながら廊下の角を曲がった瞬間、前から歩いてきた三年生の女子生徒とぶつかっていた。
「あ、ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「いたた……う、うん、大丈夫よ」
「あたし、教科書拾いますね!」
ぶつかった相手が落とした教科書をテキパキと拾い、清那は顔を上げた。
「あれ、あなた……」
ようやく相手も顔を上げたことで、二人は目が合う。
「あ、昨日の! 吉川先輩!」
「たしかあなたは……新垣さん?」
「ですです! 覚えててくれたんですねー!」
その相手は、清那たちが現在動いている問題の中心人物。
吉川美香、その本人だった。
――もちろん、清那は分かっていてわざとこの状況を作り出したのだが。
「……覚えてるよ。昨日はありがとね」
「こちらこそですよー! 話してくれて嬉しかったです! はい、教科書です!」
「あ、うん……」
清那は拾った教科書を渡しながら、さりげなく美香の表情を確認した。
昨日より、少しだけ顔色はいい気がする。
でも、まだ疲れている。
声にも元気がない。
このままでは……。
(今しかタイミングはない、よね)
清那は心の中で覚悟を決めて、美香と向かい合った。
「先輩、今日……調子はどうですか?」
「……別に、普通だよ」
嘘だ、とすぐに分かる。
だから清那は――
「部活、やめたいですか?」
一歩、踏み込む。
「えっ、ど、どうしてそれを……」
「やめたいですか?」
ここで退いたら、美香はもう戻れないかもしれない。
清那の役目は、小さくなっているその背中をちょっとだけ押すこと。
ちょっとだけ、だ。
ここまでずっと笑顔だった清那が、真剣な表情を見せる。
それだけで、清那の気持ちが美香に伝わった。
「やめたく……ない。絶対やめたくない。でも……どうすればいいか分からなくて。私はただ……みんなと……」
「あたしは正直、事情を全部知ってるわけじゃないですけど……先輩が正しいと思うことがあるなら、それを信じていいと思います! ちゃんと見てる人は、見てますよ。先輩は一人じゃないんです」
「信じて……」
「そうです! それに自分の気持ちはちゃんと声に出さないと……みんなに伝わりませんよ? 大事なんですよね、合唱部が」
「新垣さん……あなたは……」
「それにあたし、先輩の歌声が大好きですから! もっと聞かせてくださいよ、ね?」
清那の言葉を受けて、美香は唇を噛んだ。
「……うん。ありがとう」
「いえいえ、ファイトですよー先輩!」
清那はそれ以上なにも言うことなく、太陽のような笑顔を浮かべて走り去った。
美香はしばらくその場に立ち尽くして、鞄の中から一枚の資料を取り出す。
いつの間にか自分の机の上に置いてあった、生徒会からの参考資料。
数年前のコンクールで最優秀賞を獲得した学校の記録だ。
そこには、ある問題を抱えながら前に進み続けた部の軌跡が書かれている。
「自分の気持ちはちゃんと声に出さないと……みんなに伝わらない」
美香はそれを、じっと見つめた。
美香の中には、少しずつ……でも確実に『答え』が芽生えていた。
× × ×
――放課後、図書室にて。
「すみません、本の場所をお聞きしても?」
渡海岳がカウンターで仕事をしていると、一人の生徒が問いかけてきた。
「え、あぁ……はい……」
ビクッと肩を震わせて顔を上げると、そこには学校の有名人――一斗瀬湊が立っていた。
湊が図書室に来ること自体は珍しくない。
本好きで、よく借りに来ているからだ。
「この本なのですが……」
「えっと……こ、こっちです……」
(本当、いつもの姿からは全然想像がつかないわね)
弱々しい猫背の同級生の後ろをついていきながら、湊は柔らかく微笑んだ。
彼の本当の姿は、自分たちだけが知っている。
頼りになる部長と、その彼を支える副部長。
そんな秘密の関係が、湊にとっては誇らしかった。
「その本なら、このあたりにあるかと……。あとはご自由にお探しください……」
「ありがとうございます。あ、それともうひとつ聞きたい本が――」
二人が図書室奥の本棚までたどり着くと、湊は岳との距離を一歩詰めた。
「――顧問が動けるわ。明日の放課後、自発的に介入できる状況になりそう。おそらく部員全員の話し合いの場を設けると思う」
「……本当か? なにがきっかけになった?」
「気持ちが変わったのよ。期せずしてだけれど……好機だわ」
「タイミングが良すぎるな。お前、なにかしたのか?」
「さぁ、どうかしらね。言ったでしょう? こっちで考えて上手く動いてみる……って」
「……本当、頼りになる副部長様だよ」
ふふ、と湊は得意げに微笑んだ。
クールな湊がこのような表情を向ける相手は、ほかでもない岳だけだ。
生徒会の名前を利用して、合唱部の顧問とコンタクトを取り、いろいろお話したことは事実だが……。
それをわざわざ報告するのは、スマートではない。
岳自身、それを分かっているからこそ言及はしなかった。
「じゃ、じゃあ……俺はこれで……」
「ありがとうございました」
一度も目を合わせることなく、二人はそのまま離れていく。
カウンターに戻ると、岳は小さく息を吐いた。
少しずつ、歯車が噛み合い始めている。
あとは、吉川美香が自分で動くかどうかだ。
――果たして、結果は。
× × ×
翌日の放課後、合唱部の部室にて。
吉川美香は、部員全員の前に立っていた。
手に持っているのは、昨日机に置かれていたあの資料だ。
美香の近くでは、顧問が心配そうに見守っている。
「あの、少しだけ時間をもらえませんか……! 改めて、ちゃんと話したいんです。私の口から……みんなに……!」
部員の反応はまちまちだった。
しかし美香は、昨日より少しだけ前を向いていた。
声も、表情も、昨日より少しだけ真っすぐだった。
その『少し』こそ――
美香にとっては、なによりも大きな一歩だったのだ。
「吉川先輩……がんばれ……!」
一方、合唱部のその様子を廊下の窓越しに見ている女子生徒がいた。
新垣清那だ。
「よしっ……!」
結末を見届け、清那は小さくガッツポーズをして踵を返す。
廊下の向こうでは、湊が生徒会の資料を抱えて歩いていた。
目が合った瞬間――湊は、小さく首を縦に振った。
『よく頑張りましたね、清那』
その気持ちはしっかりと伝わり、清那はただニッと笑った。




