第1話 悩めるあなたに
お世話になっております。
緑里ダイです。
今回は中編くらいのボリュームで部活ものを書いてみました。
よろしくお願いいたします!
「あなたのお悩み、我々放課後羅針部がお預かりしました」
「それじゃ、始めようか――俺たちの部活動を」
水篠波留は、きっとこの瞬間を忘れることがないだろう。
薄暗い部屋の中で、五人の生徒がこちらを見ていた。
誰一人として余計な言葉を発しない。
ただそこにいるだけで、空気の質量が違う。
波留はそのとき、自分がなにか大きなものの入り口に立っていることを、理屈ではなく全身で感じた。
部室のテーブルの中央には、羅針盤が置かれている。
ひどく古びた……でも、丁寧に磨かれたひとつの羅針盤。
針がひとりでに静かに揺れて、やがてある方向で止まった。
まるで、答えはここにあると言いたげに。
《《彼ら》》の言葉が、波留の胸に刺さった。
《《彼ら》》の表情が、忘れられなかった。
その一瞬に、心を奪われてしまった。
――なぜ、水篠波留がこの瞬間に立ち会ったのか。
少し、時間を巻き戻そう。
× × ×
放課後の図書室というのは、独特の匂いがする。
紙とインクと、古い木の棚が混ざり合ったような、どこかひんやりとした静けさの匂い。
私立潮騒高等学校に通う一年生──水篠波留は、それが少し苦手だった。
別に本が嫌いなわけじゃない。
ただ、自分にはあまり縁のない場所だという感覚がずっとある。
波留は子供の頃から運動が好きだった。
そんな自分にとって、放課後というのはグラウンドか体育館か……あるいは部室のどれかに直結している。
図書室に寄り道するという発想が、そもそも波留の中には存在しなかった。
それはもう、生まれついての習性みたいなものだ。
だから今日、図書室へ足を踏み入れたことは、波留にとってそれなりに大事件だったわけで……。
「……えっと」
入口で立ち止まり、室内を見渡す。
棚が整然と並んでいる。
窓から差し込む西日が、空気の中に漂う細かな埃をきらきらと光らせていた。
利用している生徒は少なく、三つほど離れたテーブルで女子生徒が二人、参考書を広げているのが見える程度だ。
たまにページをめくる音や、小さな声で話していること以外は静かだった。
どこか時間の流れが違う場所に来てしまったような……そんな感覚になる。
グラウンドの生徒たちの声が、遠く聞こえる気がした。
若干の居心地の悪さを感じるとともに、波留の青みがかったポニーテールが揺れる。
(来るんじゃなかったかも……)
そう思いながらも、引き返せない理由があった。
鞄の中には、メモが一枚入っている。
昨日、クラスメイトで友人の早川莉緒からもらったものだ。
『これ読んでみて。絶対ハルに合うから』
そんなメッセージと一緒に、書名と作者名だけが丸っこい字で書かれたメモ。
波留はそれを引っ張り出して、改めて本棚を見つめた。
莉緒は、波留とは正反対のタイプだ。
運動は苦手で、休み時間は本を読んでいるか、ぼんやりと窓の外を見ているかのどちらかで、波留には到底真似できない類の静けさを持っている。
でも、不思議と気が合った。
最初に話しかけたのは波留のほうで、莉緒が読んでいた本の表紙が面白そうだったから……というだけの理由だったが、それから自然と仲良くなった。
莉緒に薦められた本を断ったことは、一度もない。
いつも面白くて、読み終えたあとに『薦めてくれてよかった』と素直に思える。
だから今日も、そのジンクスを信じてここへ来た。
ただ。
本の探し方が、よく分からない。
棚の背表紙をぼんやり眺めながら、波留はゆっくりと歩いた。
五十音順に並んでいるのは分かるが、同じ作者の本がいくつもあって、タイトルを目で追っているうちにどれがどれだか分からなくなってきた。
背表紙の文字が、だんだん全部同じに見えてくる。
こういうとき、莉緒がいれば一発なのに……と波留は思う。
このままでは埒が開かない。
本棚から視線を外し、カウンターへと向かった。
「あの、すみません……」
波留はカウンターで作業をしていた男子生徒に声をかける。
紺色のカーディガンに、黒縁の眼鏡。
ぼさついたダークブラウンの髪は癖があり、特に整えられている様子もない。
背は高めだが、姿勢が少し猫背だ。
声をかけるべきかどうか、一瞬迷った。
なんとなく、話しかけにくい雰囲気がある。
というより、話しかけられることを想定していないような……そういう静けさを全身にまとっている。
視線が合ったとしても向こうはすぐ逸らしそうだな、と思ってしまうほどに。
しかし、ためらっていては本は見つからない。
「えっと、本を探してるんですけど……」
続けて話しかけたことで、ようやく男子生徒が顔を上げた。
目が合った。
青色の瞳だった。
波留と視線がぶつかった瞬間、少しだけ驚いたような顔をして、それからすぐに視線を逸らす。
あぁやっぱり……と、波留は心の中で呟く。
「……どうも」
ぼそっとした声だった。
「……なにか、探してるんですか」
「あ、はい。これ……なんですけど」
波留はメモを差し出した。
男子生徒はそれを受け取り、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら確認する。
「……あぁ」
それだけ言って、すっと立ち上がった。
波留がその後ろをついていくと、男子生徒は迷いなく棚の間を歩いていく。
右に曲がって、左に折れて、奥の棚の前で足が止まった。
そして考えるような間もなく、すっと一冊の本を引き抜いた。
「これ……ですよね、多分」
淡々と差し出された本を見て、波留は目を丸くした。
「そ、そうです! ありがとうございます! どうして一発で分かるんですか?」
「……これ、よく薦められる本なんで。図書室に来ると、だいたいこれ探してる人がいるんです」
「へぇ、そうなんですか」
「面白いと思いますよ……多分」
多分、というのが少しおかしくて波留は思わず笑ってしまった。
自信を持って『面白い』と言えばいいのに、と思う。
それとも単純に、自分の感想を言うのが苦手なのだろうか。
本を受け取ったあと、男子生徒は特に表情を変えることなく、カウンターへ戻ろうとした。
すると――
「あ、あの……! お名前、聞いてもいいですか?」
波留自身が驚いてしまうほど、思わず声をかけていた。
男子生徒はビクッと肩を震わせると、恐る恐るといった様子で振り返る。
「……え、な、なんで」
それは警戒というより、純粋に疑問に思っているような顔だった。
「お、お礼を言いたかったので……! それにまた来たときに、探し方分からなかったら聞けるかなぁって……」
自分でも驚いた。
どうして初対面の男子生徒の名前を聞いてしまったのだろうか。
しかし、波留が口にした言葉は嘘ではない。
図書委員の知り合いがいれば、今後本を探すときに楽になることは間違いないだろうから。
男子生徒は少し間があけて視線をわずかに泳がせてから、ぼそりと答えた。
「……三年の渡海、です」
「渡海先輩ですね。私は一年の水篠です。今回はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げてお礼を伝える。
渡海は「ども」とだけ言って、そそくさとカウンターへ戻っていった。
そのまままた作業に戻るのか、すぐに俯いてしまう。
その一連の姿を見ながら、波留はぼんやりと思う。
(なんか……地味な先輩だなぁ)
悪い意味ではない。
ただ、存在感がとにかく薄い。
仮に廊下で会っても絶対に気付かないだろうな、という感じだ。
その代わり本の知識はやたらと豊富そうだ。
そしてなにより、本を『多分、面白い』と言うときの声が、ほんの少しだけ……柔らかかったのが印象に残った。
(本が好きなんだろうな、きっと)
波留は貸し出し手続きを済ませて、図書室を後にする。
× × ×
無事に目的を果たして廊下に出ると、グラウンドから聞こえる声が一気に大きくなった。
「……声、か」
いつもの音だ。
部活の仲間たちの声。
陸上スパイクがトラックを蹴る音。
顧問の先生が笛を吹く音。
誰かがガッツポーズをしながら叫ぶ声。
――波留もつい先月まで、あの中にいたのに。
しかし今は、休部中だ。
理由は単純で……少しだけ、複雑だ。
隣を走る人間が、いなくなってしまったから。
波留には、物心ついたころからずっと隣にいた幼馴染がいる。
同じ一年生の、永瀬凛。
同じマンションで生まれ育って、同じ小学校、同じ中学校を経て……同じ高校に進学した。
入学式の日も隣に並んで、『やっぱり一緒だね』なんて笑い合った。
同じ陸上部に入ろうという話もしていたし、それが当然のことのように思っていた。
凛は足が速くて、波留と一緒に走るのが大好きだと言っていた。
中学のときも二人で並んで走って、大会で並んで入賞した経験もある。
それがこれからもずっと続くものだと……波留は疑っていなかった。
ところが――
凛は、入学してしばらくしたあたりから様子がおかしくなった。
まず、部活に来なくなったのだ。
一緒に帰ろうと誘っても……用事があるとか、疲れたとか、そういった曖昧な理由で断られるようになった。
クラスも違うから、顔を合わせる機会もだんだん減っていって……。
最初は気のせいだと思っていた。
高校生活に慣れるのに時間がかかっているだけだと。
しかし一ヶ月が経っても、二ヶ月が経っても……凛の様子は元に戻らなかったのだ。
むしろ、どんどん彼女の存在が遠ざかっていく気すらする。
今朝だって廊下で見かけたとき、凛はこちらに気づいているはずなのに、視線を逸らした。
しかし波留には――その理由が薄っすらと分かっていた。
分かっていたからこそ、踏み込めなかった。
凛が抱えているものに触れようとすると、凛が隠したいことを暴くことになってしまう……そんな気がして。
ずっと躊躇っていた。
もちろん、助けになりたい気持ちはある。
でも……その一方的な『助けになりたい』が、かえって凛を傷つけてしまうかもしれない。
そう考えると、足がすくんだ。
声をかけるたびに、凛がどこか遠くへ行ってしまう気がして……それが怖かった。
どうすれば、傷つけないで彼女を助けられるんだろう。
「……ダメだなぁ、私」
図書室で借りた本を鞄の中に大切にしまいながら、波留はため息をついた。
廊下の角を曲がろうとしたとき――
「あ……」
前方に見知った後ろ姿を見つけた。
あれは――凛だ。
一人で歩いている。
鞄を胸に抱えて、俯いて、いつもより歩く速さが遅い。
まるで……どこへ行けばいいか分からないみたいな歩き方だった。
中学の頃、あんなに軽やかに走っていたのが嘘みたいだ。
波留は思わず足を止める。
「り――」
名前を呼ぼうとしても、声が出なかった。
喉が動かない。
なにを言えばいいか分からなかったから。
最近どうしてる? そんなの軽すぎる。
なにかあったの? それは踏み込みすぎかもしれない。
頭の中でぐるぐると言葉を探しているうちに、タイミングを失ってしまった。
凛は波留に気付くことなく、廊下の向こうへ消えていってしまった。
「どうして私は……」
波留はしばらくその場で立ち尽くした。
胸の奥に、重いものが沈んでいく。
放課後の廊下には、波留だけが残された。
「……どうすればいいんだろう」
正解が分からない。
踏み込む勇気も、引いたままでいる覚悟も、どっちも中途半端で。
じっと立っているだけでは、大切な幼馴染との距離は開いていく一方なのに。
ただ……一つだけ、はっきりと分かることがある。
――このままでいたくない。
凛のことが、心配だ。ずっと心配だった。
でもその『心配』を形にする方法が、波留にはまだ見つかっていない。
形のない気持ちだけが、胸の中で渦を巻いている。
ふと、鞄の中にしまった本のことが頭によぎった。
友達が薦めてくれた本。
まだ読んでもいないのに、あらすじすら知らないのに、波留はふとその本の背表紙に触れる。
なにかが、変わる気がした。
根拠はない。
ただの気のせいかもしれない。
けれど波留の直感は、昔から馬鹿にできないのだ。
運動神経と同じくらい、この勘だけは信頼している。
スタートの瞬間に身体が動くように、なにかを感じ取ったときの勘は、いつだって正しかった。
「……今日はもう帰ろう」
ゆっくりと歩きだす。
凛のために、なにかできることがあるはずだ。
なにかできることが、絶対に。
波留は窓から空を見上げる。
西の空が、じわりとオレンジに染まりはじめていた。
グラウンドの声がまた聞こえてくる。
いつもと変わらない、放課後の音。
この同じ空の下のどこかで、凛は今どんな顔をしているんだろう。
そんなことを、思った。
※本作は全10話ほどで完結予定です。




