後悔
「――ちゃん……乃愛ちゃん、起きてぇ……お願い……っ」
身体をゆさゆさと揺すられ、深い眠りの淵から現実へと少しずつ意識が浮上していく――。
何を言っているのかはまだ判然としないけれど、莉愛が必死に何かを訴えていることだけはなんとなく理解ができた。
(……莉愛、そんなに揺らさなくてもちゃんと聞こえているわよ。……それと、私からもお願い。あともう少しだけ、眠らせて……)
ここ数年、眠くなったら寝て、目が覚めたら起きるという自由奔放な生活を送っていた私にとって、誰かに起こされるという行為は、遠い記憶の彼方にあるものだった。
それは、莉愛との共同生活が始まった頃から、ずっと変わっていない。
『眠る』という行為は、膨大な演算や思考から私の脳が完全に解放される唯一の時間。
だから私は――彼女には当初から、『緊急時以外は起こさないように』と伝えてある。
毎朝の静かな目覚めこそが、何にも代えがたい私にとっての『至福の時間』だったからだ。
(……ふふっ。でも、莉愛に起こされるのって、これで二度目ね。昨日の出来事のはずなのに、なんだか遠い昔のことみたい。本当、不思議よね)
意識は徐々に覚醒しつつも、重い瞼をなかなか上げることができず、私は頭の中で莉愛への返答を済ませ、そのまま微睡みに身を委ねていた。
「……は、早くぅ……っ!……じゃないと莉愛、もう――っ!」
莉愛の声色が切羽詰まった響きを帯び始めたのを感じ取り、ようやく私は重い瞼をゆっくりと持ち上げていく――。
視界の端に映ったのは、すぐ隣でちょこんと正座し、身体をふるふると震わせながら涙目で必死に何かを堪えている莉愛の姿だった。
「……んぅ、莉愛? 正座なんかして、どうかしたの?」
「――の、乃愛ちゃん。……莉愛、なんだかお股から何かが出ちゃいそうな感じがずっとしてて……っ。ねぇ、これって、どうすればいいの――?!」
彼女の意図を瞬時に察した私は、慌てて布団を蹴飛ばし、勢いよく身体を起こした。超がつくほどの低血圧で朝はめっぽう弱い私でも、この緊急事態を前にしては起きざるを得ない。
「――莉愛、まずは落ち着いて。それはきっと排泄のサインよ。人体の仕組みについては理解できているでしょう?」
「――え、うん……っ」
(……この状況、悠長に説明している暇がないくらい切羽詰まっているわね。というより、最悪立ち上がった瞬間にアウトなんじゃ――!?)
迷っている暇はない。私は動揺を悟られぬよう、あえていつも通りの口調で問いかけた。
「――莉愛、私につかまってもいいから、ゆっくり立ち上がれる?」
彼女はもう言葉を発する余裕もない様子で、背中を丸めて小さく頷いた。私の腕をぎゅっと掴んでベッドから降り、お手洗いに向かう――その途中のことだった。
莉愛の足がピタリと止まり、先導していた私の腕がふいに重くなる。振り返った私の瞳に映ったのは、彼女の足元に広がり始めた小さな水たまりだった。
莉愛は自分の身に何が起きたのか信じられない様子で、ただ呆然と立ち尽くしている。その足元で、フローリングの染みが静かに、けれど確実に広がっていく――。
その姿を目にしたとき――私は自分で自分の頬を殴りたくなるほどの後悔に襲われた。
食べ物や飲み物を摂取していた以上、排泄の欲求が生じるのは当然の理だ。それは人間として当たり前の機能であり、今の莉愛にとっては避けることのできない生理現象なのだから。
なぜ、こんなにも単純なことに、気づいてあげられなかったのか。
お腹が鳴るという、『胃の収縮運動』にさえ感動していた彼女だ。
『データ』として知っていることと、それを『実体験』することでは、まったくの別物だというのに。
通常の人間であれば、長い年月をかけて己の身体を学び、成長していくのが常だ。けれど、彼女の場合は違う。私とほぼ同年代に見える肉体を突然与えられ、そのすべてを理解せねばならない立場にある。生理現象も痛みも――身体に起こりうるすべてのことを。
それなのに私は、『どうやって身体を得たのか』という経緯ばかりに気を取られ、これからを生きる彼女の『人としての営み』を何ひとつ教えてあげられていなかった。
(……身体を得てから、ずっと我慢していたのね)
――完全に、私の責任だ。
けれど、いつまでも悔やんでいる暇はない。私は未だ呆然と立ち尽くし、顔を真っ青にしている莉愛の目の前で、込み上げる感情をそのまま全力で己へと叩きつけた。
――バシイイイイイイイイイインッ!
利き手を大きく振り抜き、自らの頬を力任せに平手打ちした。
これまでの私なら、こんな熱血じみた行動など絶対にとらなかった。けれど、自分への戒めと、莉愛に恥をかかせないためなら――そんなこと、どうだっていい。
今まで見せたことのない、私らしからぬ突然の行いに、莉愛が思わず声を漏らした。
「――えっ、乃愛ちゃん――!?」
「莉愛、気づいてあげられなくてごめんなさい。すべて私の責任よ。これは情けない自分にちょっと喝を入れただけ。だから気にしないで。……とにかく、まずは一刻も早く着替えましょう――!」
突然の出来事と早口でまくし立てる私のペースに、莉愛はすっかり押されている。けれど今の彼女には、このくらいの勢いで強引に日常へ引き戻してあげるのが、心の負担を減らす何よりの特効薬になるはずだ。
私はすぐに莉愛の元へ駆け寄り、彼女の目の前で膝立ちになると、優しく語りかけた。
「莉愛、パジャマのズボンと下着、私が脱がせちゃってもいいかしら?」
「――え? ……でも、それじゃあ乃愛ちゃんの服まで汚しちゃう――っ」
再び身体をふるふると震わせながら困惑する彼女に、私はいつもの調子で畳み掛けた。
「服なんて汚れたら洗濯機に放り込んで、ボタンを押すだけでしょう? 世の中にある便利な家電の存在、忘れちゃったの?」
「……そうだけど……でも――っ」
「私の心配をしてくれているだけなら、問題ないわよね。風邪を引いたらいけないし、もう脱がしちゃうわよ」
言葉を言い切る前に彼女のズボンに指先をかけ、一気に足元まで下ろしきる。
「――え? ……あっ、ちょっと待っ――。……乃愛ちゃんって、どうしていつもそんなにためらいがないの〜〜〜!?」
いつもの口調が戻ったことに内心で安堵しながらも、私はその感情を悟られないよう、淡々と返した。
「なんで莉愛のパンツを脱がすのに、私がいちいち躊躇わないといけないのよ。莉愛って本当、自意識過剰よね」
「……も、もぉ〜〜〜! パンツじゃなくて、せめてショーツって言ってよぉ〜〜! それに、そこはさ……もうちょっと恥ずかしがってくれた方が、莉愛はドキドキしちゃうかも♡」
「……はぁ。どっちも同じ意味じゃない。莉愛って本当、どうでもいいことばかり気にするわよね。……それに、この状況でよくそんなことが言えるわね」
「――えっ!? パンツとショーツって、どっちも全く同じ意味だったの!?」
すっかりいつも通りになった莉愛の他愛ない呟きを聞き流しながら、私は近くの椅子にかかっていたタオルを手に取る。
ズボンから引き抜いた莉愛の太ももから足の先まで、さっと丁寧に拭き上げていく。
莉愛はその様子から目を逸らさず、静かにじっと見つめていた。
足を綺麗にしたあと、手際よく床の掃除も済ませ、私は莉愛に声をかけた。
「――莉愛。なんか難しい顔してるけど、どうかしたの?」
「……あ、ううん。乃愛ちゃん、ありがとう……っ」
「なによ、急にしおらしくなっちゃって。本当、気にしないで。……じゃあ、このまま浴室に向かうわよ」
「……うん。……っ」
私は再び莉愛の手をそっと取り、彼女を導きながら浴室へと向かった。
第9話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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