覚悟
浴室で身体を洗ったあと、私たちはリビングのソファーに並んで腰掛けていた。
遠くで洗濯乾燥機が回る音が、単調なリズムを繰り返している。グラスの中でシュワシュワと弾ける炭酸飲料を、莉愛は不思議そうに見つめながら口を開いた。
「――ねぇ、乃愛ちゃん。……これって本当に飲んでも大丈夫なやつ? 莉愛、なんかちょっと……飲むのこわいかも」
私は答えの代わりに自分のグラスを傾け、炭酸飲料を一気に流し込んだ。ちらりと横へ目をやると、莉愛は瞳を大きく見開き、絵に描いたような驚愕の表情を浮かべていた。
(……ふふっ、莉愛。なかなかいいリアクションするじゃない)
「――ぷはぁっ! お風呂上がりのこれは、やっぱり格別よね……!」
私は手の甲で軽く口元を拭うと、満足げにグラスをテーブルへ置いた。
「……なんかそれ、乃愛ちゃんが言っていい台詞じゃない気がするんだけど」
「なに知ったような口をきいてるのよ」
「だって莉愛、ちゃんと知ってるもん。それって大人が言う台詞でしょ?」
「――あのねぇ、莉愛。『大人しか発言権がない』なんてことはないの。それに、今の発言こそ『データ』に基づく見解でしょ? 実際に自分の身体で感じてみるとね、人の思考って単純な数式なんかじゃ解けないものなのよ」
「……えぇ〜〜〜? ちゃんとデータがあるのに、違うってことぉ〜〜〜?」
私の言葉を莉愛はすぐに処理できていない様子で、頭の上には大きな『はてなマーク』が浮かんでいる。
「身体を得たあなただから説明するけれど、データはあくまで『事実の断片の記録』に過ぎないの。例えば、データ上で『美味』と分類された料理でも、それを食べて『おいしくない』と感じる人もいる。……莉愛だって、今は実際に味覚を感じられる『自分の舌』をちゃんと持っているでしょう?」
データがすべてではない。実体験を通して考え、答えを導き出すこと。それこそが『莉愛自身の回答』になる。
私はそうやって、人間としての振る舞い方を少しずつ諭していった。
(……まぁ、こういうのは実際に経験して少しずつ学んでいくものだし、一筋縄ではいかないわよね)
莉愛には、これから多くのことを体験させ、学ばせてあげればいい。
けれど、彼女の身体の現状は一刻も早く詳細を確認する必要がある。私が何より懸念しているのは、『誰かの身体』ではないのか――という点だ。
(本当に、まずはそこよね……。もし誰かの身体を莉愛が乗っ取っているのだとしたら、ただ事では済まない。……いや、どんな結果であれ、もう後戻りなんてできないけれど)
どちらにせよ、莉愛の身体を調べるには『病院』へ連れて行くしかない。
けれど、身分証など持っているはずもない彼女をそのまま連れて行くわけにもいかないし、そもそも検査結果がどう出るのかさえ予想がつかない。
それに、もし医療現場で注目を浴びるような異常が検出されでもしたら――。
(……というか、戸籍すら存在しない可能性が高いわよね。……ひまりには迷惑をかけたくなかったけれど、今はそんなことを言っていられる状況じゃないし――)
私があれこれと必死に思考を巡らせている最中、その事件は起きた。
「――いにゃあああああああああああああああああああああっ!?」
突如、大きな悲鳴がリビングに響き渡る。何事かと慌てて視線を向けると、そこには口元を両手で押さえ、足をジタバタさせて暴れる莉愛の姿があった。
「……莉愛、なにやってるのよ?」
「のっ、乃愛ちゃん! もしかして、莉愛の飲み物に何か入れたの――!?」
「――あぁ、なるほど。……ふふっ、何かってなによ。ちゃんと『炭酸飲料』だって説明してから渡したでしょう?」
状況を瞬時に把握した私が余裕の笑みで答えると、莉愛は顔を真っ青にしたまま声を震わせた。
「――こっ、こんなの『シュワシュワ』ってレベルじゃないよぉ〜〜! 舌がすっごいビリビリしてて痛い〜〜〜!」
「そのビリビリするのが爽やかでいいんじゃない。莉愛の舌って、案外おこちゃまだったのね」
「……え? 乃愛ちゃん。それって本気で言ってる?」
「ええ、もちろん。っていうか私、今までだって何度も莉愛の目の前で飲んでたじゃない」
「た、確かに……。『炭酸飲料』ってこんなにやばい飲み物だったんだ……。莉愛はもう……一生飲みたくないかも……けぷっ」
「……はぁ。莉愛って本当、一日中騒がしいわね。……あら、かわいい反応までしっかり出たじゃない」
いつもの穏やかなやり取りにすっかり気が抜けていたけれど、ポケットに入れていたスマホがブブッと震え、表示された名前を見た瞬間――背筋がスッと伸びた。
表示されていた名前は――ひまり。
「……ひっく。……けぷっ。ひにゃああ〜〜! なにこれぇ〜〜!」
「ふふっ、しゃっくりまで出ちゃったのね。軽くうがいしてきなさい」
私の言葉に小さく頷くと、莉愛はパタパタと足音を立てながら洗面スペースへと駆けていった。
彼女の背中を見送ると、すぐにひまりからのメッセージを開く。
『乃愛ちゃん、おはよう♡莉愛ちゃんの身体について何かわかった? 私、今日大学の講義が中止になってお休みになったの。もしよかったら、うちに連れて来る?』
(……ひまり! あなたって本当、救世主ね――!)
私は逸る気持ちを抑えつつ、すぐに返信を打ち込んだ。
『ありがとう、すっごく助かるわ! お昼頃にお邪魔してもいいかしら?』
すぐに既読がつき、返信が届く。
『ふふっ、起きててよかった。うん、大丈夫だよ。それじゃあ待ってるね』
画面を閉じ、私は小さく息を吐いた。
(――はぁ、……よかった。これで少し先が見えてきたわね)
ひまりのご両親は医師であり、個人で病院を経営している。
彼女の実家に行くということは、つまりそういうことだ。当然、一般の患者が訪れる診察エリアには足を踏み入れられない。
けれど、簡易的な血液検査や、あるいは検査キットを偽名で……なんて、少し危ない橋を渡ることも、上手くやれば可能かもしれない。
(……なんだか私、考え方がどんどんミステリー小説のような――危ない方向へ進んでいってるわよね……)
そんな自分の思考に苦笑いしていると、パタパタと慌ただしい足音を立てながら莉愛が戻ってきた。
「どう? しゃっくりは止まった?」
「う〜〜ん。とりあえず止まった……のかな? ……ひっく……あっ」
「ふふっ、まだ少しかかるみたいね」
「ううぅ。早く止まってよぉ〜〜! 莉愛、しゃっくりって嫌いかも〜〜!」
「それを好む人なんてそうそういないわよ。……でも今日は、朝食を済ませて支度をしたら、ひまりの家へ行くわよ」
「――えっ?! ひまりんのおうち――?! やった〜〜〜!」
莉愛は、ひまりの実家が病院であることを知らない。
ひまりについてはこの一年、遊びに来るたびにお喋りを重ねてきて、今ではすっかり彼女に懐いている。けれど、外の世界にある彼女の家庭環境やご両親のことまでは、話していなかったはずだ。
(……というか、ひまりが莉愛の存在を知ったのも、彼女が遊びに来た際に莉愛がうっかり話しかけてしまったのがきっかけだったわよね。……ふふっ、なんだかすごく懐かしいわね)
「――さっ、そういうことだから。時間を無駄にしないように動くわよ!」
「は〜〜〜い! あっ、莉愛が着ていく服、またクローゼットから好きなの選んでもいい?」
「ええ、いいわよ。昨日はあまり時間がなくてランジェリーショップだけになっちゃったけど、莉愛の服もまた買いに行かなきゃね」
「――えっ、本当?! 嬉しい〜〜〜! 乃愛ちゃん大好き〜〜♡」
莉愛が勢いよく飛びついてきて、私の首元に顔を埋めてくる。
「――だからそれ、危ないって言ってるでしょ! ……はぁ。まったくもう……っ」
小言を言いつつも、莉愛にはつい甘くなってしまう。
どんな手段を使ってでも、この子の未来を切り拓いてみせる。
私は強い決意を胸に宿し、莉愛の背中にそっと手を添えた。
第10話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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