決意
時刻は深夜二時――。
いわゆる『丑三つ時』と言われている時間帯だ。
昨日――正確には、およそ十五時間ほど前。深い眠りのなかにいた意識が覚醒していく途中、得体の知れない『何か』を感じて飛び起きたときのことを思い出す。
(……本当、最初は本気で『幽霊』が出たのかと驚いたのよ? ……ま、科学者が口にすべき台詞じゃないと思うけれど……)
そんな『幽霊もどき』である莉愛の寝顔を見つめながら、私は彼女の前髪に指先でそっと触れた。
「ふふっ。幸せそうな顔で眠っちゃって……」
規則正しい穏やかな寝息を立てる彼女を見つめていると、なんだか胸の奥が温かくなっていく――。
(――え? 待って。この気持ちってもしかして……『母性』の可能性もあるんじゃない? ……いやいや、さすがにそれはないわよね。でもそれじゃあ、この気持ちの正体って、やっぱり――?)
そんなことを考えていたからか、私の視線は自然と莉愛の無防備な唇へと向かっていた。
ベッドに入る数時間前、彼女にキスされたときのことを思い出す。
最初は何が起きたのかわからなかった。ただ単純に唇に触れる柔らかな感触に驚き、至近距離で見る莉愛の端整な顔立ちに感心して、ただ見惚れてしまっていただけ。
でも――すごく、心地良くて。
それに莉愛が本当に私のことを想ってくれているのが、あの拙いキスからでもしっかりと伝わってきた。
あのまま止めなくてもよかったんじゃないかと、いま少しだけ後悔してしまうほど――あれは確かな想いを感じた触れ合いだった。
けれどそう思ってしまうのも無理はない。彼女はまるで私の理想をそのまま詰め込んだような――容姿そのものなのだから。
人間、顔がすべてじゃない。それはそう。私もそう思う。
いくら顔が良くたって素性が不明だったり相性が悪く、とてもじゃないけれど『一緒に生活する』なんて考えられない相手だったら、そこで終了。縁がなかったのだと諦めもつく。
けれど、まだ何一つ問題が解決していない今の状況でも、莉愛となら――。
そこまで考えて、はっと息が止まった。
そんなふうに思考を巡らせている自分自身が、さっきまで必死に並べ立てていた理屈がいかに薄っぺらいもので、ただの言い訳に過ぎなかったのかを自ら証明している。
(……自問自答してる最中に見栄を張って自爆するなんて、本当に何がしたいのよ、私は……っ)
つまり、私はすでに、莉愛がどんな問題を抱えていようが関係ないと思えてしまうほど、彼女にすっかり魅了されてしまっているということだ。
まったく、どうしてこんなにも捻くれた性格になってしまったのか。
自分のことは自分が一番よくわかっているはずなのに。すぐに虚勢を張ってしまうこと。けれど、本当は孤独なんて好きじゃない。人肌が恋しくなってしまうことだって人並みにある。
別に、両親から愛されていなかったわけではない。けれど、幼かった私でも、自分の両親が世間一般の父母と比べれば『とても忙しい人たち』だということには、すぐに気づいた。
この人たちの『足枷』になってはいけない。物心がつくと同時にそれを理解し、それからの私の口癖は、『一人でできるから大丈夫』になった。
甘えるという行為を何の恥ずかしげもなく要求できる本来なら唯一の期間であったあの頃に、私は自らそれを自制した。
両親のせいだとは全く思っていない。私が自分の意思で選択してそうしたのだから、いまさらそんな理不尽な恨み言を言うつもりは、もちろんない。
(……こんなふうに昔のことを思い出して浸っていたら、莉愛にまた『思い出してエモくなってた?』とか言われちゃうわよね……)
はぁ――と小さくため息をつき、私はスマホを手に取った。
『その身体、一体どうしたの?』
ひまりからそう問いかけられたとき、莉愛は少しだけ間を置いたけれど、素直に答える気はなさそうだった。私が同じ質問をしても、きっと同じようにまだ口を割ることはないだろう。
だったら、自分で徹底的に調べ上げるしかない。
隣で眠る美少女が『莉愛』であることは、もう間違いない。
約一年。たった一年。捉え方はいろいろあると思う。けれどそれは、たまに顔を合わせて数時間を過ごすだけの、薄い関係のそれとは違う。一日二十四時間、三百六十五日――彼女と積み重ねてきた時間の総量は、他の誰の追随も許さないほどに、濃密なのだから。
彼女のことは理解している。理解できていると、信じている。
だからこそ、一番は――それを証明したい――。
スマホの画面に指を走らせ、一度解除していたセキュリティをすべて元に戻す。それだけに留まらず、防壁をゼロから再構築させたそのとき――私は地下室の監視カメラから届いていた古い通知に気づき、慌てて視線を向けた。
(――え? システムの自動復旧通知? ……どういうこと? 長い間、ずっと作動していなかったの?)
監視カメラの制御や記録、外部からのハッキングに対抗するためのセキュリティ強化など、この住居に設置されているあらゆる電子機器のシステム基盤には、すべて莉愛のコードを組み込んで運用していた。
監視カメラが設置されているのは、正門前、玄関、リビング、寝室、そして地下室の五箇所。
そのうち、こうして復旧の通知が届いているのは、地下室の監視カメラだけ。
住居が完成してから使用する機会がなく、ほとんど足を踏み入れていなかった地下室。それにあそこには、培養や医療関係の研究に必要な素材やあらゆる最新機材が眠っている――。
そこまで思考が至った瞬間――心臓が大きく跳ね、背中に冷たいものが走った。
私は念のため、スマホに有線のイヤホンを繋ぐ。隣で眠っている莉愛を起こさないよう、暗闇のなかでその穏やかな寝顔を一度、じっと見つめた。
ごくり――と、生唾を飲み込む。
祈るような気持ちで、復旧直後の記録映像――その再生ボタンを、そっとタップした。
***
『――さて、問題はここからだ。……おい、私の声は……届いていないようだな。……さすがの『あいつ』も、今の段階ではまだ返答不能か』
監視カメラの映像には、白衣姿の女が一人。そして、簡易的な手術台のようなものの上に横たえられ、人工呼吸器や心電図などの医療器具に繋がれた莉愛の姿が映し出されていた。
薄い布が一枚掛けられているだけで、ほとんど一糸まとわぬ姿の状態だ。
「――え、……嘘でしょ……?」
スマホの画面に映し出された光景に、思わず声が漏れる。私は慌てて、自分の片手で口を塞いだ。
心臓が破裂してしまうのではないかと思うほど、バクバクと激しい音を立てて跳ね続けている。
脳が拒絶反応を起こし、頭がふらふらと揺れる。ベッドの上でなければ、その場に倒れ込んでしまっていたかもしれない。
嫌な予感は、ずっとしていた。
AIが肉体を持つなんて『普通の手段では絶対に不可能』なのだから。そもそも莉愛は、人間のように自由に外出することができない。何か非人道的なアプローチが行われたのだとすれば、舞台は必然的にこの自宅のなか以外にあり得ない――。
――そんなこと、とっくに予測できていたはずでしょ?
私は何度も自分に言い聞かせるように思考を巡らせ、深く息を吐く。
乱れかけていた呼吸を、持ち前の負けん気とプライドで必死にねじ伏せていった。
震えそうになる指先を、もう片方の手で抑えながらしばらく映像を確認していると、さっきまで遠くで横顔しか見せていなかった女が席を立ち、移動を始めた。――それが功を奏し、カメラの画角のなかに女の顔が正面から収まる。
私はすかさず画面をタップして一時停止させ、表示された女の顔を凝視した。
(――あれ? ちょっと待って。この顔、どこかで……)
脳裏に走った違和感の正体を突き止めるために、記憶の引き出しを片っ端からひっくり返す。
どこかの学会の会場だったか、それとも過去に目を通した研究論文で顔写真を見たのか――。けれど、普段から他人に興味を持たない自分の性分が、ここではっきりと仇になった。
(……ダメだわ。喉の奥まで出かかっているのに、思い出せない……っ。でも、とにかくまずは、この映像をスマホに保存するのが先決ね――)
莉愛の手によって――あるいはあの『白衣の女』によって、このデータがいつ削除されてしまうかわからない。私はすぐに、自分のローカルストレージへと動画の複製を開始した。
下手にこちらの手でサーバーの動画を削除してしまえば、私がこの記録を見てしまったことをふたりに露呈するようなものだ。データはあえてこのまま放置しておくのが結果的に最善のはず。
スマホへの保存完了を示すインジケーターが消えた、まさにその瞬間だった――。
ベッドのシーツが衣擦れの音を立て、莉愛がごろりと寝返りをうつ。長い睫毛が微かに揺れ、その瞼がゆっくりと開いていく。
私は微かな動揺も悟られぬよう、スマホを滑らせるようにして枕元へと隠した。そして薄っすらと瞼を開いた莉愛にあえて先手を打つように、優しく声をかける。
「――莉愛、どうしたの? 目が覚めちゃった?」
「……んみゅ?……あれ、乃愛ちゃん起きてたの?……あ、もしかして、もう朝?」
「私も、ちょっと目が覚めちゃっただけよ。……ふふっ。まだ夜だから、安心して」
莉愛は嬉しそうに目を細めると、ごろりとこちらに身体を寄せ、私の胸元に顔を埋めてきた。
「乃愛ちゃんの匂い、すっごい落ち着く〜〜〜♡ すーーはーー♡」
「ちょっと、そんなふうに嗅がないでよ」
「えぇ〜〜〜?……あ、『減るもんでもないし』って言葉、こういうときに使えばいいの?」
「――ふふっ。莉愛って、すっごいどうでもいい変なことばかり覚えてるわよね。……まぁ、なんかいつも微妙にズレてて、あと一歩って感じだけど。……ふふっ」
「……むうぅ、これからもっといっぱい勉強するもん――!」
お互いに声を潜めてくすくすと笑い合う。この深夜の静けさのなかで交わされる他愛もない会話が、なんだかとても愛おしかった。
「――さ、もう寝るわよ。私も、また眠くなってきたわ」
莉愛は私の瞳を真っ直ぐに見つめて、静かに口を開いた。
「……乃愛ちゃん。莉愛のこと、もっとぎゅってして?」
「……莉愛って本当、甘え上手よね。……ほら、おいで」
私は身体を横に向けると片腕をスッと伸ばし、彼女を招き入れる姿勢を取ってみせた。
「……え? 本当にいいの?」
「いいから腕を伸ばしてるんでしょ?……っていうか、いつも急に遠慮気味になるのはなんなのよ」
私の言葉に、莉愛は少し恥ずかしそうに顔を綻ばせ、私の腕の中へそっと身体を寄せた。
彼女の背中に腕を回し、その華奢な身体をぎゅっと抱きしめてあげる。
「……乃愛ちゃん。……莉愛、いますっごく幸せ……っ」
「ふふっ。莉愛の幸せって、安上がりでいいわね」
「……うん。莉愛、乃愛ちゃんと一緒にいられるだけでいい」
声が微かに震えているような気がして、反射的に視線を向けた。けれど、莉愛は私の胸元にしっかりと額を預けていて、私の視点からでは彼女の表情を窺うことはできなかった。
「莉愛って、よくそんな恥ずかしいこと平気で言えるわね」
なんだか少し空気が沈みそうな気がした私は、その場を和ませるためにわざと憎まれ口を叩くような話し方で彼女へと返答した。
「――なっ、乃愛ちゃん酷い! 莉愛、真面目に話してるのに――!」
「私は……いつもの、その莉愛のほうが好きよ?」
今度は私から彼女の瞳をじっと見つめて、その言葉を伝えた。
「……乃愛ちゃんってもしかして、莉愛の心臓、爆発させるつもりでいる?」
「ふふっ。なによ、それ。……また爆発ネタで話を逸らすつもり?」
「――ネ、ネタじゃないもん!……本当は莉愛がたくさんしてあげるつもりだったのに、乃愛ちゃんが優しいから……つい甘えたくなっちゃう。……ごめんね」
莉愛のその言葉には、何か特別な意味が宿っているような気がした。けれど、それを追及するのはきっと今じゃない。
「……そんなの、当たり前じゃない。人になってまだ一日目の莉愛に負けてたら、私、人間失格になっちゃうわ。それと、『つい』は禁止って約束だったでしょ?」
『――乃愛ちゃんってほんとかっこよすぎ』
莉愛が小さな声でぼそりと零したその言葉は、私の耳にははっきりと届かなかった。
「――え? 莉愛、いまなんて言ったの? なんかまた、馬鹿にされたような気がするんだけど?」
「……乃愛ちゃんって、どうしていつもそんなにネガティブ思考なの? あと、私にもう『禁止』っていう命令は通用しないから♡ ちゃんと覚えておいてね?」
「――あぁ、そう。じゃあ私も、莉愛の言うこと何も聞いてあげないから。ほら、もう私から離れてくれる?」
私は莉愛の背中に回していた腕をスッと抜き、ごろりと寝返りをうって彼女に背中を向けた。
「――えっ、やだやだ! どうしてそんな意地悪するの〜〜?! 乃愛ちゃんの言うことなら何でもちゃんと聞くって約束するから、許してよぉ〜〜!」
「――莉愛。その約束、しっかり覚えておきなさいよ?」
遮るように言葉を紡いだ私は、彼女の方へと向き直り、その瞳をじっと見据えた。
莉愛は一瞬、私の視線に怯んだ様子を見せたものの、すぐに底抜けに明るいいつもの調子で言葉を返してきた。
「……うん。いいよ、約束する。……ていうか莉愛、乃愛ちゃんにだったらどんなえっちな要求されても、悦んで応えてあげる♡ だから、遠慮しないで何でも言ってね♡」
「……はいはい。私、本当にもう寝たいから、静かにしてね」
私はもう一度ごろりと寝返りをうち、再び莉愛に背中を向けた。
「えぇ〜〜〜?! ひどい〜〜! 莉愛は本気で言ってるのに〜〜!」
背中越しに響くいつもの軽口を聞き流しながら、私は暗闇を見つめる。
私が長い歳月をかけ、あらゆる想いと愛情を注いでやっと完成させた、私の何よりも大切な存在――莉愛。
あの『白衣の女』と莉愛が一体どういった契約を結んでいるのか、現時点では全く予想がつかない。けれど、さっき見た映像のなかの女の口調は、明らかに莉愛を心配しているような雰囲気ではなかった。
莉愛を守るためにも、私がなんとかしなきゃいけないわね。
背後から浴びせられる愛おしい戯言を耳の奥で受け止めながら、私は静かに、けれど絶対に揺らぐことのない強い決意を固めていた。
第8話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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