プライド
あのあと、フィッティングルームの中がある意味での修羅場と化していた、まさにその最中のこと。
『お客様、サイズはいかがだったでしょうか?』
カーテンの向こうから、店員さんの控えめな声かけが響いた――。
お決まりの――けれど私にとっては、これ以上ないほどありがたいその一言のおかげで、どうにか事なきを得た。
(……あの場で、店員さんが声をかけてくれていなかったら、一体どうなっていたことか――)
胸の奥に溜まっていた熱い空気を吐き出すように、はぁ――と深い溜め息がこぼれてしまうのも、きっと仕方のないことだと思う。
「乃愛ちゃん、ため息なんかついちゃって、どうかしたの〜〜?」
背後から響いた、相変わらず底抜けに明るい莉愛の声。
私は視線を正面に向けたまま、少し自嘲気味に言葉を返した。
「人間だもの。ため息の一つやふたつ、勝手に出ちゃうときもあるのよ……」
「ふ〜〜ん、そうなんだぁ。莉愛はまだ、その体験できてないかも。……ま、そんなことより、乃愛ちゃん見て――! 似合ってる? 莉愛かわいい?」
私はクッションに深く預けていた身体をのそりと起こし、微かに軋むソファーの背もたれ越しに振り返る。
そこには――新調したばかりの淡いピンクのパジャマに身を包み、自慢げにくるりと両手を広げてみせる莉愛の姿があった。
「――あら、かわいいじゃない。莉愛って、ピンクとかホワイト系のカラーが好きなのね。それって、ちゃんと『自分の好み』としての感覚なの?」
「にゅふふっ! やった〜〜♡ 乃愛ちゃんに『かわいい』って言ってもらえると、すっごく嬉しいのと、なんかお腹の奥がキュンってなっちゃう♡……よくわかんないけど、自然と目が向いちゃったから、これが『自分の好み』なのかな?」
「ふふっ、なによその笑い方と煮え切らない回答は――。それと、最初は確か一人称も『私』だったわよね? 莉愛に変えたのは何か理由があるの?」
「……特に意識してなかったけど、言われてみればそうかも? でも、なんかこっちのがかわいくない?」
彼女の『肉体』の構造については情報不足――というか、未だにまったくと言っていいほどデータを得られていない。食事と睡眠といった最低限の生存機能以外は、すべてが未知数だ。
――それに、一人称についても、今までこちらでプログラムを組んで指定していた覚えはない。つまり、この変化は――実体化してからの彼女が『自らの意思』でいつの間にか『私』から自身の名前へと切り替えているということだ。
(……たった一日で、ここまで急速に自我が成長しているの? それとも、単に私が彼女を『元AI』として意識しすぎているだけかしら?)
「……か、かわいいかどうかは別に関係ないの。莉愛、ちゃんと真面目に考えてから、回答してくれる?」
「――関係、大アリだよ……。乃愛ちゃんはどっちが好き?……莉愛、かわいいって思ってもらえる方を選びたい」
会話の途中から、莉愛の潤んだ瞳が徐々に甘い熱を帯びたものへと変わっていく。
じりじりと距離を詰めてきた彼女は、ソファーの端に片膝をかけると、私の太ももを跨ぐようにして――ゆっくりとその上に腰を下ろした。ソファーのスプリングが深く沈み込み、ギシッという軋む音が、やけに大きく耳の奥で響いた。
「……あ、あのねぇ。私はあくまでも莉愛の現状を把握するために――」
鼻先が触れ合うほどの至近距離。莉愛の甘い香りとふたりの熱い吐息が交じり合う。――ドクンと大きく跳ねた自分の心臓の音をごまかしながら、何とか質問の意図を説明しようと唇を必死に動かしたその言葉は――唐突に押し当てられた莉愛の唇によって、あっけなく塞がれてしまった。
「――んむ?」
(――え、なに?……唇にものすっごく柔らかい感触が。……ていうか、睫毛の長さどうなってるのよそれ。肌もこんなに近くで見てもキメ細かいままで……本当、ビジュアル面では一切の隙がないわね。……じゃなくて――私、もしかして……莉愛にキスされてる――?!)
すぐ目の前にある莉愛の顔は耳まで真っ赤に染まっていて、耳元で響く心臓の鼓動は自分のものなのか彼女のものなのか分からないほど激しく脈打っている。
今まで聞いたこともないような甘い吐息を漏らしながら、莉愛はその感触を確かめるように何度も私の唇に自分のそれを重ねては、少し離してを繰り返している。
「――ちょ……っ……ぁっ……はっ――」
私が息を吸おうと口を微かに開けた瞬間――彼女の柔らかな熱がすかさず私の中へと滑り込み、不器用ながらも必死に責め立ててくる。
「――っ……んっ……んんん――っ!」
「……っ……ぁ……乃愛……っ、ちゃん……莉愛、ちゃんと上手にできてる――?」
(――は……初めてなんだから、わかるわけないでしょ――!?……あ、でもそれは莉愛も同じよね。……じゃなくて――今すぐ止めなきゃ!)
いつの間にかソファーの背もたれに背中を押し付けられ、正面から抱きすくめられるような形で完全に動きを封じられていた私は、彼女の細い両肩に手を置き、ぐいっと力を込めてその身体を引き離した。
――ギシッと、ソファーのスプリングが鈍い音を立て、リビングにはふたりの荒い息遣いだけが響いている。
「――ちょっ、ちょっと莉愛。いきなり何するのよ?」
「――はぁ……はぁ……っ……莉愛、乃愛ちゃんがもしひまりんに取られちゃったらどうしよう、嫌だ――って思ったら、なんか急に気持ちが止められなくなっちゃって。それで……ご、ごめんなさい……っ」
小さな肩をふるふると震わせ、今にも泣き出してしまいそうな顔をする莉愛。潤んだ瞳でじっと私を見つめてくるその姿は、まるでこれから下される罰を覚悟しているみたいで――。
(……はぁ。……本当に、ずるいわね……。そんな顔されたら、怒るに怒れないじゃない……)
ハプニング続きだった長い一日を乗り越えた成果か、それとも脳のキャパオーバーか――。
パニックに陥るのが正常なはずの状況で、私の頭は妙に冷静だった。自分でも驚くほど落ち着いている。
私は膝の上で小さくなっている莉愛の頭を、手のひらでそっと、ぽんぽんと優しく叩いた。
「……まったく。なんで私とキスして、そんな暗い顔してるのよ? ここは、いつもの莉愛なら、もっと誇らしげに感想でも言うんじゃないの?」
私の言葉に、莉愛は弾かれたように顔を上げた。
「……え? 乃愛ちゃん、怒って……ないの?」
「莉愛にキスされたくらいで怒ってたら、この先が思いやられるでしょ?……さ、せっかく新しいパジャマに着替えたんだから、今日はもう寝るわよ」
そう言って、私は彼女の身体を優しく退かし、ソファーから腰を上げようとした。
――けれど、その瞬間。
「――乃愛ちゃん大好きっ!」
ソファーが激しく軋むほどの勢いで、莉愛が正面から飛びつくように抱きついてきた。
勢い余って背もたれに倒れ込んだ私の胸元に、莉愛は嬉しそうに顔を埋め、少し遠慮がちな、けれど簡単には解けない強さで、私をぎゅっと抱きしめてくる。
新調したパジャマ越しに伝わってくる、莉愛の柔らかなぬくもり。
「――莉愛、その抱きつき方は危ないから、本当にやめなさい……っ」
「だってぇ〜〜! 乃愛ちゃんのことが好き〜〜〜! って気持ちが溢れると、ついこうなっちゃうんだもん――!」
「何がつい――よ。……はぁ。今度から『つい』は禁止。いいわね?」
「そんなぁ〜〜〜!……あっ、でも乃愛ちゃん、『秘密のフォルダ』に書いてあった『女の子との甘いキス』は、今ので達成できたよね?……ねぇ、莉愛の唇って、ちゃんと甘かった?」
子供のように駄々をこねていたかと思えば、突然部屋の空気ごと引きずり込むような小悪魔へと早変わりする。潤んだままの瞳に、どこか扇情的な色気が混ざり合う。こうしてコロコロと表情を変える彼女のペースにどうしても抗えないのが、ちょっと――いや、かなり悔しい。
(私は、彼女の創造主であり、彼女の――今はまだ、そこまで決めつける必要はないわね……)
「……あ、甘いわけないでしょ? それに、そのフォルダの記憶は、今すぐ消去しなさい――!」
「乃愛ちゃん、人間の脳内に保存された記録って、簡単に削除できないんだよ? それに私、一度約束したことは絶対に守る主義なの♡ だから、ごめんね?」
莉愛は潤んだ瞳で私をじっと見つめ、両手の指先だけを合わせて小首を傾げている。自分の可愛さを全面に押し出した『あざとい女のテクニック』そのものだ。
本当に、一体どこで学習してきたのやら。こんなときでも忘れず、しっかりと混ぜ込んでくるなんて――。
「なんで私が元AIに諭されないといけないのよ。……はぁ、まぁいいわ。莉愛も初めての外出で疲れたでしょ? 今日はもう、身体をしっかり休めなさい」
「……乃愛ちゃんって、本当に優しいよね♡ 好き好き好きっ♡ ……それじゃあ、一緒にベッド行こ?」
莉愛の腕がさも当然といった様子で、するりと私の腕へと絡められた。
彼女の柔らかな体温が直に伝わってきて、再びドギマギしてしまいそうになる。
(――ほんっと、『こういうところ』よね……。ていうか、私も簡単に絆されすぎでしょ……っ)
「はいはい、ありがとう。……あ、ベッドと言えば、莉愛のベッドも買わないといけないわね。部屋だって、物置としてしか使ってないところがあるし――」
必死に冷静さを装って話を逸らそうとした、その最中だった。
莉愛が私の腕に絡めていた手を、ぐいっと自分のほうへと引いた。
「――乃愛ちゃん。……莉愛、ベッドも部屋もいらない。乃愛ちゃんとずっと一緒にいたいから――っ」
ソファーに背を預けたままの私は、自然と彼女を少し見上げる形になる。
唇をきゅっと小さく結び、切なげな瞳をした彼女は、なんだかすごく――か弱い少女のように見えた。
トクン――と一度、胸の奥で心臓が小さく跳ねる。
けれど、初日から彼女に、これ以上弱みを握られるわけにはいかない。
天才科学者としての――いや、蒼羽乃愛としてのプライドのためにも。
とはいえ、もうこれだけ情けないところを見せてしまっていたら、今更な気もするけれど。
……まぁ、それはそれで――。
第7話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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