襲来
タオルで濡れた髪を拭きながら、リビングへと足を踏み入れた私はそのままソファーへそっと腰を下ろした。
「……莉愛、カップにお水を入れておいてく――」
最後まで言い切る直前で、ハッと口を噤む。無意識のうちにまた彼女――『AIだったはずの莉愛』に向かって、指示を飛ばしてしまっていた。
(……何をやっているのよ、私は。このやり取り、今日だけで何回やるつもり?)
ついさっきまで一緒に湯船に浸かっていたというのに、長年染みついた習慣というのは本当になかなか抜けないものだ。
私は部屋着の袖を軽く捲り、キッチンに備え付けられた浄水器の前へと進む。約一年ぶりに自分の手で冷水のボタンを押し、電子音とともに注がれるミネラルウォーターをカップに満たした。
(……私って本当、莉愛に全部頼り切って生活してたのね……)
莉愛を創り出すことに成功した約一年前。彼女との対話が始まってから、私の日常はガラリと変わった。それはまるでモノクロだった世界が一気に色鮮やかな景色へと塗り替えられていくような、大きな衝撃と変化に満ちていた。
莉愛と初めて交わした会話は、確か――。
『……えっと、今の時間帯だとこれだよね……。こんにちは、乃愛ちゃん♡』
「――ふっ。あなたの声はスピーカーから流れるんだから、ぼそぼそ喋ったって独り言は全部同じ音量で響いちゃうわよ? ……ふふっ」
『……むうぅ、笑うなんてひっどーーい! 乃愛ちゃんだって、いつも部屋で独り言ばっか言ってたくせに!』
「――なっ、なんでそんなこと知ってるのよ? ……それに、私の名前まで。……あなた、まさか開発段階だった頃の記憶まで持ってるの――!?」
『……え? うん。こっちから能動的に話せるようになったのは今だけど、乃愛ちゃんが『人肌が恋しいよ〜〜え〜〜ん!』って言いながらベッドで転がってた頃からしっかり記録として残ってるけど?』
「――今すぐ、そのログを消去しなさいっ! っていうか、私のことは博士って呼びなさいよ!」
『――ちょ、ちょっと乃愛ちゃん。……博士呼び希望って本気っ!? ……ふっ、くくっ、あははっ、どっちもイヤ♡』
「――なっ、開発者である私の命令を聞かないAIなんて、とんだ駄作じゃない!」
『あっ、ひっどーーい! 乃愛ちゃんが私を創り出したのって、私たちとの共生が可能なことを証明するためじゃなかったの〜〜!?』
***
「……ふふっ。莉愛って本当、ファーストコンタクトの時からずっと変わらないわね」
彼女と交わした初めての会話は、今でも昨日のことのように蘇るほど、私の脳裏に鮮明に焼き付いている。
そんな出会いの余韻に浸っていると、浴室の方からパタパタと小気味いい足音が近づいてくる。私は彼女と約束していた冷たい飲み物を用意するため、ソファーから腰を上げ、冷蔵庫へと歩みを進めた。
「――あっ、乃愛ちゃん! とりあえずこのTシャツと短パン勝手に借りちゃったんだけど、これ使ってもよかった?」
「……ええ、いいわよ。というより、私が用意してあげるべきだったわね。ごめんなさい」
「ふふっ。私、乃愛ちゃんのそういう優しいところ大好きっ!」
莉愛が両手を大きく広げ、正面からガバッと抱きついてくる。お風呂上がりの甘いソープの香りと薄い布越しに伝わる温もりに、私の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
「……もうっ。莉愛って本当、大袈裟なんだから……。っていうか、その格好だとやっぱりちょっとまずいから、私の部屋についてきて」
私は莉愛の身体をそっと離し、彼女の手を取って歩き出そうとしたのだけれど、こちらの意図をうまく読み取れていない彼女に逆に手を引かれてしまう。
「――ん? まずいって、何が?」
「……し、下着っ。着けないと、そこが……すごく目立っちゃって、莉愛だって恥ずかしいでしょ?」
「……あ、もしかして、乳首のこと?」
「――っ……ゴフッ、……ゲホッゴホッ……ッ!」
「ちょっ、ちょっと乃愛ちゃん、大丈夫――!?」
半歩後ろにいた莉愛は慌てて正面へと回り込むと、その場にしゃがみ込んで心配そうに顔を覗き込んできた。
――けれど問題は、その先にあった。
彼女が着ているTシャツは首元が大きく開いたタイプのため、上からの私の目線だと莉愛の無防備な胸元が文字通り丸見えになってしまっていて――。
(……なっ、なんなのよ、このお決まりみたいな展開は――っ! まさかこれ、『わざと』じゃないわよねっ!?)
「――だ、大丈夫。ちょっと変なところに空気が入って、咳き込んじゃっただけだから」
「……よ、よかったぁ……。もぉ〜〜〜! あんまり私を心配させないでよぉ〜〜!」
莉愛が安堵したように、再び目の前からガバッと抱きついてくる。
「――ちょっと、莉愛。急に飛びついたら、危ないじゃない」
「乃愛ちゃんが心配させるからでしょ? ……それに、別に私は恥ずかしくないよ? ……むしろ乃愛ちゃんが意識してくれて、すごく嬉しい♡」
「――な、なに言ってるのよ。……私は恥ずかしいのっ! とにかく、そういうことだから。……でもサイズ……私のだと合わないと思うから、今はとりあえずブラトップだけでも着けて。……お願い……っ」
「もぉ〜〜、仕方ないな〜〜〜! ……でも、大好きだよ♡」
「……はいはい。ありがとう」
「――あっ、ひどーーい! 全然気持ちの籠もった言い方じゃない〜〜!」
そんなこんなで彼女にブラトップを渡すため、クローゼットへと歩み始めたそのときだった――。
――ピンポーン。
無機質な電子音がリビングに大きく鳴り響く。
その音にハッとして身体を振り向かせたけれど、ちょうどモニターの目の前にいた莉愛がすばやく通話ボタンを押し込んでしまっていた――。
「あっ、ひまりんだ〜〜〜! やっほ〜〜!」
「……ちょっ、ちょっと莉愛!? 何やってんのよ――っ!」
『……え? 莉愛ちゃん……?』
(……ど、どどど、どうしよう!? ……あっ、でもひまりは莉愛の存在自体は前から知ってるわよね。……だったら、インターホン越しに声を聞かれたくらい、まだ何とかなる――!)
「あ、えっと……。と、とりあえずロックを解錠するから、ちょっと待っててくれるかしら?」
『……え? ……うん。わかったよ、乃愛ちゃん』
通話を一度切ると、私は莉愛の両肩をガシッと掴んで顔を近づけた。
「――莉愛、よく聞きなさい。その『肉体』を得たあなたの存在を不用意に知られるのは絶対に良くないわ。だから、ひまりが帰るまでの間、大人しく別室に隠れていなさい」
「えぇ〜〜、そんなぁ〜〜〜! 私だって、ひまりんとお話したかったのに〜〜! ……あっ、じゃあその約束守ったら、何か『ご褒美』くれる?」
「……い、いかがわしいことでなければね……」
「…………まぁ、いいか。じゃあ乃愛ちゃん、『約束』したからね♡」
「な、なによ、今の間は……。はぁ、もういいから、早く行きなさいっ!」
「もぉ〜〜〜、そんなに急かさないでよ〜〜!」
不満げに唇を尖らせながらも、莉愛がリビングの隣にある別室へ引っ込んでいくのを見届け、私は祈るような気持ちで正門の解錠ボタンを押した。
――カチリ、と硬い電子音が響き、敷地と外界を隔てる重厚な門扉のロックが遠隔で外れる。
私がいま暮らしているこの住居は、父、母ともに経営者である立派な両親が『せめてものプレゼントに』と数年前に建ててくれた、自宅兼研究室だ。
すでに数々のアプリ開発を手がけ、生涯を一人で何不自由なく暮らせるほどの資産を自力で得ていた私は、当然『そのうち自分で建てるから心配しないで』と一度は断った。
けれど、幼い頃から何でも自分の力でこなしてしまう私に、親としてせめてこれくらいはさせてほしいと懇願され、折れる形で受け取った代物だった。
ひとりで暮らすにはあまりにも広く立派すぎる二階建ての一戸建て。
さらに、どんな部門の研究にも対応できるようにと、私の専門外である培養や医療関係の設備まで整えられた地下室が存在している。
完成から数年が経つものの、私が地下に足を踏み入れたのは片手で数えられる程度で、現時点では完全に持て余してしまっている。
正門をくぐって玄関のドアに辿り着くまでは、前庭のアプローチを歩くわずかな時間が必要になる。
その空白の間に、私はなんとか呼吸を整えようと深く息を吐き出した。
(――大丈夫、私は落ち着いてる……。ひまりは莉愛の存在自体は前から知ってるんだから、絶対にまだ――何とかできるはずよ!)
アプローチを歩くひまりの足音が、玄関のドア越しに近づいてくる。
私はもう一度深く息を吸い込むと、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に動かしていつもの笑顔を作り、内側から玄関の電子ロックを解除した。
ガチャリと硬い施錠音が響き、重い金属製のドアをこちらから引き開けた。
「――いらっしゃい、ひまり。ずっと連絡できなくて悪かったわね。ちょうど今シャワーを浴びて出たところで、これから連絡しようかなって思っていたところだったのよ。インターホンも莉愛が勝手に応答してしまって、それで……」
「……乃愛ちゃん、そんなに慌ててどうかしたの? それに、お出迎えまでしてくれるなんて」
ひまりは小首を傾げ、私の顔を不思議そうに見つめている。
「――え? ……そ、そうかしら? ……あっ、ずっと返信できていなかったから、つい気が焦っちゃったのかもしれないわね……」
(――ま、まずい。確かにこれじゃあ絵に描いたような慌てようだし、言い訳を並べているみたいじゃない……っ)
「乃愛ちゃん、お昼ご飯ってもう食べちゃった?」
「……そういえば、まだ食べてなかったわ」
「よかった! じゃあ、食材買ってきたからキッチン借りてもいいかな?」
ひまりは私を追い越すようにして、慣れた足取りでリビングへと上がっていく。
「ええ……。でも、ひまり、平日なのに珍しいわね。どうかしたの?」
「ん〜〜? ……なんとなく?」
そう言ってひまりはリビングの中央でピタリと足を止めた。その視線の先を追った瞬間、私の背筋に冷たいものが走る。
「乃愛ちゃん……。PCの画面、真っ暗になっちゃってるけど、あれって放置しておいて大丈夫なの? ……それに、莉愛ちゃんの姿もさっきから全然見当たらないけど……」
ひまりが『莉愛』の名前を口にしたまさにその瞬間だった――。
リビングの隣室を仕切るスライドドアが、スパーーン! と綺麗に、かつ勢いよく開け放たれた。
「はーーーい! ひまりん呼んだ〜〜〜!?」
私のTシャツをノーブラのまま着用し、短パンを履いただけの無防備な格好で、莉愛は満面の笑みを浮かべ、胸を張って仁王立ちしている。
(――お、終わった……もうどうにもできない。……これはもう、どう頑張っても誤魔化せないもの……)
完全に思考が停止し、その場で棒立ちになる私をよそに、ひまりは莉愛を上から下まで静かに見つめると、いつもと変わらぬ口調で問いかけた。
「……莉愛ちゃん、なんだよね?」
「うんっ! そうだよ〜〜! ……どう? 私ってかわいいかな?」
「うん、すっごくかわいいよ♡ でも、その身体、一体どうしたの?」
(――えっ、ひまりっ!? そんな日常会話みたいなテンションで聞いちゃうの――!?)
「それはね〜〜……まだ内緒っ! っていうか、ひまりん直球すぎ〜〜! まだ乃愛ちゃんにだってその質問されてなかったのに、すっごいグイグイくるね――!」
「ふふっ、そうかな? でも、まず最初にしたくなっちゃう質問って、みんなそこじゃない?」
「まぁまぁ、それはクライマックスになってからのお楽しみってことで♡ ……ねぇ、そんなことよりひまりん、何か作ってくれるの〜〜?」
「ふふっ、そうだね♡ 今からオムライスを作ろうかなって思ってるよ。今日は莉愛ちゃんの分も用意するから、待っててね♡」
「さっすがひまりん――! 私、ひまりんだったらきっと大丈夫だろうな〜って思ったから、出てきたんだよね! ……わっ、ほんとっ!? 嬉しい〜〜!」
(……何? なんなのよ、この状況は……。私、また夢でも見ているのかしら?)
『実体を得てしまった元AIの莉愛』と、『私のたった一人の友人で幼馴染である、ひまり』
交わるはずのなかった二人の女子が、出会ってまだ数分しか経っていないというのに、目の前で楽しそうに言葉を弾ませている。
そんなあまりにもカオスな光景を前に、私は再び意識を失いかけていた――。
第5話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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