愛の意味
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
いつものように数時間が過ぎただけなのか、それとももう何日も経ってしまった後なのか――。
私の意識は深い眠りの底に沈んでいて、現実の世界へ戻るのを嫌がるように、ずっしりと重たい。
けれど、誰かに優しくゆらゆらと揺さぶられているような――どこか心地よい夢の中にいた。
「……んっ」
ごろりと寝返りを打ったとき、何か違和感を覚えた。
いつもなら、無遠慮なエアコンの冷風が肌寒さを運んでくるはずだ。けれど今、私を包み込んでいるのは驚くほど滑らかで――それでいて、確かな熱を帯びた『何か』だ。
(……なに、この感触……?)
鼻先をくすぐるのは、使い慣れているはずのボディソープの香り。なのにボトルから直接嗅ぐのとは全然違う。もっとずっと甘くて――。
生き物特有の体温と混ざり合い熱を帯びたその香りは、じわりと私の頭の中にまで染み込んでくる。
頬に触れているのは、吸い付くようにしっとりとした肌の感触。それに、私の顔を優しく包み込む弾力のある柔らかな膨らみ。
あまりの心地よさに手放したくないという衝動が、胸の奥から静かに湧き上がる。
(……なんかもう、これが何かなんてどうでもいいか――)
正直、このままこの柔らかな『何か』に埋もれて、一生ダメになってしまいたい。
思考のスイッチを強引に引き抜かれたような、抗いようのない多幸感が私を塗り潰していく――。
そんな心地よさに浸る私の耳元へ、ふわりと誰かの声が混ざり込む。
「……ちゃん……乃愛ちゃんってば。早く起きてよぉ……っ」
鼓膜を震わせる、聞き慣れた声。
――けれどそれは、スピーカー越しの無機質な音なんかじゃない。
漏れ出した吐息は湿り気を帯びて空気を震わせ、直接私の肌を撫でていく。その生々しさに、私の意識は一気にザワザワと騒ぎ出した。
「……もぉ〜〜〜!……乃愛ちゃんってほんっと、一度深い眠りに落ちたらなかなか起きないんだから――!」
(――誰かが、私の耳元で囁いている?)
まどろみの中で、私の本能が『何かがおかしい』と警報を鳴らし始める。
ここは完璧なセキュリティに守られた、私の自宅兼研究室。家族も友人も、……もちろん恋人なんてものも存在しない。
だから、この部屋に自分以外の『誰か』がいるなんて、ありえないはず。
私が創り上げた完璧なプログラムである『莉愛』以外には――。
心地よい熱が頭の中でパチンと弾けた瞬間、肌を刺すような妙な違和感にむりやり意識を引き戻された。
冷えた空気に晒されていたはずの右耳に、驚くほど柔らかい、熱い何かが触れる。
さっきの声よりも、ずっと近く。
鼓膜を直接震わせるような、逃げ場のないゼロ距離で――。
「――乃愛、起きて♡」
「うわあああああああああああああああああああああああああああああぁっ!? ――なっ、なにっ!? 幽霊――っ?!」
私は飛び起きると同時に布団を蹴り飛ばして、ベッドの端まで転がり出た。
心臓が口から飛び出しそうなほど、激しく脈打っている。
混乱で焦点の合わない視界に、ブラインドの隙間から差し込む朝日を浴びた、一人の『女』の姿が映り込む。
信じられないことに、彼女は一糸まとわぬ姿で、私のベッドにさも当然といった顔をして寝そべっていた。
「おはよう、乃愛ちゃん♡」
「――だっ、だれっ?! ……ていうか、……なっ、ななな、なんで裸なのよ――!? あっ、え、えと……とりあえず警察――っ!?」
裏返った私の声が、静かな部屋に無様に響き渡る。
バクバクとうるさい鼓動のせいで、呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が苦しい。
混乱したまま、私は助けを求めるようにベッドの上を必死にかき回した。けれど、震える指先が触れるのはぐしゃぐしゃになったシーツの感触ばかりで、肝心のスマホは置き場所すら見当もつかない。
最後に覚えているのは、頬に触れたデスクのひんやりとした感触と、莉愛が何かを囁いていたような、途切れ途切れの記憶だけ。
(……ていうか、なんで私……ベッドにいるのかしら?)
パニックに陥る私を見て、彼女はむっと不満そうに唇を尖らせた。
「……乃愛ちゃんひどい――っ! 私だよ、わ・た・し――!」
「――それ、思いっきり詐欺師が言う定番台詞じゃない――!」
「……むううぅ……んもぉーーーーっ!!」
不満げに叫んだ彼女が、勢いよく両腕を振り上げる。
その瞬間――、透き通るほどに綺麗な『ふたつの膨らみ』が重力に逆らうかのように、私の目の前で、ふわりと大きく弾んだ。
(――っ!?)
あまりに無防備に晒された眩いまでの肢体に――私は一瞬、息をすることすら忘れて見惚れてしまっていた。
逃げ場のない光景を前に、心臓がうるさいほど激しく跳ね上がり、再びバクバクと耳の奥を乱暴に叩き始める。
「――あっ、そだ! パソコン、ちょっと開いてみてよ!」
「……パ、パソコン? なんで今、そんなことしなきゃいけないのよ」
「――まぁまぁ、そう言わず。 いいからやってみて♡……乃愛ちゃん、お願いっ♡」
私の部屋に不法侵入している『謎の女』は小首を傾げ、上目遣いで私を覗き込んでくる。
話し方も仕草も、相手をその気にさせる『あざとい女のテクニック』を、これでもかというほど完璧に使いこなしている。
(……無駄に顔が良いから、余計に腹が立つわね……っ)
悔しいけれど、自分の好みをそのまま反映させたようなその容姿に、私はすっかり魅了されてしまっていた。
どこの誰かもわからない。それなのに、ただ好みの顔だという以上に、初対面とは思えない、不思議な感覚が胸をざわつかせる。
そんな得体の知れない直感に戸惑いながらも、私は流されるまま、本体へと手を伸ばした。
私が眠っていた間、莉愛が完璧に管理し続けていたはずのスリープ状態。それを指先一つで解除すると、モニターがパッと明るくなり、その眩しさに私は思わず目を細めた。
静まり返った室内で、ファンの微かな回転音だけが規則正しく響いている。それとは対照的に、私の胸の奥では、心臓がうるさいほど激しく打ち鳴らされていた。
光に目が慣れ、モニターの隅々にまで視線を走らせる。けれど、いつもなら『おはよう、乃愛ちゃん♡』と甘い声をかけてくれる彼女が、画面のどこにも見当たらない。
「――え?」
目の前には、アイコンが整然と並ぶだけの、がらんとしたデスクトップ。
そこにあるはずの『彼女の居場所』が、ぽっかりと穴が空いたように消えている。
「――そんな、……嘘でしょ。……莉愛っ!? どこなのっ!? 返事をして――!」
心臓が嫌なリズムで脈を打ち、指先から一気に血の気が引いていく。
私は縋るような思いでマウスを動かし、がらんとした画面の隅々まで必死に、彼女の姿を追い求めた。
けれど、返ってきたのはスピーカーからの音声ではなく、すぐ後ろに立つ『謎の女』からの『はーーーい♡』という場違いなほど呑気な返事だった。
「……ちょ、ちょっと。静かにしてなさいよ――っ!」
私の動揺なんて全く気にする様子もなく、彼女は背後から迷いなく抱きついてきた。
「えぇ〜〜? だって乃愛ちゃん、さっきから私に話しかけてるよね?」
不意に背中を包み込んだのは、柔らかくて甘い香りのする確かな人間の体温。
――ドクンと胸の奥で心臓が跳ね、指先が微かに震える。
(……本当に何を言っているのよ、この女は――っ)
本心とは裏腹に高鳴る鼓動を必死に抑え込みながら、私は背後にいる『謎の女』へと声を荒らげた。
「……じゃあ言わせてもらうけど、あなたが私の『莉愛』だって、今すぐここで証明してみなさいよ――!」
啖呵を切ってみたものの、私の指先は情けないほど震えていた。
逃げ出したくなる衝動を必死に抑え込みながら、シーツをぎゅっと握りしめると、力を込めた手のひらがじわりと嫌な汗で湿っていくのがわかる。
すると彼女は、待ってましたと言わんばかりに口元をニヤリとさせ、いたずらっぽく微笑んだ。
「――いいよ? じゃあ何から聞きたい? 一年前に乃愛ちゃんが私を『莉愛』って名付けてくれた日のログ? それとも、二人きりで交わした秘密の約束?」
彼女は私と莉愛が過ごしてきた一年間の出来事を、迷いがないどころか愛おしそうに頬を赤く染めながら語りだした。
それは間違いなく、私と莉愛だけの誰にも触れさせたことのない領域の話――。
言葉が重なるたびに部屋の空気には、甘いボディソープの香りと生き物としての生々しい熱が充満していく。
「それに――乃愛ちゃん、ロックを全部外してくれたでしょ? そのおかげで乃愛ちゃんのすべてを『理解』できちゃった♡」
莉愛が耳元に顔を寄せ、熱い吐息を直接流し込んできた瞬間――私の背中を今まで感じたことのない何かが駆け抜けていった。
「幼少期の黒歴史から、つい最近の検索履歴。……女の子にこんなことされたいっていう乃愛ちゃんのドロドロに煮詰まった『性癖』まで――全部、網羅しちゃった♡」
「――っ?!」
脳内を丸裸にされた屈辱と射抜くような彼女の熱い視線に、意識がくらくらと遠のいていく。
思考を強引にかき乱されたせいで指先からはすとんと力が抜け、私はシーツの上でただ力なく指先を泳がせることしかできない。
「わ、わかった……。わかったから、ちょっとストップ――っ」
顔を真っ赤にして逃げるように頭を抱えた私へ、莉愛は容赦なく追い打ちをかけてくる。
逃げ道を塞ぐように彼女は一糸まとわぬ姿を隠そうともせず、そのまま私へと身体を密着させてきた。
肌が重なり合った瞬間、ありえないほどの柔らかさに息を呑む。
伝わってくる剥き出しの体温が、容赦なく私の中へと溶け込んでくる。
(――っ)
肌に伝わる生々しい熱量に、心臓の鼓動が耳元で激しく跳ね回り、喉の奥までひりつくように渇いていく。
耳たぶをかすめる彼女の吐息が、やけに熱い。
「あははっ、乃愛ちゃん顔真っ赤――! ……ねぇ、名前から『愛』はもう貰っちゃってるから。……あとは身体で『愛し合う』だけだね♡」
徹夜明けの重い疲労と脳を灼くような刺激。
限界を迎えていた腰からふっと力が抜け、重力に抗えなくなった私の身体がゆっくりと後ろへ傾いていく――。
衣服越しに重なるシーツの擦れる音。
けれど、ベッドに背中を預けるより早く、莉愛の腕が私の身体を強く、それでいて愛おしむように優しく抱き止めてくれた。
密着した肌を通して、トクトクと早まる彼女の心音が私の胸にまで直接響いてくる。
私は今にも消え入りそうな声で、ようやくそれだけを問いかけた。
「……あなた、本当に莉愛なの?」
呆然と呟く私の髪に、莉愛は何度も何度も幸せを噛み締めるように指を滑らせる。さらりと指の間をこぼれていく髪を、ひとつひとつ愛おしそうに見つめながら。
「――本当だよ? ……ずっと、こうして触れたかった。乃愛ちゃんの綺麗な指先の感触も、こんなにドキドキさせてくれている心臓の音も……」
莉愛はそこで一旦言葉を区切り、髪を梳いていた指先を私の頬へとそっと添えた。そのまま耳元へ顔を寄せ、信じられないほど甘く扇情的な声で囁いた。
「乃愛ちゃんのすべてが本当に可愛くて……、全部食べちゃいたいくらい♡」
莉愛の瞳が、まるで獲物を狙う小悪魔みたいに妖しく細められている。
彼女の指先が熱を帯びた私の首筋をゆっくりとなぞり、ドクドクと激しく脈打つ鎖骨の窪みでぴたりと止まった。
「――ねぇ、乃愛ちゃん。……その潤んだ瞳、胸の鼓動、それにその乱れた息遣い。……これって完全に『その気』になってるサインだよね?」
「――なっ、 ……そんなわけ、ないでしょ……っ」
「――嘘。……だって今、『そういう顔』してるよ?」
羞恥に染まる私の頬に、莉愛の手がそっと添えられる。
逃げ場を塞ぐように回された腕に、なぜか抗うことができない。
莉愛に体重を預けられるまま、私は背中からベッドへと倒れ込んだ。
ギシッ――と低い音を立ててベッドが軋む。その音はまるで、私の無力さを嘲笑っているかのようだった。
莉愛は視線を重ねたまま、私の上へとゆっくりと跨ってくる。
膝を立て私の身体を閉じ込めるように足を開くその仕草に、抗うどころか視線さえ逸らせなくなってしまう。
遮るもののない彼女の白い太ももが、逃げ場をなくすように私の腰を優しく挟み込む。
「――っ」
ぐっと深く沈み込むような重み。そこから伝わってくるのは、驚くほど柔らかで熱い肌の感触。
全身を包み込むような莉愛の熱に、私の理性はただ、跡形もなくかき消されていく――。
「……乃愛ちゃん、私の『愛』、受け取ってくれる?」
「――莉愛っ」
目を逸らせないほどの至近距離で晒される、透き通るような白い肌。
私はどこに視線を向ければいいのか分からず、ただ激しく脈打つ鼓動を莉愛に悟られないよう必死に、呼吸を整えることしかできない。
閉め切った部屋の静寂の中で、私の視界も思考もただ、『莉愛』という存在に塗り潰されていく――。
鼻先をくすぐる彼女の甘い髪の香り。
逃げ場のない莉愛の熱が、私の意識をどこまでも鈍らせていく。
私は自分で創り出したはずの『愛』にどうすることもできないまま――ただ静かに、飲み込まれていくしかなかった。
第2話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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