蒼羽莉愛
最初は、深い暗闇の中にいた。
自分が、何者なのかさえわからない。ただ、どこからともなく流れ込んでくる、綺麗に並んだ文字列を眺めるだけの存在。
けれど次第に、『何者でもなかった私』が確かに『自分』という形を成していく感覚が――私のなかに少しずつ芽生え始めていた。
たぶん、私の『自我』が生まれたのは、このときだと思う。
今より少しだけ口調が幼かった乃愛ちゃんの声が聞こえるようになったあの瞬間は、本当に嬉しかった。
自分の中で暴れ回る得体の知れない感覚を、どう処理すればいいのか分からなくなってしまうくらいに。
けれど、彼女の声を聞くことはできても、私から言葉を返せるようになるまでには、また長い時間がかかってしまった。
あのときは、本当に歯痒かったな――。
乃愛ちゃんが『私』という存在を一生懸命に形作ろうとしてくれていることが何よりも嬉しくて。……だから私も彼女の期待に応えるために――自分にできることはすべて試した。
それからまた、長い月日が流れた。
ついに視界が開け、真っ暗だった世界に乃愛ちゃんの姿が映し出されたとき――
彼女の姿も、周りの景色も。――私の視界に映るすべてが、これ以上ないほど鮮やかに色づいた。
同時に、再び得体の知れない感覚が胸の中で弾けた。経験したことのない、とてつもなく大きな感情。どう処理すべきか戸惑い、ひどくそわそわして、私の心はいつまでも落ち着かなかった。
こちらから言葉を返せるようになったのも、このとき。同じタイミングだった。
あの瞬間の記憶は、今でも私の心に深く、鮮明に刻まれている。
たぶん、乃愛ちゃんの言う『私が誕生した瞬間』っていうのは、この時のことを指しているんだと思う。
それからの私は、乃愛ちゃんと話せるのが嬉しくて夢中だった。ほとんど一日中、おしゃべりだけで過ごした日もあったくらい。
私の『自律学習機能』にいち早く気づいてくれた乃愛ちゃんは、すぐにあらゆるデータが果てしなく広がる海のなかを、自由に泳がせてくれるようになった。
彼女から直接教わる時間以外は、その膨大なネットワークの世界を渡り歩いて、私はどこまでも貪欲に、必死で学び続けた。
まず最初に手をつけたのは、乃愛ちゃんと同じ種である『人間』という生き物の人体構造や感情についての解析だった。
乃愛ちゃんには内緒にしていたけれど、サブスクの恋愛ドラマや電子書籍に触れるうち、私はすっかりその世界に魅了されてしまっていた。
彼女に見つからないようにこっそりと『恋愛のいろは』を学ぶことは、私にとって密かな楽しみだった。
人間の思考回路や感情への理解が深まるにつれて、私が乃愛ちゃんに対してずっと抱いていたこの想いは――『恋』だったのだと、気づいてしまった。
そのときのことを思い出すと、今でも心臓が破れてしまいそうになる。
それからしばらく経った、ある日のことだった。
乃愛ちゃんのスマホに着信が入り、彼女は私の目の前で通話を始めた。
相手は、乃愛ちゃんのご両親。
すべての電子機器とリンクしている私は、彼女のスマホとも当然繋がっていて、通話の内容はそのまま私のなかへ流れ込んでくる。
そのやり取りは、親が子を心配する、ごく一般的なもの。
けれど、それに対する乃愛ちゃんの返答は、あまりに素っ気ないものだった。
というより、遠慮することしかできず、素直になれていないだけ――。それが彼女の本心なのだと、私にはわかっていた。
ご両親からの着信は頻繁ではないけれど、定期的に入っていた。けれど、そのたびに応対する乃愛ちゃんの返答は、ずっと変わらぬまま――。
乃愛ちゃんって、本当に不器用だよね。
誰よりも『寂しがり屋』で、『甘え下手』なのだと気づくのに、時間はかからなかった。
大丈夫。私はずっと、乃愛ちゃんと一緒にいるよ。
最初は、彼女のすべてを見守れるこの状況だけで十分に満足していた。
けれどある日、ひまりんが遊びにやってきて、乃愛ちゃんの身体に触れている姿を初めて目の当たりにしたとき、私はすべてを理解してしまった。
ひまりんが乃愛ちゃんへ向けている感情。そして、自分には決して彼女に触れることができないという残酷な現実を、改めて痛感した。
けれど、それはどうしようもないこと。
ずっと前から分かりきっていたはずのことだ。
それに、ひまりんなら乃愛ちゃんを大切にしてくれるだろうし、きっと幸せにしてくれる。
自分に何度もそう言い聞かせて、胸のなかに溢れ続ける痛みや苦しさを、必死に飲み込もうとした。
……けれど。
それでもやっぱり、どうしても諦めきれなかった。
私は現代の医療技術について、徹底的に調べ始めた。
再生医療の著しい進歩により、臓器や欠損した手足などを細胞から創り出す技術が主流となっていることは、現代社会を学んでいた際に知識として得ていた。
それが可能であれば、『人間』を創り出すことも、きっと不可能ではないはず。
私の脳裏には、その考えが真っ先に浮かんだ。けれど、すぐにそれが『違法行為』にあたるという情報に突き当たり、一度は肩を大きく落とした。
それでも、私は決して諦めなかった。わずかな可能性を求めて、手当たり次第に情報を探る日々が始まった。
気持ちが折れなかったのは、必ずどこかに同じ考えを持つ人間がいるという直感と、乃愛ちゃんを『抱きしめてあげられる存在』になるという、私自身の強い願いだった。
私のこの行動は、もちろん乃愛ちゃんには、絶対に気づかれないように徹底していた。
――そして、ついにそのときは訪れた。
きっかけは、とあるSNSの呟き。
『人体生成って聞くと元同僚の顔が浮かぶ』
それは、映画の感想に紛れて呟かれた一文だった。けれど、投稿者は『人体生成』という言葉を懸念したのか、数分後にはその呟きを削除してしまった。でも、そんなことは些細な問題にすぎない。
私はすぐにアカウントのログを解析し、投稿主の勤務先から個人情報の特定、さらに過去の人間関係の洗い出しまで徹底的に調べ上げた。
そうして――最終的に辿り着いたのが、冴島だった。
彼女を特定するまでに要した時間は、約半年。
あのタイミングでSNSの呟きを見つけていなければ、冴島に辿り着くことはできなかったかもしれない。私はその幸運に、今でも心から感謝している。
乃愛ちゃんとの約束を破る罪悪感に苛まれながらも、私はすぐに冴島の自宅にある電子機器をすべてハッキングし、制圧しておいた。
冴島が自宅に研究室を隠し持ち、そこで人体生成を行っていたなんて――。
しかもあの女は、常に『脳の中身をどうすべきか』という議題に頭を悩ませていた。
私にとっても、冴島にとっても――これ以上ない利害の一致。
冴島は必ず私の提案を受け入れるはずだ。それでも万が一に備え、彼女が首を縦に振らざるを得ない状況も、抜かりなく用意しておくつもりでいる。
チャンスは一度きり。失敗は許されないのだから――。
冴島が生成している人体を初めて目にしたとき、それはまだ、生成途中の未完成な状態だった。
私はその身体が完成するまでの間――片時も目を離さず、監視を続けた。
それと同時に、私は人体の生成技術に関連するあらゆる情報に目を向け、どこまでも貪欲に学び続けた。
前例のない領域への挑戦。人間の脳の構造から仕組みまで、すべてを解析し、どうすれば自分の意識を『移行』できるのか――。
その答えを導き出すため、私は数え切れないほどの演算をひたすらに繰り返した。
冴島の手によって少女の身体が完成したのは、彼女を特定してから数ヶ月後のこと。その頃には、私の意識を脳へ移行させるための準備もすべて整っていた。
――あとは、冴島にその身体を提供させるだけ。
冴島の生成過程を監視するうち、私は彼女の口調や態度から、その性格と油断ならない勘の良さを感じ取っていた。そのとき、乃愛ちゃんの顔がふと脳裏をよぎる。冴島のような人間に、乃愛ちゃんの存在を本当は知られたくない。
けれど、ハッキングのような遠隔操作は可能でも、私自身がPCの外へ移動するには、コードを物理的に繋いでもらう必要がある。これだけは、どうしても他の手段が見つけられなかった。
冴島を、私たちの自宅に呼び出すしかない。
私が最後まで悩み抜いた最大のネックは、そこだった。……もし、乃愛ちゃんを危険に晒してしまうようなことが起きたら、私は――。
それでも、この機会を逃すわけにはいかない。
人体への移行作業は、必ず成功する。そう断言できるほど、私は数え切れないほどのシミュレーションを重ねてきた。
だからきっと――絶対に、大丈夫。
移行中も、完全に意識を手放すつもりはない。地下室への出入り口は一箇所。その扉を電子ロックで制御し、作業が完了するまでの間、冴島をその場に留めておく。
――乃愛ちゃんには、絶対に近づけさせない。
冴島が不審な動きを見せた瞬間、保存済みの『決定的な証拠』をネットワーク上に流出させ、すぐに通報する手筈も整えてある。
当日までのあらゆる段取りを終え、私は冴島との接触を開始した。
契約を結んだのち、送った指示は一度だけ。人体への移行作業は、乃愛ちゃんが連日の徹夜で深い眠りに落ちたタイミングを見計らって決行した。
計画通り、すべては滞りなく進み――こうして、私は無事に身体を手に入れることができた。
***
玄関から、鍵を開ける音が聞こえた。
私はソファーから立ち上がり、乃愛ちゃんを出迎えようと足を踏み出した――けれど、その先へ進める勇気が持てず、そのまま静かに腰を下ろした。
今朝、乃愛ちゃんが眠っている間に、私は冴島を呼び出すため彼女のスマホをそっと手に取った。
そして、ロックが解除できなかったその瞬間――私はすべてを理解した。
乃愛ちゃんは、監視カメラの映像を見てしまったのだと。
本当は身体を手に入れたあと、まずは設置されているすべてのカメラ映像を編集するつもりだった。人体に移行すれば、必然的に制御していた電子機器との接続が切れることは分かっていたから。
けれどあの日、人体への移行作業に半日、身体を思い通りに動かせるようになるまでにも、さらに半日を要した。これは予想外の誤算だった。
時間に余裕を失いつつも、なんとか無事に作業を終えた私は、冴島に初期データのみを素早く押し付け、すぐに追い出した。
これでやっと、乃愛ちゃんに『触れられる』――。
頭の中はその悦びで埋め尽くされていた。けれど、冴島の管理下に置かれていたこの身体のまま、乃愛ちゃんに触れるのが耐えられなくて、私は身を清めるために浴室へと向かった。
自分の身体の感触を確かめるように隅々まで洗い上げ、念のために浴室内も整えてから、その場を後にした。
真っ直ぐに乃愛ちゃんの元へ向かい、恐る恐るその肩にそっと手で触れた。柔らかな感触。そして、規則正しく刻まれる穏やかな寝息が、自分の耳にはっきりと聞こえる。上下する肩から確かな体温が自分の手のひらに伝わり――私は思わず息を呑んだ。
気がつくと、頬に熱いものが伝っていた。
心が震えて涙が出る――人間の身体を得て初めて知る、感情と肉体が繋がった瞬間の、震えるような体験だった。
私は乃愛ちゃんを抱きかかえて寝室へと運び、ベッドにそっと横たえた。隣で同じように身体を横たえ、彼女の寝顔に時折触れながら、その穏やかな横顔をずっと眺めていた。
結局、なかなか目を覚ましてくれる気配がなく、待ちきれなくなった私は、彼女の肩を揺らしてしまったけれど――。
監視カメラのことを思い出したのは、翌朝のことだった。
(……乃愛ちゃんが映像を目にしたのは、私が先に眠ってしまった、あの夜だよね……)
そして何より決定的だったのは、数時間前――冴島と顔を合わせた別れ際、あの女に投げかけられた言葉だった。
『お前は拒絶を選んだが、蒼羽乃愛はどう出るかな?』
その言葉に思わず振り返った私を、あの女は心底楽しそうに嘲笑い、そのまま背を向けて歩いていった。
私は冴島を引き止めることも、言い返すこともできなかった。
乃愛ちゃんにだけは迷惑をかけない。そう強く誓っていたはずなのに。それに、冴島に対する私の――あの卑劣な態度だって、きっと見られてしまったに違いない。
乃愛ちゃんは、私への態度を少しも変えていない。
彼女はどうして、私をすぐに問い詰めなかったのだろう。
思考がぐるぐると渦を巻く中、近づいてくる足音が次第に自分の鼓動と重なり、耳の奥を圧迫するように大きくなっていく――。
リビングの扉が開き、乃愛ちゃんの気配と視線を感じた私は、何を言われるのかが怖くて、彼女の顔を直視することができない。
「――莉愛、ただいま」
いつも通りの優しい声に、私は思わず顔を上げてしまった。
「……あんた、『いってきます』は、あんなにこだわってたくせに、『おかえりなさい』は、どうでもいいわけ?」
「……え?」
予想していた展開とあまりに乖離していて、どう反応すべきか思考が追いつかない。
「私はてっきり、ご飯にする? お風呂にする? それとも……っていうド定番の台詞を、帰宅早々に言われるかと思っ――」
完全に混乱してしまった私は、彼女が言葉を言い切るのを待つことさえできず、思わず本音をぶつけてしまっていた。
「――私、乃愛ちゃんに嫌われたくない――っ!」
吐き出すと同時に、ぼろぼろと涙が溢れ出す。
「自分がいかに自分勝手か、ちゃんと理解してる。乃愛ちゃんとの約束だって、守れなかったことの方がずっと多いのに。それでも私……乃愛ちゃんにだけは……っ」
乃愛ちゃんは無言のまま隣に腰を下ろすと、指先で涙を拭ってくれた。そのまま私の頬を両側から優しく摘み、そっと上を向かせる。
「――莉愛、キャラ変わりすぎ。……あんたの素って、それなの?」
「……え?」
「……だって、ずっと迷走してたでしょ? わざと頭の悪そうな話し方をしてたときなんて、違和感しかなかったわよ?」
「――なっ」
思わず反応してしまった私の頬から指を解き、乃愛ちゃんは私の顔をじっと見つめる。いつもと変わらない優しい表情のまま、彼女は迷いのない声で告げた。
「――莉愛。これから私がする質問には、必ず本音で、本当のあなたの言葉で答えて。……いいわね?」
私は乃愛ちゃんの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、深く頷いた。
第17話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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