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加速


「――ちゃん……ねぇ……ってば。……はぁ。本当にしょうがないね、乃愛ちゃんは……」


(……この声……莉愛なの? ……でも、なんだか口調が――)


 意識はまだ深い霧のなか――。声は微かに聞こえるのに、莉愛の姿をうまく捉えられない。


 起きようという意思はあるのに、これまで自然な起床リズムに甘えてきたせいか、身体はまるで鉛のように重く、言うことをきいてくれない。


 それでも彼女の名前だけは、自然と唇から零れ落ちていた。


「……莉愛?」


 名前を呼ぶと、ベッドが軋む音とともに、唇に温かな感触が触れる。


「――んっ」


 触れるだけの、優しい口づけ。


 その感触が離れていくのが寂しくて、無意識のうちに手を伸ばしていた。けれど、指先は空を切る。

 莉愛がどこか遠くへ行ってしまうような焦燥感に駆られ、私は慌てて身体を起こした。


「――莉愛!」


 身体を起こしたその瞬間――ごつん、と鈍い音が響き、額に鋭い痛みが走った。


『――っ!』


 二人の声にならない声が重なる。


 痛みに涙目になりながら瞳を開けると、視界には自分と同じように額を押さえて悶絶する莉愛の姿があった。


「……やっぱり、莉愛だったのね。……よかった」

「……乃愛ちゃん。思いっきり頭突きしておいて、よかったは酷くない?」

「……あ、確かにそうね。莉愛、大丈夫? ……ていうか、なんか話し方が――」


 私が言いかけると、莉愛はそれを遮るように慌てて口を開いた。


「――乃愛ちゃん、おはよう♡ 一緒に朝ご飯食べよ? 莉愛、もうお腹ペコペコ〜〜!」

「……え、ご飯? ……莉愛が作ってくれたの?」

「うんっ! 愛情もいっぱい込めたからね♡ でも冷蔵庫にあるもので作ったから、簡単なものしか作れなくて。今日はパスタになっちゃったんだけど、食材があればもっと――」


 莉愛が『実体化』して、まだ数日。


 調理の様子を見ていたとはいえ、『パスタ』の作り方なんて、彼女の前で見せたことは一度もない。


「莉愛、パスタの作り方ってどこで教わったの?」


 私は少し緊張しながら問いかけた。一体、どんな答えが返ってくるのか――。


「――え? ネットで調べればすぐに出てくるよね? それに、キッチンの使い方はこの前、乃愛ちゃんやひまりんが見せてくれたでしょ?」

「……莉愛、私のパソコンを使ったの?」

「……うん。……あ、もしかしてダメだった? 乃愛ちゃんがいつも『自由にお勉強していいよ』って言ってくれてたから、いいかと思ってたんだけど」

「……調べるのはいいけれど、パスワード、どうしてわかったの?」

「――え? 乃愛ちゃんが使ってる電子機器のパスワードは、全部把握してるよ?」


 莉愛は『当たり前』だと言わんばかりに、さらりとそう言い放った。


 驚いたのは確か。けれど不思議と恐怖はなかった。どこかで『そうではないか』と薄々勘づいていたから。


「莉愛、私のパソコンを使うのは許可するけれど、スマホは勝手に覗かないでよね。それだけは、いまここで約束して?」

「……乃愛ちゃんの『秘密のフォルダ』や、『恥ずかしい検索履歴』まで、もう全部知っちゃってるのに?」

「――キスのこと、やっぱり白紙に戻そうかしら?」

「――あっ、ずるいっ! すぐにそうやって、私が困ることばっかり言って〜〜!」


 いつものやり取りを交わして寝室を出ると、食卓には莉愛の作ったパスタが綺麗に配膳されていた。

 ランチョンマットの上にはフォークとグラスが整然と並び、その中心では、完璧なバランスで盛り付けられたパスタが湯気を立てている。


 他愛もない会話をしながら口に運ぶと、その完成度の高さに言葉を失った。ネットでレシピを調べただけで、いとも簡単にプロ顔負けの味を再現してしまうなんて――。


 莉愛の底知れない適応力の高さに、私はただただ圧倒されるしかなかった。


 もちろんすごく嬉しい。けれどそれ以上に……なんとも言い難い、胸の奥がざわつくような感覚が消えなかった。


 ***


「じゃあ、乃愛ちゃん。……いってきます♡ ……きゃあ〜〜〜!! 莉愛、このセリフずっと言ってみたかったの!!!」


 莉愛はエコバッグを握りしめ、腕をブンブンと振って大興奮している。


「……ねぇ、莉愛。本当に一人で大丈夫なの?」


 私が莉愛に起こされたのは、ちょうど十二時を回った頃だった。


 昼食のパスタを食べ終えると、彼女は『洗い物も私に任せて――!』と張り切り、その勢いのまま、今度は夕食の買い出しへ一人で行くと言い出した。


「乃愛ちゃんって本当、心配性だよね。……でも、ありがとう♡ ――ちゅっ」

「――んっ……。こんなところで、いきなり何するのよ……っ」

「……え? 玄関でいってきますのチューをするのって、鉄板でしょ?」

「それは……はぁ、まぁいいわ。本当、気をつけてよね。……あっ、道路には絶対に飛び出さないでよ?」

「……乃愛ちゃんって、私のこと何歳だと思ってるの?」

「そうね……幼稚園児くらいかしら?」

「……へぇ、そうなんだ。じゃあ、その設定――私がアップデートしてあげる♡」


 莉愛は私の肩をグイッと引き寄せ、そのまま唇を塞いだ。


「――んんっ!」


 今朝の軽い口づけとは違う。すぐに熱いものが滑り込んできて、容赦なく口内を翻弄してくる。


「……っ、はっ……ぁ……っ」


 昨夜ベッドでしたときよりも激しい舌使いに息が詰まり、私はたまらず彼女の肩を押し返した。

 荒い呼吸を繰り返す私に対し、莉愛は乱れひとつない表情で余裕の笑みを浮かべている。


「……莉愛っ。なんであんた、そんなに余裕なのよ……っ」

「……それはね。乃愛ちゃんが気持ちよさそうに眠っている間に、いっぱい『お勉強』したから♡ キス以上のことも学べたし、実践できるようになったら楽しみにしててね♡」


(――何さらっと、怖いこと言ってるのよ――!)


 言葉を失う私に、莉愛は嬉しそうな顔で、もう一度そっと口づけた。


「――んっ」

「……帰ってきたら、もっといっぱいさせてね♡ じゃあ、いってきまーーす!」


 莉愛はなんの躊躇もなく玄関を開け、元気よく飛び出していった――。


 ***


 莉愛が家を出たあと、私はリビングのカメラを意識しながら、いつも通りの動作でお手洗いへと向かった。もちろん、スマホは既にポケットの中に仕舞ってある。


 監視カメラの映像を確認したあの夜、念のためスマホのパスワードを再設定しておいた。もし私が眠っている間に莉愛がパソコン同様にスマホを覗こうとしていたなら、ロックを開けられず不審に思われたかもしれない。


 けれど、莉愛はさっき、スマホのパスワードについて言及しなかった。


 彼女がすでに中身を把握しているのか、それともまだ手をつけていないのか。寝室の監視カメラを確認すれば真実はわかる。けれど、最初から莉愛を疑うような真似だけはしたくなかった。


 ――まずは、冴島との関係を探ろう。


 私は便座に腰を下ろすと、スマホを取り出し、そのままメッセージアプリを開いた。


 すると期待通り、冴島からの返信が届いていた。


『承知した。午後五時、指定の場所にて待つ』


 冴島からの返信は、あまりに事務的で必要最低限だった。

 地下室の映像で見た彼女の冷徹な姿が、脳裏に重なる。


(……ひまりに見せている顔は、やっぱり偽物なのかしら)


 冷たい無機質な文字列を眺め、私は小さく息を吐いた。


 ――ま、それも今日、会えばわかることよね。


 ***


 買い物から戻ってきた莉愛は上機嫌で、パソコンの画面を眺めながら鼻歌を歌っている。


「――莉愛、なんだかずっとご機嫌ね」

「うんっ! スーパーが想像してたよりずっと広かったの! 食材があんなに並んでるなんて知らなかったから、すっごい感動しちゃった〜〜!」

「ふふっ、それはよかったわね」

「それに、乃愛ちゃんに美味しいって言ってもらえたのが嬉しくて。……だから、今夜も気合い入れて頑張るね♡」


 パソコンの画面に映し出されたレシピから視線を移し、今度は上目遣いでじっと私を見つめてくる。


(――っ、……本当、そのビジュアルに加えて、どこまでも完璧なあざとさね……。悔しいけれど、どうしようもなく魅力的でドキドキしちゃうじゃない……っ)


 私はこの高鳴る鼓動を悟られぬよう、平然を装っていつもの口調で切り出した。


「――あ、そうだ莉愛。私、急遽打ち合わせが入っちゃったの。夕食前に少しだけ、出かけてくるわね」

「ええぇ〜〜〜!? そんなああぁ〜〜!!」

「駄々をこねないの。お世話になってる企業さんからのお願いなんだから、仕方がないでしょう?」

「……むうぅ。どのくらいで帰ってこれるの?」

「そうね……、二時間くらいで戻れるはずよ。帰る前にパソコンへメッセージも入れるから。……そういえば、莉愛のスマホもそろそろ買わなきゃね」

「――えっ?! 莉愛のスマホ――?!!」


 スマホという言葉にあっさり機嫌を直した莉愛を見て、ほっと胸を撫で下ろす。


(……ふっ、なんだか手のかかる恋人のご機嫌取りしてるみたい)


 私はそんな自分を自嘲するように、小さく苦笑した。


 ***


「――莉愛、万が一何か問題が起きたら、すぐに連絡してね? いいわね、分かった?」

「もぉ〜〜〜! 乃愛ちゃんそれ、もう何回目〜〜? 大丈夫だってば――!」


 莉愛が買い物へ出かけている間も、私は内心ハラハラしていた。自由に動き回れるようになった彼女が、目の届かない場所でどんな行動を取るのか。もちろん、信じていないわけではない。けれど、どこか得体の知れない不安が拭えずにいた。


「……そう? ならいいけれど。……じゃあ、いってくるわね」


 私が玄関の扉に手をかけたそのとき――不意に莉愛が私の腕を掴んで引き止めた。


「――ちょっと乃愛ちゃん! 『いってきます』のチューはっ!?」

「それはもう、莉愛が出かけるときにしたじゃない」


 本当にそう思っていた私はさらりと返したけれど、莉愛はわざとらしく大きなため息を吐くと、有無を言わせぬ勢いで私の唇を奪った。


「――んむっ」


 強引に舌を絡め取られ、満足するまで口内を攻められる。ようやく唇が離れると、彼女はゆっくり私の耳元へ顔を寄せ、熱を孕んだ吐息とともに甘く囁いた。


「――いってらっしゃい♡」

「――っ!?」


 思わず顔を上げて見つめると、莉愛はこれ以上ないほど満足げに目を細めていた。


(……私、この莉愛には一生勝てないかも……っ)


「……いってきます」


 私はなんとかその言葉を絞り出し、彼女に満面の笑みで見送られながら家を出た――。


 ***


 玄関を出てガレージへ向かった私は、車に乗り込み、電動シャッターのスイッチを入れた。ガラガラと重い音を立て、シャッターがゆっくりと上がっていく。


 エンジンをかけ、出発しようとした――そのときだった。

 ホルダーにかけていたスマホがパッと点灯し、画面に『ひまり』の文字が浮かぶ。


 あとで確認しようかと迷ったけれど、このタイミングで届いた連絡に妙な引っかかりを感じ、私はそのままニャインを開いた。


『乃愛ちゃんごめんね。央理ちゃん、いま私の家にいるの。もし間に合ってたら、連絡もらえると嬉しいな』


「――え?」


 予想もしていなかった事態に、思考がまったく追いつかない。

 けれど、帰宅時間を考えると迷っている暇はない。私はひまりに短い返信を打ち、彼女の自宅へと車を走らせた。


 ひまりのご両親は今日から会議で他県へ出向いており、今夜は不在とのことだった。私は彼女の指示通り、橘家のガレージへと車を停めた。


 インターホンを押すとすぐに返答があり、ひまりはいつもの笑顔で私を迎えてくれた。

 いつもと変わらぬ他愛のない話題を振ってくる彼女に、私もなんとかそれらしい言葉を返しながら、リビングへと向かう。


 視界が開けたそのダイニングテーブルの一番端――。

 そこには、どこか憔悴しきった様子の冴島が、ぽつんと肩身を狭くして座っていた。


 ――え? これって、一体どういう状況――!?



第14話! 読んでくださり、ありがとうございました!


少しでも「続きが気になる!」と思って下さった方は、【ブックマーク】や【評価(☆☆☆☆☆)】で応援していただけると、作者の心のステータスも上がっていくかと思います。……何卒っ!


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